岬と思い出

岬と思い出

足摺岬(四国最南端)

 7月2日から4日の三日間、台風が接近する中、四国の最南端の足摺岬まで車を走らせた。明石海峡を渡り淡路島を通り、鳴門で出て徳島自動車道を走った。一般道に出て渓谷美で知られる大歩危・小歩危に立ち寄った後、高知自動車道経由で目的地に向かった。約500キロの道のりであった。

 足摺岬のある土佐清水市の中浜は、ジョン万次郎の生誕地である。道端には、NHK大河ドラマ決定の看板が目立った。万次郎は1827年貧しい漁師の家に生まれた。14歳の時、足摺岬沖で漁をする漁船の雑用係をしている時に遭難、アメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡った。船長の養子となり教育を受け、1851年購入したアドベンチャー号で帰国した。

 1853年、黒船来航でアメリカの知識と語学力を認められ幕府に招聘された。維新後は東京大学の英語教師になった。

足摺岬灯台

足摺岬灯台

右の後方はジョン万次郎の像

右の後方はジョン万次郎の像

 

 翌日、四万十川沿いに愛媛県大洲に向かった。国道というのにすれ違うのに苦労するほどのくねくねした狭い道が続いた。中江藤樹邸跡を訪れるのが目的であった。県立大洲高校の敷地内にある。近江聖人といわれる中江藤樹は、1608年私の出身地の隣村である小川村に生まれた。9歳の時、米子藩の武士である祖父の養子となった。12歳の時、米子藩主が大洲範囲国替えとなり祖父母とともに移住した。27歳、母への孝行のため小川村に戻った。

 藤樹書院という私塾を開き、朱子学に傾倒し後に陽明学の影響を受けた。

中江藤樹邸跡

中江藤樹邸跡

邸内の額(私の出身中学校にも同じ額があった)

邸内の額(私の出身中学校にも同じ額があった)

 

 四国の最南端である足摺岬のことを書いたので、これまで行ったことのある最北端、最西端など日本や世界の「端っこ」を思い出し記録に残すことにした。

 

平戸(最西端の町)

 平戸という地名は中学生の頃から知っていた。同級生が転校していった先が平戸で、暫くは文通をしていたことがある。平戸は島であるが、九州と橋で結ばれているので九州最西端の町である。

 室町時代の1550年、松浦隆信が南蛮貿易に進出、平戸港にポルトガルの貿易船が初めて入港したといわれる。その年の九月にはフランシスコ・ザビエルが来航しキリスト教の布教を始めた。

 特に鎖国が行われる前の江戸時代初期まで対外貿易の中心として栄えていた。その後、対外貿易の窓口は長崎の出島になり平戸での南蛮貿易は終わった。

 三年前に娘と長崎を旅行した時、平戸を訪れた。

 平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺が交差して見える平戸を代表する風景である。日本と西洋の文化を感じさせる景観である。

平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺

平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺

平戸ザビエル記念教会

平戸ザビエル記念教会

宗谷岬(最北端)

 北海道に初めて行ったのは5年前、70歳を過ぎてからである。礼文島、利尻島を巡るツアーに参加した。羽田空港を経由して稚内空港に到着し、先ずバスで向かったのが宗谷岬であった。宗谷岬はわが国最北端の地である。

 「流氷とけて春風吹いて」で始まる歌謡曲で知られている。6月3日であったが寒々としていた。曇っていてロシア領サハリンは見えなかった。

宗谷岬からサハリン方面

宗谷岬からサハリン方面

 

 

 五年経った今でも記憶に残っているのは終戦直後に起こった悲劇である。昭和20年8月20日、「真岡郵便電子局事件」のことである。

 広島・長崎への原爆投下を知ったソ連軍が8月9日に日本に参戦を表明し、当時日本領であった樺太に侵攻してきた。ソ連兵の略奪、殺害、性的暴行を怖れた真岡郵便電信局の電話交換手をしていた若い女性12名の内9名が青酸カリなどで自決した。最果ての地の出来事で、本州ではあまり知られていない。

 

潮岬(本州最南端)

 潮岬は本州最南端の岬である。潮岬は和歌山県串本にある。「ここは串本、向かいは大島、仲を取り持つ巡航船」の串本節を思い出す。祖母が祝い事や宴会などがあると、伊勢音頭とともに串本節をよく歌った。明治生まれの祖母の世代にとっては、白浜や潮岬が観光地であったようだ。

潮岬(本州最南端)

潮岬(本州最南端)

 

 

知床岬(二番目の東)

 森繫久彌作詞作曲の「知床旅情」で知られる知床岬は、昨年9月に訪れた。金沢からクルーズ船に乗り船中で二泊、苫小牧港に着き阿寒湖で一泊、バスで長い距離を走った。知床五湖を散策の後、船で知床半島を巡った。

 

知床五湖

知床五湖

知床半島

知床半島

 

 この時乗った船に、かつて勤務した会社の製品が備え付けられているのに気づき驚いた。救命ボートである。遭難すると自然に膨らむゴムボートである。

住友電工製救命ボート

住友電工製救命ボート

 

 

ロカ岬(最西端)

 ユーラシア大陸最西端にある岬である。ポルトガルの首都リスボンから、程遠くないところにある。今年3月に訪れた。ロカ岬へ来たことの証明書を有料でもらえるとの添乗員の説明であったが、確かなのは自分の目だと言い聞かせ、岬に先端に立った。強風が吹きすさび、吹き飛ばされそうであった。

 岬には碑が立っている。案内書によると「ここに地終わり海始まる」の意味だそうである。ポルトガルは、日本に鉄砲やキリスト教をはじめヨーロッパ文化を伝えた国である。同じ海洋国家である点が共通している。

ロカ岬から大西洋を望む

ロカ岬から大西洋を望む

碑

寒風の中であったが、既に花が咲いていた。

寒風の中であったが、既に花が咲いていた。

 

 これらの岬は、何らかの形で外の世界とつながりがあることがわかった。それぞれ物語がある。決して日本や世界の「端っこ」ではない。

 

 最後に鉄道の駅と関連する施設を紹介して締めくくることにする。

 

稚内駅(最北端の駅)と幌延深地層研究センター(最も深い施設)

 

 稚内駅はJR最北端の駅である。サハリンと地下トンネルでつなぎ、ロシア大陸と直結するアイデアがあるが、当面実現の可能性はない。初めての北海道旅行の時のことである。稚内駅を出発し、宗谷本線を南下し幌延駅で下車した。

稚内駅

稚内駅

 

 稚内駅を出発し、宗谷本線を南下し幌延駅で下車した。ここから東北東3キロのところに、幌延深地層研究センターがある。日本原子力研究開発機構が管理する施設で、地下350メートル以上深さへの放射性廃棄物の地層処分に関する研究をしている。地下350メートルは経験した最も深い地点だと思う。

 

宗谷本線を走るジーゼルカー

宗谷本線を走るジーゼルカー

幌延深地層研究センター全景

幌延深地層研究センター全景

地下内部

地下内部

信濃川上駅(標高一の隣の駅)

 一番標高の高い所にある駅は長野県の野辺山駅である。信越線小諸駅と中央線小淵沢駅を結ぶ小海線の長野県の南端に位置する駅である。 駅の標高は1,345.67m。野辺山の小諸寄りの隣の駅が信濃川上駅である。川上村はレタスなどの高原野菜で知られる村である

 大学に入学した年の夏休みにほぼ一か月すごしたことがある。材木業のお宅で、三食付きの家庭教師のアルバイトであった。東京の音楽大学を目指していたお嬢さんの勉強の手助けをした。大学に入学したばかりで、向学心に燃えていたのか、ドイツ語で書かれた「DAS KAPITAL」3巻を持参し読破しようと考えた。歯が立たず、中学生の弟と近くを流れる千曲川で魚を釣ったり水浴びをしたりする毎日であった。

 二年前の秋、軽井沢での大学クラス会に参加する途中に立ち寄った。50数年ぶりのことであった。その頃と変わらないひっそりとした駅であった。(髙田 忍)

信濃川上駅駅舎

信濃川上駅駅舎

グーグルアドグランツ悪戦苦闘記

グーグルアドグランツ悪戦苦闘記

 

 NPO法人になるといろんなメリット、寄付金を受けられ国が特定非営利活動法人として認定を受けると慈善事業に準ずる対象として著名な企業から寄付などを受けられるとインターネットで知り、2017年の秋NPO法人になることを髙田会長に進言し特定非営利活動法人申請に賛同して頂き実行に移していただいた。髙田さんは幾度となく所管の大阪市にご足労いただき、実に手間のかかる定款作成、事業計画書など苦労して作成され提出して頂いた。数ヶ月の期間を経てようやく受理され特定非営利活動法人として承認を2018年4月2日付けで受け国の認める法人登録に至った。

 

 この傍ら2月か3月ころ、言い出しっぺの重たい責任が生じ早速アドグランツ承認の作業に取り掛かろうとした。甘く単純に法人申請すれば簡単に申請出来るだろうと素人考えでいた。物事には道理があり薄っすらと闇雲に誰にでも申請できるものではないだろうとは思っていたが・・・早速、やりかけた途端「法人登録番号」という暗礁に乗り上げた。これがないと何もできない。

 

グーグルのNPO支援に関する情報

「Google Ad Grants の仕組みは Google AdWords オンライン広告配信サービスと同じで、非営利団体を検索しているユーザーをターゲットにしてあなたの団体のメッセージを表示します。非営利団体の条件を満たしていれば、毎月 10,000 ドル USD 分の AdWords 広告費が助成されます。」

 最初この一節を読んでこれは新会員募集に絶対的な効果があり会と会員に寄与し皆様に喜んで頂けると信じた次第である。

 

 ところがどっこいである・・・Google Ad Grantsを申し込もうと嬉々として申し込み着手。世界共通のNPO団体のインターネット認証、テックスープという組織がありここへ登録認証する事が先であると判明、これがないと一歩も先に進めないことがわかり、テックスープへ登録しようとしたら【法人登録番号】が必須であった。

 

 特定非営利活動法人申請申請は髙田さんにより確かにされたが、法人登録番号は申請したからと言ってすぐに頂けるものではなかった。じれったい気持ちで今か今かと毎日パソコンで法務局サイトをアクセスし登記完了し番号公示されるまで待っていた。ある日法人登録がされようやく登録番号をネットから得た。

 

 小躍りしながら早速テックスープに登録申請した。ここまでは法人番号さえあれば簡単に登録できた。

 

 一般にネット上の申請は自動迅速で間もなく登録申請が受理され、確認メールで登録完了した。テックスープにあるNPO特典の数々を読んでにんやり、「こりゃ楽勝だ」と小躍りしたのはここまで、あとに地獄がまっていた。

 

 このGoogle Ad Grantsのシステムが実に難解で厳しい。Googleにアカウント登録は有ったのであるがNPO法人として登録していないので日頃使っているメールアドレスを使ってアカウントを作ってしまった。これが以降最後まであとを引き幾度となく拒絶さればかりであった。もはやこれまでかと天を仰ぐ始末、方法がわからない。NPO団体があまりこの制度を利用していない理由がほんのりわかった。

 

 問題はアドグランツ申請に必要なテックスープで登録したメールアドレスと異なる別のメールアドレスを使用していたのが最大のミステークだった。この結果拒絶の嵐に遭遇したわけであった。一度別アカウントにメールアドレスを登録してしまうと商業使用で使われた同じユーザーだと判定され、どう変更したらよいか?どれとがリンクしているのかすらわからず苦労した。

 

 このようなネット認証で一度既存のメールアドレスを使用してしまうと、システムは同一のものとみなし条件を満たさないと自動的に却下。一度作ってしまうと取り消しが利かないらしい。仕方なく登録に使用したメールアドレスをアカウントの補助連絡先と登録したものまで削除し新たにアカウントを作成した。

 

 ジレンマに落ち、悪あがきの結果いつの間にかアカウントを4つほど作ってしまっていた。一体どれがどのアカウントか?どれがアドグランツのアドワーズアカウントか?事を起こした自分でさえもはや不明。この間既に一月が経過していた。何をやってもだめ。折を見て落ち着いてチャレンジしようと決め何度もやったが駄目だった。

 

 仕方なくどこか手助けしてくれる業者(費用は言いだしっぺ自己負担を覚悟)をネットで物色した、いない。ある日検索して漸くNPO団体でアドグランツ登録を無料で手助けしてくれる業者を偶然見つけ、そこへ丸投げを試みた。しかし、数日立ってこちらも何故か、うまく行かない様子。

 

 ある日業者からホームページにタグ付けをするように指示を受けた。「うまくいきそうだ助かった!」任せていれば済むだろうと甘く考えた。

 

 指示された作業は過去にやったことがあるのでタグ付けをしようとやおらホームページのWP(ワードプレス)管理画面でタグ付けのテキスト画面に切り替えようとした。こんどはどういう訳か?WPシステムが受け付けない。いくら切り替えスイッチをクリックしてもテキスト画面に切り替えられない=ということはタグ付けができない。ここでまた挫折。

 

 色々やった挙げ句自分には到底手に負えない。業者にワードプレスのIDとPWを渡すからNPO業者になんとかして欲しいと願い出た。しかし業者は、「タグ付けでサイトが故障した場合責任を持てないから出来ない」とすげなく断ってきた。ここでまた挫折。WPホームページの恐ろしさはプロですら嫌がる代物、タグ付けなど嫌がるのは理解できるし・・・仕方ない、気を取り直してなんとかやってみようと症状を検索し解決方法を探った。ネット上の説明ではプラグインで解決とか色々有ったが余計に難しくするばかりの方法であった。

 

 「タグ付け」とは閲覧者がホームページを閲覧しても見えないグーグルに感知させるプログラムを裏に忍ばせる作業で、特殊な書き込みがサイトの目に見えない裏の部分に書かれているものを指す。サイトがアクセスされると瞬時に検索エンジンが感知し反応すると言った簡単なプログラムである。これをトップページの指定された場所とランディングページにタグ付けする(要するに前と後ろに)ように指示を受けたわけで、これが出来ないと一歩も先に進めない。

 

 一旦この作業は諦め、しばらく頭を冷やしてネット検索で原因を調査していたら過去に入れた別のプログラム(プラグインと呼ぶ)が動作を止めている可能性に気がついた。そのプラグインを停止すると、突然テキスト形式に切り替えることがやっと出来た。黒い雲が晴れ始めたような気分だった。

 

 今度は別の自分の知識上の問題に気づく、ヘッダーとボディの後ろにタグを書き込めと指示されているが、ヘッダーとボディの表現がNPO業者の書いたのと違っておりサイトを壊しそうな気配におののきながら、こうなれば危険を冒す以外方法がないと觀念。それに似た表現のものを探しおっかなびっくりだが誤っていれば書き直せばよかろうということで早速作業を完了した。メールで業者に連絡し動作確認したところタグ付けは問題はなく書かれているとメールで返事が帰ってきた。やれやれである。

 

 ところが数日して承認されたかと問い合わせたところ、駄目だった。

 

 自分のやったことは自分にしかわからない。やはりアカウントの設定にミスがあると感じ、矛盾を起こしているメールアドレスを削除し新しくアカウントをグーグルの手順書をじっくり読みながら再作成し再度登録依頼を業者に依頼した。

 

 今度は業者がある程度宣伝分などの書式に手を出せるよう、業者を管理者として登録(当たり前だが主体になる者が許可しないと外部から手出しできない)した。

 数日後業者が作成した宣伝の番号を自身の番号と関連付ける作業をしろという指示がメールであった。おそらくこれをすればうまくいくだろうと期待。しかし専門的にやっている者は簡単にわかるだろうが、藤四郎の知識では画面のどのどの位置に番号を書き込むのかわからない、また業者に連絡した。馬鹿らしい質問なのだろう返答がない。仕方なく論理的にこうなるだろうと思われる番号打ち込みを冒険して入れてみたところ画面がアクティブになった。チェックを入れて送信をクリック!システムに受理されたとの画面表示。

 

 しばらくしてグーグルから登録が受理され申込みはアクティブになったというメールが着信した。この間既に約2カ月が経過、作業をする時必ず気合を入れ「今度こそは!」を何度やったかわからない。

 

 アドグランツ承認がされて、業者へお礼とこの先どうするか?質問するも返答がない。だが肝心の広告がされていない!仕方ないので仕事の合間を見て今度は主催者であるグーグルの担当サポートへ電話し解決しよう考えた。しかしサポートを受けるにはご存知かもしれないが相当待ち時間がかかり、電話で画面確認や入力などかなり暇がいるため、よほど時間に余裕があるときでなければ出来ない。2時間ほど時間をあけられる機会を狙ってまた数日たった。来客や電話問い合わせ回答などで時間が取れなかったからである。

 

 思い立ってからまたズルズル時間は経った。やっと数日後時間に余裕ができたのでグーグルのサポートに電話をかけて設定に間違いがないか確かめたところ、「ほとんど完了しています。しかしユーザーによる最後の確認がされておらず宣伝が開始されてません」とのことで・・・

 

 言われるまま登録された画面を開けたところ、今までになかった確認画面がトップ表示され確認のリクエストが出ていた。チェックを入れるようになっていたのでチェックを入れ送信をクリックした。一緒に作業していたグーグルの担当者が「手続きが完了しました」と嬉しい返事があった。最初電話口に出た女性の声から憶測してかなり若い女性で大丈夫だろうか?思惑と違い実によく理解している担当者であった。この間のやり取りは、2カ月掛かって四苦八苦したどり着いた最終段階で約20分程度のやり取りであった。苦労が報われた感動的な瞬間だった。

 

 サポート担当者曰く、「支払い方法には一切手を触れないでください」と警告を受けた。支払い情報でクレジットカードなど入力するとシステムが無料でやっている広告の費用を請求する場合があるとのことで無料提供を受けている限度額いっぱいの宣伝設定を行っておりで毎月10000ドル言い換えると120万円も請求されたら・・・おぞましい限りではある。

 

 

 一旦完了したということで電話を切って、確認を行ってみた。キーワードを検索画面に入力し検索したところ所定の検索結果のトップページの上段に我が会の会員募集の広告がなされていた。成功である。

 

 検索キーワード設定は、iPS 治療、黄斑変性症、加齢、歪み、見ようとするところが見えない・・・など考えられるキーワードを散りばめてある。オーディエンスすなわち目で苦しむネット閲覧者が検索で我々の患者会が存在し新規会員募集中で有ることを知ってもらうのがこの宣伝の趣旨である

 

 未だアドワーズエキスプレスの設定は勉強中で詳しく十分に理解したとは言えないまでもこれ以外に設定したキーワードで広告がなされており機能していると実感している。言い出しっぺの当初の目的は達成できただろうと考えている。これ以外に制限のないNPOユーチューブ利用(目の不自由な方へ情報伝達の有効な手段となりうる)、マイクロソフトのオフィス365利用などの利用展開を開始している。

 

 

平成30年6月20日

星野 龍一

サプリメント

サプリメント

髙田 忍

10回目の注射

5月22日、3カ月ごとの定期検診を受けた。先生は眼底写真と断層写真を見せて「水が溜まっているので、注射をしましょう」といった。

「断層写真を撮るときに点滅する赤い線は縦横ともまっすぐに見えましたが」と訴えたが、眼底の赤い部分が水だという。

初めて注射したのは4年前、2014年9月の事であった。今回は昨年の12月に続いて10回目となる。次の写真は昨年12月19日のもので、赤い部分がかなり多かった。

それから3カ月後の2月6日は、治療の効果があったのだと思う。赤い部分が少なくなっていた。このときは、注射はしなくて済んだ。

10回も注射すると慣れてくる。ベッドの上で仰向けになると「まな板の上の鯉」のようだ。それでも気分のいいものではなく、不安もある。今回も医師から「血管に傷をつけてしまい充血させてしまった」と言われ、翌朝まで不安であった。幸い大事には至らなかった。できることなら、注射は少なくしたい。その間隔を広げたい。

サプリメントをのめば、症状の進行を抑えられるのではないかと思い、医師に尋ねるとOcuviteのサンプルを手渡された。

 

サプリメントを試す

サプリメントとは、栄養機能食品のことである。Ocuviteにはルテインという成分が含まれている。ルテインは黄斑部に集まる色素を構成する大切な成分である。これは青色光遮蔽するといわれている。この成分は、体この内で生成できない成分で加齢とともに不足がちになるので、黄緑色野菜などから摂取する必要がある。

今迄、栄養は自然の食品から摂るものと決めていたが、試してみることにした。アマゾンに注文すると翌日に配達された。価格は60粒3ケース入りで6800円。一日二粒をのむので90日分である。コストは1日当たり約75円である。

少しでも注射の間隔が伸びるのか、効果を確かめることにする。間隔が伸び、注射の回数が減れば、経済的にも負担が減ることになる。

 

神坂真佐子さんの体験談を読んで

神坂真佐子さんの体験談を読んで

 神坂真佐子さんの体験談を読ませていただいた。3月15日の神戸アイセンター見学会で初めてお目にかかった方である。その時は忘れ物をされるなどしたため、世話の焼ける「お婆さん」という印象を受けた。

 

 ところが、そうした第一印象とは違って、体験談に書かれた内容は示唆に富む点が多い。労作である。目が不自由なことを嘆かずに、色々と挑戦されている姿に感動を覚えた。

 

 先ず、第一に家族のことが書かれている。息子さんが、車の運転による事故を心配して住まいを兵庫県の三田から、車がなくても生活できる大阪の京橋近くの放出という所にあるマンションに引っ越された。しかも新しい住まいに便利な病院をネットで探し出す。難病の患者にとっては家族の支援は欠かすことが出来ない。

 

 息子さんの年齢は分からないが、おそらく50歳代の働き盛りだと思う。仕事から疲れて帰って、眼の不自由な母が作った料理をだまって食べておられる姿は目に浮かぶようだ。

 

 医療機関については、批判的な言葉はないが、問題点が浮かび上がる。折角診てもらおうと行った眼科や病院でたらい回しされる。同じ眼科でも専門が違うと言って診察を断られる。病院には白内障や緑内障のパンフレットは置いてあるが、加齢黄斑変性のチラシは置いていない事実などが浮かび上がった。

 

 両眼だけでなく脊柱管狭窄や肺炎などを患いながら、家に引きこもらず積極的に体や頭を使って若さを保つ努力をしておられる。老犬を散歩に連れ出したり、歌を歌う会に出たり、筋トレや脳トレなど積極的である。さらに驚いたことは、アイパッドを使いこなしていることだ。メールを通じての友人との会話や、息子やお孫さんとラインでつながり、心豊かな生活を送っておられる。とても83歳の女性とは思えない若さである。

 

 一日も早く先進的医療が実用化し、「お料理を目でも味わいたい」という夢が、夢でなくなることを願いたい。この体験談は、多くの高齢の患者や家族に病気とどのように向き合うかのヒントを与えてくれる。一人でも多くの人が読んで下さることを願うばかりである。

(高田 忍)

59年ぶりの甲子園

59年ぶりの甲子園

3月23日より阪神甲子園球場で開かれる春の高校野球全国大会に我が母校、滋賀県立膳所高校が出場することになった。今年は90回の記念大会で21世紀枠に選ばれた。59年ぶりの甲子園である。昭和34年で三年生になる年であった。

写真は卒業アルバムに掲載された入場行進の模様で、当時はボーイスカウトがプラカードを持ってチームを先導した。

 

 

対戦相手は四国の強豪高知高校で、6回表に一点を入れてリードしたが、9回裏に逆転負けした。アルバムには9回表までのスコアボードの写真が載っている。

 

 

その後、昭和53年の夏の大会に出場したが群馬の桐生高校に18対0で大敗した。

是非とも今年こそ一勝してほしいものである。

 

今年は記念大会ということもあり36校が出場する。このうち、一度も全国優勝したことない滋賀県から3つの高校が選ばれた。そのあおりを受けたのか、何度も優勝校を出している兵庫県から出場する高校はない。不思議といえば不思議である。

エビ茶色のポンポン帽子

エビ茶色のポンポン帽子

 いつも行くスーパーにある用品店でエビ茶色の毛糸の帽子を見かけました。トップに同色の大きなポンポンがついています。ほしいと思いましたが、その日は買わずに帰宅しました。

 

 77歳になる婆さんが小さな女の子が被るような帽子がどうしても欲しくて、次の日お店に行きました。

 

 鏡に向かって被ってみる。「アーラ似合うやんか」。迷わず買いました。いくつか持っている冬帽子はどれも黒っぽいものなのできれいなエビ茶のポンポン付き帽子が自分のモノになってうれしがっています。

 

 つばがないので目を患って日差しを避けたい私は良いお天気の日は被ることはしませんが、どんよりと雲のたれこめた寒い日はこのポンポン帽子でお出かけするのを楽しんでいます。

 

(Fさん、78歳女性、滋賀県)

患者会で得たこと

患者会で得たこと

―私たち夫婦の体験から―

高田 忍

妻の場合

1.妻に余命宣告

 妻に病魔が襲ったのは2010年8月のことである。今でも忘れもしない8月6日、広島原爆投下の日の朝いつもより早く起きた妻が大阪の大学病院へ行くと言い残して出て行った。夜中に血を吐いたという。大阪の大学病院へ行選んだのは、10年近く感染性心内膜炎という心臓の病気で通っていたからである。

 

 三日続けて行われた検査の結果、骨髄異形成症候群と診断された。血液癌の一種で骨髄の中にある血液を造る細胞が破壊され、赤血球、白血球、血小板が造れなくなるとい厄介な病気である。大学病院の病室が満室で自宅近くの市民病院に緊急入院することになった。

 

 入院の翌日、医師は私たち二人を前にして「一年後の生存率20%」と余命宣告した。治療法はCAG(キャグ)という抗癌剤治療しかないとの説明である。事態を直ぐには受け入れることが出来ずパニックに陥った。妻はこの日の日記に「どん底」と気持ちを現わした。

 

2.患者会との出会い

 これにさかのぼること8か月、その年の1月に私は前立腺癌と診断され、京都の大学病院へ通っていた。数カ月のホルモン注に続いてIMRTという放射線照射を受けることになっていたその矢先のことである。

 

 京都の大学病院には癌支援センターがあり、そのコーナーに色々な癌患者団体のチラシが置かれていた。血液癌の患者会の集いがあることを知った。和歌山で行われた会合には家族として参加した。何人かの医師が病気や治療法についての講演をし、個別相談会では病気の説明や治療法を聞いた。製薬会社がスポンサーについていて、お土産のトートバッグをもらった記憶がある。その後、大阪本町のビルの一室で行われた患者と家族の懇談会にも参加し、お互いの悩みを語り合ったことがある。

 

3.朝ご飯一緒に食べましょう

 京都の大学病院から戻ると、妻のもとへ洗濯物を届ける日がしばらく続いた。老老介護ならぬ病病介護と自分自身に言い聞かせていた。放射線治療を受けて、さらに妻のもとへ駆けつけるのは正直疲れた。幸い、抗がん剤の効果が出て入院から3カ月後には退院することが出来た。

 

 その翌朝,妻は「これからは一緒に朝ご飯を食べましょう」と言って起きてきた。その日までは長年の生活習慣から、朝食は別々に食べていた。この日から二人で過ごす時間を増やすようにした。

 

 ところが、年が変わると再び病状が悪化し、入院することになった。治療法は同じ抗癌剤治療であるという。

 

4.ある女性のアドバイス

 同じ治療を続けて治るのか確信が持てなかった。そこで、名古屋の国立病院へセカンドオピニオンを聞きに行くことにした。名古屋を選んだのは骨髄移植で実績があり評判が良いと知ったからである。しかし結果は同じで医師の説明は変わらなかった。

 

 この時、名古屋に住む女性が同行してくれた。母親が同じ病気で亡くなったという。医師との面接が終わった後、名古屋城近くの喫茶店で女性から患者である母との接し方についてアドバイスを求めた。

 

 女性は「この病気は治らない。このことを前提に残った人生を楽しく送らせてやることが大切だ。母を温泉につれて行き、好きな刺身は火を通してたべさせるようにした」と反してくれた。この言葉は、それからの妻との接し方を考えるうえで大変参考になった。

 

5.カモミールおいしい

 その後、妻は入退院を繰り返した。治療は輸血しか方法がなくなった。医師から感染症の危険があるので人ごみを避けるように言われていた。一週間に一度の通院は電車を使わず、車で国道二号線を走り神戸の病院へ通った。

 

 輸血もなく早く終わった日にはスーパーに立ちより食材の買い物につき合った。買い物は主婦の楽しみの一つである。妻は鰤の照焼きが得意料理であった。遅くなる時は、近くのホテルに泊まり最上階のレストランで神戸の夜景を見ながらフランス料理を食べたりもした。身だしなみは女性にとって大切である。時には美容院へ送り迎えしたこともある。

 

 そうしたことも手助けになったのかもしれない。心に安らかさが戻った。妻が残したメモがある。メモには「カモミールおいしい」と書かれていた。喉に通るものと言えば、ハーブティーしかなかったのである。一年どころか、17か月、発病から544日も生きてくれた。

 

 それから、一年半後に闘病記「カモミールおいしい」を出した。

 ご希望の方には無料で差し上げます。連絡先090-6905-0872

カモミールおいしい

カモミールおいしい

 

私の場合

6.歪んだパソコンの枠

 妻が亡くなって3年経った2014年8月も終わりの頃である。いつものように早朝パソコンに電源を入れた。パソコンの枠が歪んで見える。疲れのせいかとも思った。たまたまその二日あとに人間ドックで定期検診を受けることになっていた。これが幸いした。

 

 眼科の診察室前に掲げられた医師の名前の札も歪んで見えた。医師にそのことを訴えると、早速翌週の水曜日に検査をすることになった。検査の結果、右眼が加齢黄斑変性であると告げられ、その日のうちにアイリーアの注射がなされた。

 

 白内障、緑内障なら聞いたこともあるが、こんな病気の名前聞いたことがない。一体、どのような病気なのか良く分らなかった。その後一か月おきに合計3回受けた結果、しだいに安定状態を保つことが出来た。早期発見早期治療のお蔭である。

 

7.集いに参加

 二回目の注射を受けに行った時、病院の待合室の掲示板を目が止まった。患者会の集いがあるポスターが貼られていた。早速、メールで世話役をしている東京の神谷さんに参加したい旨伝えた。中之島の大阪市中央公会堂で開かれた集いには多くの人が参加していた。東京の患者が体験を語り、星野さんの眼鏡の話もあった。早速、眼鏡の調整もしてもらった。暫く控えていた車の運転も再開した。

 

 その後、1~2回関西での集いに参加したところ、翌年の2015年5月、神谷さんと星野さんから関西でも患者会を作るので世話人になって一緒に活動しないかと打診を受けた。

 

 一つ返事でお受けすることにした。理由は二つあった。一つは妻の病気を通じて患者会の役割を知っていたからである。患者は、それぞれ医師から聞くことのできない貴重な経験を持っている。患者会を作って経験交流の場を設けることは必要なことだ。もう一つの理由は、定年後大学関係の仕事が少し残っていたが、75歳でこの仕事が終わる。しかし、少しでも世の中とつながりを持っておくことは自分自身のためにもなる。

 

 そういう思いから引き受けることにした。その年の10月に関西黄斑変性友の会が会員数20数名で発足した。

 

 第1回会合は12月に住友病院の講堂で、同病院の五味文先生から講演を聞くことから活動を始めた。

 

8.体験談集など情報発信活動に注力

 右眼は早期治療の効果もあり安定した。左眼は問題がなく、右眼をカバーしてくれるので、日常生活に不自由を感じることはない。積極的に動くことを心に決めた。

 

 患者会は医師から聞くことのできない体験を交流し合うことにあるとの考えから、それぞれの会員から体験を募り冊子を発行した。高齢者の医療制度など一般情報などをまとめた「サードオピニオン」というタイトルで出した。かなり費用が掛かり、年会費だけでは不足したので、会員の皆さんに寄付をお願いした所、多くの方から協力を頂き、大変うれしい思いをした。

 

 iPS細胞の臨床研究に関する情報も精力的に集め、会員に伝えるようにした。NHKの健康番組の情報もいち早くキャッチし、放送予定日を会員に伝えるようにもした。

 

 新聞やテレビなどの報道機関からの取材にも積極的に応じた。ホームページを立ち上げ、広く会員以外への情報発信に努めた。さらに外出を控えがちな会員のためにハイキングを企画し実施した。これには会員の家族のサポートがあった。

 

 これらの活動の成果が実り、会員は関西だけでなく、全国に広がった。そこで、5月にはNPO法人に発展させより充実した活動を目指している。

 

9.飛鳥ハイキングで学んだこと

 こうした中、昨年暮れに左目に異変が起こった。目の真ん中に薄い膜が貼っているようで字が読みにくくなった。先生に診てもらったが、加齢黄斑変性ではなく治療法はないとの診断である。右眼をカバーしていた左眼が役に立たなくなった。紙の新聞は文字が小さくて読めないの。タブレットを購入し大きな字なら読めるようになった。

 

 1月30日、好天の中、奈良県飛鳥地方のハイキングを実施した。参加者は男女各4名ずつの8名であった。古代の都を歩いた。高松塚古墳、石舞台古墳、そして日本で一番古い仏教のお寺飛鳥寺を参拝し、奈良の大仏より古い大仏との説明をお坊さんから聞くこともできた。楽しい一日であった。

 

 なによりも良かったのは、みんなで一緒に食べた昼食の時と帰りの電車に乗る前の喫茶店での懇談であった。大津から参加したFさん(男性)が話した音の出る時計やタブレットの幅広い使い方は大変参考になった。大阪から参加したHさん(女性は)、視力が0.01で杖を突きながら、支援者の助けを借りながら1万8千歩、約8キロを歩いた姿は感動的であった。それ以上にその感想の言葉が励ましになった。

 

 「眼と足が不自由な者にとっては、一番楽なのは家にいる事です。でも外出すれば、足も使えば手も使う。そして不自由な眼も使う。すると脳が刺激され頭も使うことになる。これが元気を保つ秘訣です。」

 

 大変勉強になった有意義な一日でした。

 

 今迄は日常生活に不自由を感じなかったため、主に情報を送る立場のみを患者会の中においてきたが、これからは他の人の経験を積極的に取り入れる立場も考えに入れて、悔いのない人生が送れるようにしたいと考えている。

 

眼に検査と写真

眼の検査と写真

 加齢黄斑変性の患者は、二か月から三か月に一回の頻度で病院を訪れます。

 私の場合、受付で診察カードを見せると、ほどなく検査室に呼ばれます。

1)先ず細い穴から風がと吹き出してくる眼圧検査を受け、続いて視力検査を受けます。(トノメーター 眼圧計測定)

2)丸い輪の空いている向きを検査の人に伝えます。あてずっぽうでも大体正しいようです。(視力検査 ランドルト環)

3)それが終わると,瞳孔を開く目薬が点されます。20分ほど待合室で待った後、再び検査室に入り眼底の写真が撮影されます。(散瞳)

4)非常に眩しい光を当てられますが一瞬のうちに終わります。続いて赤の縦線、横線が出てくる検査を受けます。断層写真です。(OCT撮影、OCT画像の見方

5)検査が終わり、しばらくすると診察室に呼ばれます。医師はレンズを通して眼の中を観察します。(細隙灯顕微鏡検査)

6)そしてパソコンの画面を見せながら、状態を説明し抗VEGF薬の注射をするか判断します。

 この時示される写真(OCT撮影画像)を毎回貰うようにしています。初めて受診したころは、写真をもらう考えは浮かびませんでした。ある時、内科のことを思いつきました。内科では、尿検査と血液検査を受け場合は、要求しなくてもコレステロールや中性脂肪、尿酸値などのデータをくれます。過去数回のデータを示して、傾向が分かるようになっています。医師は生活習慣の指導をします。

 そこで、発症時からその時までの写真を頂けないか尋ねたところ、快くOKしてくれました。その写真を見て納得したうえで注射の治療を受けるようにしています。

 眼科の場合は内科と違って、要求しなければ写真の提供はないようです。遠慮しないでもらうようにして経過を把握し、自分の目の状態を理解することをお勧めします。

 下の写真は2014年9月発症直後の断層写真です。素人目にも異常であることがわかります。

 次の写真は発症から2年半後のものです。このときまで4回眼球注射をし、安定していましたが、やや膨らみが出たので注射することになりました。

 内科と違って、眼科の場合は要求しなければ写真の提供はないようです。遠慮しないでもらうようにして経過を把握し、自分の目の状態を理解することをお勧めします。

 神戸市立神戸アイセンター病院「外来受診のご案内」に「患者の権利と責務」が書かれています。どこの病院であっても共通することだと考えます。検査結果の写真は「権利」の3項と4項を根拠に貰うことが出来ます。ただし権利には義務が伴うことを忘れないように。


 神戸市立神戸アイセンター病院 

患者の権利と責務

 患者さんには、医療を受けるにあたって、憲法が保障する基本的人権の尊重を要求する権利があります。一方で、医療は患者さんと医療提供者がお互いの信頼の上で協働して取り組むべきものであります。

 神戸市立神戸アイセンター病院は、医療の中でこれらのことを実現することが何より大切と考え、ここに「神戸アイセンター病院、患者の権利と責務」を制定します。

患者の権利と責務

権利
1. 病気にかかった場合には、だれでも良質で適切な医療を安全かつ公平に受ける権利があります。
2. 医療を受けるにあたっては、一人の人間として、その人格や価値観などを尊重される権利があります。
3. 病気、検査、治療、見通しなどについて、わかりやすい言葉で説明を受ける権利があります。
4. 十分な説明を受け、かつ納得したうえで、検査や治療方法などを自分の意志で選ぶ権利があります。
5. 自分が受けている診断や治療について、他の医師の意見を求める権利があります。
6. 自分が受けている医療を知るために、診療記録の開示を求める権利があります。
7. 診療中に得られた個人の情報が厳密に保護され、また、自分のプライバシーが他人にさらされず、乱されない権利があります。
8. 研究途上にある医療に関しては、目的や危険性などについて十分な情報提供を受けたうえで、それを受けるかどうかを決める権利と、いつでも中止を求める権利があります。
9. 市民の一人として健康の増進と病気の予防を自分の責任で行うため、それに必要な健康教育を受ける権利があります。

 私たちは、上に掲げた患者さんの権利を充分に尊重した医療に取り組みます。しかし、一方では権利には義務が伴います。患者さん及び家族の皆様には次のような配慮をお願いいたします。

義務
1. 医師をはじめとする医療提供者に、皆さんご自身についての情報提供してください。
2. 検査や治療について納得し合意したことを守るのは、皆さんご自身の健康回復のためであることを理解し実行してください。
3. 病院は、多くの患者さんと職員が共同生活を送る場です。他の多くの患者さんともども、会的な環境で医療が受けられるよう、病院内での規則と病院職員の支持を守ってください。
4. 医療が安全かつ適切に行われるために、患者さんご自身が医療者とともにチーム医療に主体的にかかわってください。
5. 医療の安全確保や院内感染の防止のための取り組みに協力してください。
6. 犯罪行為、迷惑、その他これらに準じる行為を禁止します。これらの行為により、当院との信頼関係が破たんした場合は、当院での診療を原則としてお断りいたします。

薬の水-巡り合った名医

薬の水-巡り合った名医

 昨年暮れに妻の七回忌を迎えた。2010年は私たち夫婦にとって悪い年であった。1月に私は前立腺癌と診断され、8月には妻が夜中に血を吐いた。大阪の大学病院へ駆け込んだが、病室が満室という理由で、自宅に近い隣町の市民病院に緊急入院することになった。骨髄異形成症候群という病気で、血液癌の一種である。骨髄の中にある造血幹細胞が破壊され、赤血球、白血球、血小板を造れなくなる病気である。医師から根本的に治療法はなく、一年後の生存率は20%と告げられた時は二人ともパニック状態になった。

 入退院を繰り返し、抗がん剤治療を二回受け終わった頃、厚生労働省が皮下注射による薬を近く認可する予定であることを知った。抗がん剤に比べ体への負担が軽く、通院で治療を受けられるという。初めに駆け込んだ大学病院では、倫理委員会の承認が必要との理由で治療を断られた。市民病院の医師は、認可されることすら知らなかった。

 妻には一刻も早く言い治療を受けさせてやりたい。こんな思いから、インターネットで治療経験の多い病院を調べ、神戸の病院でセカンドオピニオンを取ることにした。対面した医師は白髪交じりで経験豊な医師に見えた。医師によると、アメリカではすでに実績がある。認可前であってもアメリカから輸入して治療することが出来るという。病院の組織のことより、患者の身になって考えてくれた。干天に慈雨とはこのことかと思った。

 東日本大震災の後に神戸の病院に転院し、この医師のもとで治療を受けることにした。結果的に新しく認可された治療薬の効果はなく、輸血で延命を図る他に方法はなかった。

 妻は診察を受ける時、必ず何か質問するようにしていた。ある時、薬をのむ時の水はペットボトルが良いかと尋ねたことがある。白血球が少なくなり免疫力が低下していた。不衛生な水を飲んで他の病気に感染することを恐れていたのである。

 多くの患者を抱え多忙な医師は、いやな顔もせず「水道の水が最も安全です、何故なら塩素殺菌されているからです」と親切に教えてくれた。このとき、医師の表情や言葉に温かみを感じた。名医とはこういう医師のことを言うのではないかと思った。

 妻はこの医師のもとで、一年をはるかに超えさらに五か月か月も長く生き延びることが出来た。神戸の病院とは、加齢黄斑変性について、iPS細胞による臨床研究をしている神戸中央市民病院のことである。命日を迎えるたびに思い出している。       (高田 忍)

クリスマスカードと年賀状

クリスマスカードと年賀状

今年もクリスマスカードが届いた。イギリスから二通、アメリカら一通である。いずれも、20数年前アメリカに工場を作る仕事で親しくなった間柄である。

日本でいうクリスマスカードは、アメリカではSeason‘s Greetingsと呼ばれている。文面にもMerry Christmasという挨拶は用いない。アメリカは多民族,多宗教の国である。キリスト教に由来するChristmasという言葉は避け、国民の融和を図っている。

下は、先祖がアイルランドから移民できたTheiserさんからの季節の挨拶状である。Christmsの言葉は見られない。

イギリスからの二通にはいずれもChristmasが入っていた。

Shakespear生誕地のStratford upon AvonにすむSavageさんからのカードにはWith Best Wishes for Christmas and the New Yearとかかれていた。アメリカとイギリスではやはり国民性に違いがあるようだ。

ただ共通していることがある。それは封筒の宛名を手書きで書いていることだ。手書きで書くことによって相手のことを思い出だす。今でも自分のことを思い出してくれる人が世界にいるかと思うと嬉しくなる。

年が明けると年賀状が送られてくる。宛名は殆ど印刷されている。自分は今年も10数痛の年賀状を出したが、毎年宛名だけは手書きにしている。(高田 忍)

Xmas card

Xmas card