ラオス旅行記

月の連休中夫婦でラオスを連休中は、代休で営業し連休あけの5月13日から18日まで観光で訪問。

ラオスへは、日本からダイレクトで行くことが出来ず、韓国仁川国際空港からの出発でした。

いざ関空から一路韓国仁川国際空港へ

 

連休あけとは言え空港は発着のラッシュアワーで離陸待機中、写真下は離陸後の関空を見渡したところ、上昇中。

3日間韓国ソウルで過ごした後、ラオスエアーで今度はラオス・ビエンチャンのワットタイ国際空港へ、写真は仁川国際空港とラオスエアー用の搭乗券。

 

約5時間掛け到着したワットタイ国際空港は工事中(間組が受けていた)であったが、何か昔の伊丹空港を思い出させる感じであった。到着後乗り継ぎでルアンパバーンへ。荷物
預かり証を座席前のポケットに入れたままで降りたた
め確認のため少し手間取ったが難なく乗り継ぎ手続完了。ただし飛行機が延着のため約1時間ほど待たされた。

空港施設はまだまだお粗末でフィンガーは無く駐機された場所まで歩きタラップで搭乗であった。機材は、全てエアバスの中古飛行機であった。人件費が安いからもう少し手入れすれば乗客も気持ちよく乗れるだろうと思ったが、何かの理由があるのだろう。

写真はルアンパバーンまでの風景と到着間近で見えた町並みなど

 

長時間の飛行後暗くなってからホテルVilla Santi、Santi Resort & Spaに到着。Spaというからには温泉があるのか?と思いきや、温泉はなかった。

 

ラオスは北は中国、東はベトナム、南はカンボジアタイ、西はミャンマーと国境を接する内陸国。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯で人口は約700万人である。

ラオスは、豊かな地下資源に恵まれているのだが、山脈沿いに接するベトナムが米国と戦争していた折、いくらベトナムを攻撃しても衰えること無くおかしく思った米CIAが親しくするミャオ族(モン族:中国からインドシナ半島まで広域に居住する少数民族)に調査させ国境沿いにホーチミン・ルートがあることを突き止めた。この情報により戦況は米軍に有利に働き、功績の有ったモン族の多くは米国に移住したという。だがラオスでは裏切り者としての扱いを受け殆どのモン族は貧しい暮らしを強いられていると聞いた。

この後、米国の爆弾在庫処分と言うか甚大な量の爆弾爆撃をラオス側のホーチミン・ルートに投下したと言われ、国境沿いの山脈には今も日本で時々発見される不発弾が大量に残っており、ガイドから聞いた話では今も年間150人程の死傷者が継続して被害に遭っているということであった。

ラオス人の人柄は、数少ない現地の人の接点、店屋、ホテル、飲食店などで接した印象から、人々は貧しくとも大人しく慎ましやかな生活を日々送っているという感じだった。おみやげも派手で嫌気の差す人を欺く偽ブランド品など無く、質素な民芸品(衣類などは恐らく中国製が多いと思われる)が多く、地元の人にお金が落ちるようできるだけ現地生産されたお茶などを購入した。

内陸国で海外との貿易が出来ないのがこの国の発展を阻害してきている感じだった。

また国民は、我々のようにガスや石油を使用するのではなく、炭を多用するためこのような七輪のようなものが売られていた。

 

さて話は観光に戻り翌朝ルアンパバーンの僧侶の托鉢を見に出かけた。本来は信者さんたちが日常生活で行っている喜捨を、観光客に知ってもらう意味で行っているとのことであった。喜捨に使うもち米のお櫃と中国製の菓子類など約3米ドルで参加する事ができる。

喜捨が行われる夜明けの町並み

 

喜捨をする方法を真剣に聞く観光客

 

ガイドが女性は僧侶に触れてはならない旨、強調し説明していた。

 

椅子は喜捨の材料を販売するお店が用意したものである。

 

喜捨は、庶民や徳のない者に善を積む事を僧侶が助ける行為であり僧侶に恵みを施し助けるための行為ではないという。

どこからと無く僧侶たちが各寺院から現れてきて喜捨を受け静かに立ち去っていく姿を眺めていた。

また写真に見える籠があるが何のためのものか最初何のためのものか?ゴミカゴくらいに思い、さして気に留めなかった。

説明を聞くと、いくら大勢の僧侶が喜捨を受けても全てを抱えて受け付けられるのではなく、抱えきれず余ったものを貧しい人のために投げ入れるためのもので、僧侶が立ち去った後貧しい人たちが分け合えるために備えてあるものだという説明であった。したがって我々の目からせっかくの喜捨が捨てられたと思うのは早合点である。

僧侶は幼い子どもの修行僧から大人の僧侶までいたが。レンジ色の袈裟の着方に違いが有り、ある程度徳を積んだ偉い人は両肩を覆い、修行中の僧は片側だけ覆うという違いがあるとの事であった。別の説明では年齢で差を作っているとの説明だったが20歳を超えた僧でも片側を覆わない人がいたので、徳を積んだかどうかの区別であるという説明に納得が行く。

僧侶は全て裸足で歩いていた。これも修行の一つであるという。熱帯の道路言うまでも普通熱くて歩けないのを歩いて知るという説明だった。

まっ 頭の毛を剃っているのでお坊さんの年齢がどうなのかは正直言って解り難い。右の肩を露わにしているのは修行中の僧であることを表している。

 

 

訪れたルアンパバーンは街全体が美しい街並みを保っており、街全体が世界遺産であるということであった。

次に自由時間が有ったので街の生鮮食品市場を訪れた

 

ある程度観光客も見受けられ観光化しているとは言えやはり庶民の胃袋を満たす贖罪で溢れており、色々買い食いをした。生物は危ないので揚げ物などを食べた。

 

 

パックに入っている果実はドリアン。完熟状態でないので臭みはないがほんのり甘く生栗の味がした。

 

マンゴスチンやマンゴーは、食べにくいが美味しかった。マンゴーにも色々種類があることも知った。

 

街では行きた鶏や蛙など売られていた。ラオスで味わった鶏と豚に関して、鶏や豚などの専門的な養鶏場や養豚場からの供給はほとんどなく、庭先で走り回っている鶏や豚が主で肉質は少し硬いが鶏や豚元来の味がしてどれを食べても美味しかった。

 

下の写真は朝ホテルで所望して食べたコメの麺でできたうどんと言う感じの朝食。ベトナムを訪れたことがあるが、ほとんど同じような感じの食材。ただし塩加減が絶妙にサれていて美味しかった。

 

 

宿泊したホテルは、リゾートタイプのホテルだったが、広大な敷地に庭園が有りそこそこ手入れされてとても良いと思った。

 

クアンシーの滝

 

ガイドは豚のように太って滝上に登った事がないようだった。したがって観光客も自分に合わせようとする意図がありあり。

クアンシーの滝に訪れる観光客の皆さんは、ガイドは豚のように太っており登った事がないらしく、冒険心が強く皆で登ってみようということになり、滝の横の山道を登山。

 

 

実は、滝上は滝下同様整備されていた。

 

 

滝上からの眺望、

 

ブルー色の水が蓄えられた幾つもの池が段々畑のようになっている状態、いずれ中国の九寨溝、シャングリラを訪れる計画で有ったが、ここで見てしまい計画は危うくなった。

 

帰る途中飼育されている熊を見た

 

雨季のせいでさほど暑くもなく、よく食べてよく寝ている。人が来ようが全く関心ない様子、昼寝を貪っている感じだった。網で囲ってあるが、本気になれば簡単に脱獄できそうな感じだが、三食昼寝付き、強いて厳しい自然で暮らす必要は無いから逃げないのだろうと、勝手に想像。

 

欧米人が水遊びに興じて帰る途中に出会わせた、彼らは水質について関心があるのかどうか?小生も後にカヤックでメコン川下りをし、現地人の漕ぎ手と同乗し、彼らが冗談で水をかけてくれるのだが、汚い水に棲むアカウントアメーバーが運悪く目に入ったら失明することを知っており少し心配した。現在まで異常がないので大丈夫だろうと思っている。

 

少なくとも海外に出て水遊びするのであれば、ゴーグル持参し、目を洗うときはホテルであろうとどこでも水道水はご法度、信頼できるミネラルウォーターで洗浄することをお勧めしたい。日本ほど水道水が衛生管理された国は非常に珍しい事を知るべきである。

 

無論透明できれいなプールの水も同様、信頼できるものでは無いと思う。

次に車で移動しワット・シェーンへ訪れた

 

ワットは、ラオス語で僧がいる寺院を意味するとのこと、タイなどにある寺院と同様の建築物が多い中、ワット・シェーンはラオス独特の建築様式をもっており、この寺院はその中でも美しさを誇るとの説明であった。

きらびやかに光るのは、緑や青色、金色の硝子でできた鏡がモザイクのように埋められているせいで光に輝いて見えた。

 

壁面に描かれた木は、命の木だそうである。

 

単なる絵では無く、してはいけない事をするとこのような目に遭うストーリが・・・中に頭が胴体から離れている図などあった。ラオスは女系社会でその辺の事も背景に描かれているとか・・・あまり良くわからなかったがスカートを履いている人のことだろうか?

パノラマで

 

赤いお堂の中

 

 

この後、車で移動し「バーン・サーンハイ」と言う村からボートでメコン川沿いにある洞窟 「パークウー洞窟」へ

 

 

僕は蛇やムカデは大嫌いだが店頭に並ぶその数々、蛇はなんと子供のコブラだそうで、とてもお土産に買おうという気になれなかった。

 

瓶詰めされた蛇は皆さん尻尾を咥えるポーズをしているが、整えるのは大変な手作業だろうとそのほうが気になった。強壮効果も疑わしく、下手な毒でも飲むことになればそれこそ健康に害があるだろう。奇特な方がおみやげに買えばいいし御免被りたい。

 

 

洞窟は川の神と関わり合いがあると信じられ、ラオス皇室が存在していた頃毎年新年の祈りを捧げられた由緒ある場所であるとのこと。4000体の仏像が納めてあるらしい。

 

これらの仏像は木彫りや松脂を固めて作った像に赤や黒のラッカーで塗装し金箔を施してあるらしい。他に動物の角やブロンズで出来たもの或いは素焼きの像などがあると書かれていた。

 

この後帰る途中でスコールに見舞われた。

熱帯の雨粒の大きさも然ることながら、バケツを引っくり返したような感じ。船頭さんも少し危険を感じたようで船を岸辺に寄せスコールが過ぎ去るのを確かめて再出発し元の船着き場へ戻った。

 

翌日バンビエンへ移動

洞窟探検ごっこ、ジップライン、カヤック下りなど

残念ながら携帯電話を壊したり水没させるおそれがあるとのことで携帯を持たずに出撃

 

バンビエンの庶民市場

 

こちらに来てまたぞろ気がついたのが山々の美しさ、似ている!まだ行ったこと無い桂林の風景・・・という事でラオスで九寨溝と桂林を期せずして体験することになった。

 

 

ブルーラグーン、料金払ってこの湖?池だろ。見る値打ちがあるのかどうか?(笑)

バンビエンから首都ビエンチャンへ

到着したのは夜、ホテルからの夜景が綺麗だった

ところがである、川向うはタイだとのこと。小生は今から20年ほど前仕事でほとんど毎月タイへ出張していたが次のような事情は全く知らなかった。ラオスとタイの関係は無論陸続きではあるが、ベトナム戦争時何かのペナルティで米国がラオスの穀倉地帯である平野部をタイに無償で譲ったらしい。お陰でタイは裕福な農産物を得て、ラオスはベトナムと接する山脈に眠る地下資源はアメリカの爆弾在庫処分のお陰で不発弾だらけの危険な山、実に踏んだり蹴ったり。

 

 

また後で紹介するエメラルド寺院の話、本尊のエメラルド像はタイの脅迫で届けて流血の惨事、戦争を回避したという話も相まって同情する。

翌朝ビエンチャンから仁川国際空港に出発するまでの間の観光名所を訪れた。

ワット・シエンクアン

一人の僧侶が一人で作ったコンクリート製の彫塑、どちらかと言うと芸術品と言う感じ、ラオスのサクラダ・ファミリア。随所に仏教とヒンズー教の思想が織り込まれており素晴らしい建造物と言う感じだった。

残念ながら、このような文化遺産を珍重する考え方が薄く、手入れ保存されること無く観光客が自由に建造物に入り手を触れることにより、劣化が激しく傷んでいるのが随所に、見受けられた。

 

お面の上に時計が・・・なんかモダンさが溢れています。この建物実は中が三階立てで一階は地獄、2階は天国、三階は解脱、その上は何か涅槃とか説明を受けた。てっぺんの木のようなものは生命の木だそうである。奇特な僧・・・少し?大分変わっている方のようでした。セメントやレンガ・鉄筋で長年かけて作ったらしい。芸術性の観点から高い美術作品と思うけど、手入れされず荒れ放題。

入り口で入場料を取っていたが、維持修理のために使用している形跡なし。

 

 

一階の地獄広場。

2階の天国

天国への階段。

建物のてっぺんにある生命の樹

 

建物天変から撮影した講演もしくは寺院の全貌

 

 

お釈迦様の涅槃像は、風雨と苔でパンクモード。

 

アメリカのロックバンドのパンクファッションが流行るそうとう昔の出来事。仏像の目の周りがロックバンドのパンクファッションを思い出され、妙に親しみを覚えた。胸の張り出しは女性を表しているのかと思ったり。

 

次に訪れたのは塩工場

大昔、ラオスは海の底で岩塩のある層から塩水を井戸で組み上げ、沿岸のない国に貴重な塩を供給していたらしい。

 

この後メコン川の船上で食事

日本で言う屋形船でお食事と言う感じ。川エビが妙に美味しかった。

 

この後国立博物館へ

 

現在の地図

州に色分けした地図。

 

アメリカがタイに領土を譲る前の地図。メコン川の両岸はラオスの領土であった。平地で豊かな穀倉地帯はタイに領土を奪われている。

 

博物館にある金製の仏像、簡単なステンレス製の檻の中に保存されていたが、相当高価なものであろう。やはり国が貧しいため博物館の施設は貧弱であったが中身の濃い展示物が多く有った。

フランス植民地時代の市民弾圧の絵画

 

 

次に訪れたのは元祖エメラルド寺院、ホー・ケパラケオ

ここに安置されていたエメラルド像はラオスの国宝であった、勢力を誇っていたタイがラオス王室を脅迫し、ラオス側が血を見る争いを嫌い仏像をタイ迄運んで戦争を避けた経緯がある。今で言う負け犬ということだろうか、寺院には僧がいない事を表すHOが接頭詞として使われている。

 

中はとても良く整備された庭園のある寺院だった。隣は王宮だそうである。

 

今は本尊のエメラルド像の無い寺院

 

この後That Luang ラオス最高の仏教寺院へ訪れた

 

ラオスの仏様は寝ながらも敬礼をするなどと不敬な考え。いかんいかん・・・

 

ここにはラオス最高位の僧侶がお暮らしになっているとのこと。途中小用を催しトイレへ、何処を訪れてもこの国では水が豊富なのか水洗式で大変清潔なので助かった。

 

この後パトゥーサイ(凱旋門)Patousayへ

パリの凱旋門を模して作られた戦没者慰霊碑。

何と慰霊碑の中にお土産店が、時間が遅かったことも有り全てを見るわけにも行かず店員はそそくさと店じまいの最中。何か特徴的なものは目に入らなかった。これなら何処の露天でも買える。

 

その階上に上がるとこの調子。テナントは戸を立てて退勤済み。

階段上から覗き見たらここもおみやげショップ。埃っぽく灯が消されているので工事中の現場と見違えた。

 

建物は遠くから見た目大変立派で細部に至るまで細かい細工が施されているのに反し、何か雑なおみやげショップは場違いな感じすらした。

階段から第一の屋上に出たところ

中に見えるのがおみやげショップ

ここから更に最上部に登ることが出来た。入園時間があと僅かで閉園という所で運良く最上部まで行くことが出来た。

フランスシャンゼリゼと凱旋門は行ったこと無いがアジアのパリ、凱旋門を訪れることが出来、併せてシャンゼリゼあらぬラーンサーン通りからビエンチャンの街並みを眺めることが出来た。

何の変哲もない帯鉄を曲げて作られた祈りを模ったリリーフ、ラオス人の芸術性を感じた。

次にこの後近くにある寺院を訪ねた、途中の街並みはこのような感じでバンコクの交通渋滞と喧騒との違い、静かな佇まいが気に入った。

 

この後ワット・シームアンに訪れた

王様の母親の粘土で出来た塔を支えようとして犠牲になった女性を記念する寺院、今日では王族より庶民の寺院として最高位らしいのですが、入り口のライオンが可愛いかった。一つも怖くない子供のおもちゃのような愛らしさ。恐らくこの寺院の庶民向きの寺院という雰囲気がそこはかと漂ってくるような気がした。

 

次におじいさんの像、中国の仙人かと思いきや地方から出てきて働く庶民のため拝める対象として作られた像だという説明だった。

バンコックでこの手の像をよく見たが、お隣ということで妙に納得して眺めていた。なんかご利益があるのだろうが、よく分からない。

華麗な彩りは庶民ウケが良いのだろうと思う。

 

5泊6日のラオス観光はここまでで終わり。バスに乗りワットタイ国際空港へ出発。到着後飛行機がまた延着で夜中1時半搭乗開始まで空港でウロウロし漸く搭乗し仁川国際空港へ、朝7時到着後午後2時まで連絡便を待ち帰国。

最後のラオス・ソウル・関空の強行軍はさすが疲れた。今回の旅行で気づいたのは、韓国からの旅行者が大挙して訪れていた。日本人はチラホラだった。

ブログを書いていて、写真の張り込みに大変苦労しました。自分で見てもあばら家のような作りですが、ラオスがどんなところであるか少しでもわかれば幸いです。

近江商人の町を訪ねて

近江商人の町を訪ねて

日野祭

 

 日野は、近江八幡、五個荘と並ぶ近江商人を輩出した町である。現在も商社や百貨店はじめ多くの企業が活躍している。

 5月3日は日野祭の日である。午前11時に馬見岡綿向神社に16基の曳山が集まった。日野町は滋賀県で唯一残る町で人口22000人である。これだけの人口で16基の曳山を維持する地元の人たちの苦労は並大抵ではないと思った。いずれも1700年代から1800年代に作られた。


 曳山には、かつてこの地を治めた蒲生氏郷公や井伊直政、直虎など地元にゆかりのある人の像が掲げられていた。中には天秤棒を担いで行商をした近江商人の姿もある。

 近江商人の考え方は三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)といわれ、現代に通じる経営理念である。近江に本宅を置いて関東や東北で商売をしていた。

 曳山が神社から御旅所まで向かう本通りに面する家々では「桟敷窓」があった。板塀を一部切り取り、中に桟敷を作って曳山を見る。この土地ならではの光景である。

 

ある家の中を覗き込むと屏風が飾られ、その前で伝統料理を味わいながら祭りを楽しむようであった。

 

 

五箇荘

 

 ある商家には天秤棒が置かれていた。近江商人が天秤棒で運んだものは、麻などの商品ではなく商品カタログだという。近江商人は富山の薬売りの様な小売商ではなく、卸商であった。その頃から総合商社の役割を果たしていたという。

 近江商人の研究家、小倉栄一郎氏によると、地場産業が早くから発達していた。近江八幡の蚊帳、畳表、日野の塗椀、売薬、五個荘の麻布である。いずれも原料は他国産で、これを調達して農家に内職に出した。内職は分業で行われ、これを製品に仕上げ、問屋が販売するという仕組みが出来た。

 

 

 私小説家として知られる外村繁は五箇荘の呉服木綿問屋の商家の生まれである。生家には、家訓が展示されていた。

第一条 業務に勉励し、商店の利益増進を図るべし(売り手よし)

第二条 得意先は勿論、取引先下職に対しても言語動作を慎み大切に応接すべし

 

 外村繁は高校の大先輩である。その作品に昭和31年の真文学賞を受賞した「筏」がある。このほか「草筏」「花筏」がある。生家の門前に花筏が植えられていた。

 

 古い町並みが残され、街の中を流れる川には鯉が泳いでいた。また川には花壇が置かれ、季節の花が咲いていた。