ここに掲載する体験談はNPO法人 黄斑変性友の会の会員に限定した生活の記録です。
他の会員の病気との付き合い方などを知ることによって、自分自身の暮らし方の参考にしてほしいと願っています。
会員以外で投稿を希望する方は入会手続きをとってください。
投稿要領をお知らせいたします。
一人一人の執筆者が表現された気持ちや内容を尊重し、誤字脱字や公序良俗に反する場合を除いて原則として加筆修正はしていません。 (事務局)
会員の皆さんへ 2018年3月10日 「体験談」のお願い 「NPO法人 黄斑変性友の会」では、昨年8月会員の皆さんからお寄せいただいた貴重な体験を「私の体験談」として、冊子にしてお配りしました。今年も「体験談(第二集)」を発行いたします。 今年は、田辺三菱製薬の 「手のひらパートナプログラム から助成金を頂くことになりました。「第二集」は8月頃に会員の皆さんに配布するほか、NPO法人 黄斑変性友の会のホームページにも掲載いたします。 ひと口に加齢黄斑変性といっても、この疾患に罹ってからの年数などによって、見え方は一人一人異なります。日常生活で困ったこと、それに対してどのように乗り越えているかなど、それぞれ異なる体験をしています。 しかし、異なる体験であっても参考になる情報や、共感できる点があると思います。それをどのようにしたら自分にあてはめることができるかを考え、毎日の生活に役立てていただきたいと思います。 すでに第一集にお書きいただいた方もその後の様子について、家族の方もどのように支えたかなどお書きください。皆様のご参加を心よりお待ちしています。 会員の方々が綴った貴重な体験は社会的資産として大きな価値があります。 永久に保存するため、国立国会図書館と大阪府立中央図書館に寄贈いたします。 NPO法人 黄斑変性友の会 代表世話人 髙田 忍 https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I030055107-00 |
体験談の書き方
●同封する原稿用紙をお使いください。
代筆もいたします。お気軽に電話ください。
● 最初に名前(匿名可)、加齢黄斑変性のタイプ、発症時期(年齢)を記入してください。顔写真も差し支えなければお願いします。プリントは郵送で、デジカメのデータがある方はお問い合わせ欄からお送りください。
● 題名に続いて体験談をお書きください。
※字数: 制限はありませんが、400~600字を目安とします。
※内容: 自由にお書き下さい。
参考までに、
以下のような点について書くとまとまりやすいと思います。
・ いつ目の異常に気づいたか、何がどのように見えたか
・ その時、どうしたか(すぐ眼科を受診した、しばらく様子をみたなど)
・ 加齢黄斑変性という病名を聞いたときの気持ち
・ その後の治療経過(病院、治療法など)
・ 日常生活で困っていること、その解決法と工夫
・ 日頃の暮らし(仕事、健康、家事、買物、趣味、人との付き合い)
注意:誤字脱字、公序良俗に反する内容などは修正させていただくことがあります。
ご注意
この他、民間療法的個人の治療方法などに関し、ここに掲載される体験談はあくまで個人的なもので、すべての人に適合するものではありません。各人判断に委ねます。加齢黄斑変性との因果関係が科学的に実証されているわけではありません。
友の会の立場は、医師の指示に従って治療を受けることです。 (事務局)
送付先:
郵送: 〒544-0005 大阪市生野区中川2-7-19
NPO法人 黄斑変性友の会 事務局長 星野龍一
発行予定:ホームページには原稿が届き次第、随時掲載予定。
目次
掲載日 | 氏名(略称) | 黄斑変性の型 | 主題 |
2020年10月16日 | 中井潤子 | 滲出型 | もう一度「ふるさと」を歌える日を |
2020年09月25日 | 原田 君子 | 滲出型 | 主人の助けを得て |
2020年09月25日 | 松原 蓮斗 | 黄斑ジストロフィー | 病気になった息子に励まされる日々 |
2020年07月09日 | 晒 香 | 滲出型黄斑変性 |
いつも前向きな気持で |
2020年07月02日 | 野澤 三郎 | 滲出型 |
完治できない病気との付き合い方 |
2020年06月17日 | 中谷 英世 | 滲出型黄斑変性 |
加齢黄斑変性「10年の闘病歴」 |
2020年04月25日 | 児玉 功/髙田 忍 | 滲出型 |
アイリーア注射しました。児玉 功と髙田の往復メール |
2020年04月18日 | 谷 美智子 | 滲出型 |
日々努力の母 |
2020年04月13日 | 建部 茂 | 左眼:滲出型 |
趣味のチャリ旅 |
2020年03月20日 | 神坂 真佐子 | 両眼 滲出型 |
大きな声で歌を |
2020年03月10日 | 尾郷 徹哉 | 病名も何も教えてくれなかった。 |
赤ワインに玉ねぎを刻んで |
2019年11月29日 | 初田 邦代 | 滲出型 |
光る神様に出会って |
2019年10月10日 | Sさん | 両目 滲出型 |
父を看病して思うこと |
2019年10月10日 | 岡田 弘 | 不明 |
毎日8千歩で健康維持 |
2019年8月13日 | 雲北 一雄 | 滲出型 |
フレイル予防のすすめ |
2019年8月6日 | 匿名希望 | 滲出型・萎縮型 |
不安との戦い |
2019年3月1日 | 匿名希望 | 滲出型 |
94歳の母に励まされ |
2019年2月6日 | 髙田 忍 | 滲出型 |
眼底写真から思うこと(サプリメントの効果)必読 |
2019年1月21日 | 布施 英子 | 萎縮型 滲出型 | 予防法もしっかり実行 |
2018年12月18日 | 高屋 千津子 | 萎縮型 | 僕が君の目になる |
2018年11月7日 | 髙田 忍 | 滲出型 | 写真でわかるサプリメントの効果 |
金子 恭子 | 萎縮型 滲出型 | 右眼にも黄斑変性発症 | |
2018年9月15日 | 横山 和子 | 滲出型 | たし算の人生を |
木下 富夫 | 滲出型 | 医師選びの大切さ | |
2018年8月22日 | 武田 一恵 | 両眼萎縮型 | 自力で頑張ろうと決心-ウクレレと出会って |
2018年7月29日 | 谷美 美智子 | 滲出型 | 母を私のもとへ |
岡田 弓子 | 両眼滲出型 | 工夫して暮らしています | |
長田 順子 | 両眼滲出型 | 病名が分かったのは何年も経ってから | |
2018年6月5日 | 髙田 忍 | 滲出型 | 発症から四年、目と生活の変化 |
2018年6月17日 | 堀部 和子 | 両眼萎縮型 | 歩けば足を使うし目も使う 脳も活発に |
坂上 高明 | 滲出型 | 白内障手術で歪みもよくなった | |
伊藤 壽一 | サプリメントで予防 | ||
2018年4月21日 | 杉村 弘 | 滲出型 | 日常生活と加齢黄斑変性 |
2018年6月4日 | 神坂 真佐子 | 両眼 滲出型 | お料理も目で味わいたい |
角野 松枝 | 滲出型 | 幼少期節々の歴史 | |
2018年2月1日 | 本多 隆二 | 滲出型 | サプリメントの必要性 |
2018年1月27日 | Kさん | 滲出型 萎縮型 | 近くて、良い病院は? |
2018年1月24日 | 髙田 忍 | 滲出型 | タブレットなど電子機器の活用 |
2017年11月18日 | 弓長 暁 | 萎縮型 | 若年期の発病 |
2017年8月29日 | 小谷 輝子 | 滲出型 | 健康には自信があったのに |
2017年7月25日 | 宮崎 健治 | 滲出型 | 発症から現在(平成29年75歳)までの経過 |
2017年6月16日 | Hさん(女性) | 滲出型 | 早朝のウォーキングとラジオ体操励行 |
2017年6月6日 | Kさん (男性) | 滲出型 | 納得の上で注射の可否を判断 |
2017年3月6日 | 髙田 忍 | 滲出型 | 写真で見る硝子体内注射 |
2017年3月5日 | Fさん | 滲出型 | 忘れてならない家族の存在 |
2017年4月28日 | 建部 茂 | 滲出型 | ブルーライトカットのメガネで目を保護 |
2017年2月11日 | 晒 香 | 両眼滲出型 | 両眼が近視性黄斑変性 |
2017年2月11日 | 次原 隆吉 | 滲出型 萎縮型 | 眼病の経緯 |
2017年2月7日 | 増田貞雄 | 萎縮型 | ボールの行方がよく分からなくて困りました |
2017年1月27日 | Tさん 女性 | 滲出型 | 人の手を借りて |
2017年1月17日 | 岸本 宏 | 滲出型 | 拡大読書器の助けを借りて |
2017年1月16日 | 川口 怜子 | 滲出型 | 四年間病院にかかったのに、何故? |
2017年1月5日 | Fさん | 滲出型 萎縮型 | 両目が加齢黄斑変性症になって |
2016年12月27日 | 堀部 和子 | 萎縮型 | それでも働いています |
2016年12月15日 | 福本 静子 | 滲出型 | アナウンサーの目がオタマジャクシの様な形に |
左近 三郎 | 滲出型 | 蛍光眼底造影などの結果、黄班変性 | |
2016年12月9日 | 力石 啓二 | 滲出型 | 加齢黄斑変性を発症して |
Sさん | 滲出型 | 「eyeアイ」には愛を | |
2016年11月18日 | 国友 征子 | 滲出型 | 治療経過 |
木下 富夫 | 不明 | 病院選びに苦労 | |
髙田 忍 | 滲出型 | 早期発見、早期治療のお蔭 |
お名前 :中井潤子さん
加齢黄斑変性の型 :滲出型
発症時期 :2013年10月(80歳)
もう一度「ふるさと」を歌える日を
病室の窓ガラスを見ると
加齢黄斑変性を発症したのは、今から7年前の2013年10月のことでした。その頃、腸炎で南大阪病院に入院し治療を受けていました。ある日、病室の窓ガラスを見ると、歪んで見えました。同じ病院の眼科の先生に診てもらった所、加齢黄斑変性であると告げられました。
この病院の先生は近大病院へ紹介状を書いていただきましたので、2年ほどの間、近大病院でアイリーアの注射を受けました。その後、関西医大へ転院し、年に4~5回の注射を続けました。
ピアノの伴奏で「ふるさと」
この頃、視力もそれほど衰えていませんでした。私は、ピアノの教師をしていましたので、近所の子供達や音楽好きの大人に家に来てもらってレッスンをいたしました。このことから、友の会の定例会ではウクレレを弾かれる武田一恵さんと演奏するようになりました。滝廉太郎の荒城の月に続いて、伴奏に合わせて皆さんが大きな声で「ふるさと」を一緒に歌って頂きました。武田さんがウクレレを弾きながら美しい声で歌われる「愛の讃歌」には聞き惚れました。
時々、姉妹や音楽仲間の友人と海外へ旅行して楽しみました。シンガポールは町がとても清潔で感心致しました。中でも、エーゲ海クルーズは忘れることが出来ません。日本の海と違って、海の色が美しく輝いていました。歴史の時間で習ったギリシャのアテネの高台にあるパルテノン神殿を訪れたこともあります。
骨折とベオビュの副作用
ところが、昨年の12月に思いがけないことが起りました。階段から転げ落ち骨折し、近大病院に入院いたしました。これまで、目の治療を受けていた関西医大に通うのは難しく、近大病院で治療を受けることにしました。
しばらくの間は、これまでと同じアイ―リアの注射でしたが、結果が思わしくないため8月から「ベオビュ」という薬に変更されました。近大病院では私は、ベオビュの治療を受ける3人目の患者という説明を受けました。視力は0.15にまで下がりました。このベオビュの注射を3回されてから副作用が出ました。眼内炎という眼に炎症が出る副作用です。会員の中にベオビュで治療を受けている方がおられたら、副作用がないか教えていただきたいと思います。
足と目に困っていますが、健康を維持することが大切であると思い、1日に少なくとも2千歩を歩くようにしています。一日も早く足が元通りになることを願うとともに、友の会が末広がりに発展するよう願っています。今は、新型コロナの影響で活動が止まっていますが、再び会員の皆さんにお会いし、一緒に大きな声で「ふるさと」を歌える日を楽しみにしています。
(2020年10月15日、髙田代筆)
お名前 : 原田君子さん
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期 : 右目 2014年4月
左目 2017年2月
主人の助けを得て
右目の発症と治療経過
ルーペを使いながら文字を書くのが難しくなり、代筆をお願いしたいと思い電話しました。その経過を説明します。
2014年の2月に家の近くの病院で白内障の手術を受けました。それから2カ月後の4月、朝起きてテレビをつけると暗くて見えませんでした。どちらの目かと確かめるために。右目と左目を交互に閉じてみると、右眼が悪いことが分かりました。
直ぐに、近隣の眼科へ駆け込みましたが、家の近くの大きな病院を紹介されました。病院では加齢黄斑変性の滲出型と告げられました。初めて聞く病名でした。
5月からアイリーアの注射の治療を受けました。7月まで毎月注射し、その後は3カ月に一回となりました。発症と同時にサプリメントのリザ―ビジョン2を欠かさず飲むようになりました。この頃、両眼とも視力は1.2を保っていました。
2016年11月のことです。車を運転中に目の前を茶色いものが飛びました。車は20代から50年以上運転しゴールド免許を持っています。病院で視力の検査をすると0.6から0.7にまで下がっていました。全体がぼやけて白っぽく見えるようになりました。直視すると輪郭が良く見えない状態です。
発症から二年待たされた左目
翌年の2017年2月、左眼も黄斑変性にかかりました。家の近くの病院は、加齢黄斑変性の専門医がいる病院で診察と治療を受けるように言われ、3月に移りました。ところが、著名な先生に診察を受けましたが、視力が1.0あるという理由で注射の治療はしてくれませんでした。早期発見早期治療というのに、少しばかり残念でなりません。
左目に初めて注射したのは、発症してからほぼ2年後の2019年1月のことでした。その時、視力は0.6に下がり、現在は0.3です。右の方は0.7~0.8を維持しているので、運転は続けています。後期高齢者の免許も取得しています。認知機能検査のイラストはよく見え、答えを書くのに不自由はありませんでした。今受けるとすれば、視力も低下しているので自信はありません。
日常生活の工夫
日頃の生活では買い物を欠かすことが出来ません。買い物には主人が付き添ってくれます。支払いをするとき、硬貨の見分けがつかないのが困ります。100円と10円、50円と5円は色が違いますが見分けがつきません。そこで袋に小分けしています(写真上)。時には店の人に、小銭を渡して選んで取ってもらうことがあります(写真下)。また大きなスーパーではカード支払います。サインをする必要がなく暗証番号も入れないので便利です。
料理で困ることは、お米を炊くときの水加減が良く見えないことです。主人に助けてもらいます。色のついていない調味料、例えば酒の量が困ります。あてずっぽうになり、何度も味見するほかに方法がありません。
白いまな板で白い野菜、例えば白菜を切る時はよく見えません。そのため黒いまな板を使いようになりました。
健康の維持
若いころから何十年もインドアのテニスをしていました。発症してから、テニスが出来なくなりました。相手がラケットを振りあげる姿が良く見えないため、構えるのが遅くなり、空振りが増え勝負になりません。
そのため、最近は若い先生や若い人に交じってフラダンスを始めました。このようにして健康の維持に努めています。
発症するまでは主人と海外に旅行することもありましたが、最近は主人が運転する車で専ら国内の長期の旅行をして楽しんでいます。九州や北海道に行きました。旅行の楽しみは温泉です。温泉に入ると、シャンプーなどが置かれていますが見分けがつきません。どこの温泉でも並べ方が決まっていて、左からシャンプー、リンス、ボディーソープ の順に置かれていることを知りました。
(2020年9月17日、髙田代筆)
お名前 : 松原 蓮斗
病名 : 黄斑ジストロフィー
発症時期: 2018年10月(5歳11か月)
病気になった息子に励まされる日々
治療法がないと告げられ
私は松原蓮斗の母です。息子は現在(2020年11月で)8歳になります。5歳10か月頃、話している時に目線が合わないことが多くなり、最初は何をふざけているのか、ちゃんと目を合わせて話しなさいと怒ったこともありました。日に日に目線が合う回数が減り斜視もたまに見られました。
2カ月の間、色々な病院に行き検査をしましたが、何も分らないままでした。
最後に地元の眼科に行き、眼底に問題があることが分かり、大学病院へ行き黄斑ジストロフィーであることが分かりました。病名を聞いた時には、手術をしたら治るのか?くらいに思いましたが、先生の話を聞くうちに、進行し治療法、治療薬がないことを告げられ、私はその場で大泣きしました。
学校と相談
息子は意味を理解しておらず普段と変わりなかったです。その後、私の方がふさぎ込んでいましたが、1月に病名が分かり4月からは小学校の入学が待っていました。小学校にはすぐに拡大教科書をお願いしました。
息子の病気について話す機会を設けて頂き、単眼鏡、遮光レンズを購入しました。
入学当初、サングラスのような遮光レンズをつけていたので、「それ何?」「見てみて」など心のないことをいわれた事もありますが、途中で眼鏡と変わらない色の遮光レンズに変え、2年生になった今、友人も増えサッカーを頑張っています。ただ2年生になり、物差しなどの勉強が見えないので拡大読書器を購入しました。
勉強もスポーツも頑張る息子
病気は、この約2年で少し中心暗点が広がりました。本人は徐々に進行しているせいか、変化はないと言っています。視力は2年前で両目0.1、現在右目0.09、左眼0.1と大きく変化はありません。病院の先生には意味がないと言われていますが、気休めとしてルテインサプリなどを飲ませています。
日常困っていることは信号機がまぶしいと見えないので、私がどこでも同伴しているのが本人は嫌みたいです。あとは友人に遠くから声をかけられた時に誰かわからないということがしばしばあるため、私が出来る範囲で友人の名前を覚え、息子に伝えるか、無視したと相手が思わないように言葉をとりあえず返すという風にしています。
学校の送り迎えは毎日しております。会社、学校、家が近いこともあり勤務時間に間に合うので仕事は変えなかったのですが、現在会社が倒産し職を探しております。金銭面、勤務時間、息子の送り迎えを考えるとなかなか条件に合う職場を探すのに苦労しております。私の実母に送り迎えを手伝ってもらう日も出てくるかなと思っています。
絶望していた私に反して勉強もスポーツも頑張っている息子に逆に励まされる日々です。
(2020年9月)
黄斑ジストロフィーとは(難病情報センターHPより)
黄斑ジストロフィー(macular dystrophy)は眼底の黄斑部に両眼性、進行性の病変を呈する遺伝性疾患の総称である。一般にジストロフィー(dystrophy)とは、非炎症性、進行性の栄養上あるいは代謝上の異常を意味する。すなわち、黄斑ジストロフィーとは、何らかの遺伝子異常によって黄斑部の機能障害を来す一群の疾患であると考えられている。
各黄斑ジストロフィーの詳細な発症原因は不明のものも多い。
徐々に進行する両眼の視力低下、色覚異常、中心視野異常、羞明。自覚症状の出現時期は、幼児期から中高年期までと幅広い。治療法はない。
名前 : 晒 香
加齢黄斑変性症の型 : 滲出型黄斑変性
発症時期 : 2013年7月 (46歳)
題名 いつも前向きな気持で
近視性黄斑変性症を発症して7年が経ちました。最初に左目、翌年2014年夏ごろ右目に発症しました。
現在の視力は強度近視で眼軸が長いと網膜や脈絡膜が後方に引き伸ばされ、負荷が増強します。網膜や脈絡膜へ負荷がかかることで、眼底にさまざまな異常が生じた強度近視を病的近視と呼びます。
私もこの病的近視で、視力低下、光視症の症状があります。太陽光がまぶしいので外出時は冬でもサングラスは欠かせません。夏は、防止、日傘、サングラスの3点セットです。逆光になると信号がとても見えにくいので自転車に乗るときはゆっくりです。
両目共に0.1、0.2を言ったり来たりしています。注射は左目、ルテンティス4回、アイリーア6回、右目ルセンティス2回、アイリーア6回です。
視野は大丈夫ですが人の顔や字が見えにくいです。近所の人や友人には目の事を話しているので名前を呼んでもらったり手を振ってもらったりしています。字は近づいてみたり、裸眼、ルーペでそれぞれ見分けしています。料理は今のところ大丈夫です。
右目に症状が出た時にはかなりショックで落ち込みました。趣味でずっと続けていたテニスも空振りする自分にたえられなくなり、やめました。まだ右目はよく見えていましたが、年々視力は落ちて行きました。
注射をしても視力が上がらない。主治医に訴えると「受け入れがたい現実を受け止めないと」と言われました。先生からは「失明はしません」と言われました。
見えにくいけど、近づいたら見えるし、料理もできる。テニスに変わる、ずっとづづ蹴られる趣味のヨガにも出会えた。出来ないことより、今、出来ることを楽しんでやろうと思ってます。
ルテインのサプリも欠かさず飲んでいます。
お名前 : 野澤 三郎
加齢黄斑変性の型 : 滲出型
発症時期 : 2017年4月下旬(65歳)1952年2月8日生 68歳
完治できない病気との付き合い方
どちらかと言えば健康だった私が、今のような状態になるとは夢にも思いませんでした。
身長177㎝、体重78㎏、体脂肪率13%。
週3回のジム通いを続け、48歳頃から片道15㎞の通勤を自転車に変え、身体を鍛えてきたことで58歳時点でも体力年齢は35歳でした。 それがわずか1ヶ月の間に体力年齢は59歳に・・・。
荷物を持ったり、階段を上ったりした時に肩で息をしていることに気が付き、それからはどんどん悪化していくだけでした。
仕事上のストレスが原因と分かっていたので、その仕事を辞め、生活環境も変えるため転居をしましたが、回復することなく最終的に横になると呼吸ができない状態に陥りました。
かかりつけの医院からの紹介で総合病院に行くと、そのまま緊急入院となりました。
ICUに13日間ベッドに縛り付けられましたが、あれほど呼吸ができなかったものが胸一杯に酸素を取り込めるようになりました。
症状として心臓肥大による僧帽弁閉鎖不全で、それによって胸水が溜まり肺が圧迫されたことによるものとのことでした。
原因は心房細動で、これの治療としてカテーテルアブレーション手術を受けました。
術後は順調でジムで少しずつ心肺機能や筋力改善を行ってきましたが、2年後に再発したため再度アブレーション手術を受けました。
この頃から血中酸素濃度(SPO2)90~92%程度まで低下しており、心臓が正常に動いていても酸素不足が常態化してきました。
同時に痰、咳がひどくなり、気管支喘息と診断され、薬漬けの生活が始まりました。
体力に自信があり、どんな難題でもポジティブに取り組んできたましたが、その基盤となる体力がなくなると、今までの自信は根こそぎ奪われたようで、ネガティブ思考しかできなくなりました。
その渦中での加齢黄斑変性です。
現在はコロナ禍の関係で自己防衛の観点から外出を可能な限り控えていますが、徐々に行動範囲を広げ、もう少し仕事もしようと考えています。
現在循環器系は完治しており、呼吸器系もある程度回復の目処は立ってきましたが、この加齢黄斑変性は現時点では完治することなく、悪化を如何に遅らせることができるかと言うことを主眼に置くことからこの題名としました。
私が加齢黄斑変性という病気は実兄から聞いて知っていました。
初めてテレビを見ていてはっきりとした歪みを感じたとき、兄が言っていた症状と同じだとすぐに気が付きました。
症状を感じて数日後の2007年5月2日、インターネットから検索して比較的信用度が高そうない開業医に行きました。
症状を説明し、加齢黄斑変性ではないかと聞きましたが、網膜に水が溜まっているが加齢黄斑変性ではないとの診断で、とりあえず治療はせずにしばらく様子を見るとのことで、1ヶ月ほど過ぎた6月13日院長から総合病院で精密検査を受けるよう指示があり、翌6月14日京都桂病院で検査、診断は典型的な加齢黄斑変性とのこと。
最初の開業医の診断は何だったのか??? 診断できない眼科医が存在するような病気であることに驚きを覚えた。
京都桂病院ではさらに京大付属病院での検査を薦められ、翌6月15日京大付属病院眼科加齢黄斑変性外来にて精密検査を受け、加齢黄斑変性の治療方法について話を伺った。 治療方法は硝子体注射によるものと、レーザー治療を併用した数日間の入院を要する治療方法について。
レーザー治療はリスクもあるため、とりあえず硝子体注射を行うことに決定。
しかし京大付属病院では硝子体注射は行っていないため、自宅から比較的近い病院を紹介され、そこでのアイリーアの硝子体注射を受けることになりました。
6月27日1回目アイリーアの硝子体注射を実施。
眼球に注射、考えただけでも怖いがこの際ジタバタせずに受けてみました。
怖いから目をつぶって、と言うことはできず無理矢理器具で開かされ、強烈なライトを浴びせられ拷問を受けているように感じていると、眼球にうっすらと痛みを感じた後眼球内に液体が流れるの見え、それで終了でした。
術後1時間安静にした後、自分で運転して帰宅。
術後は目に菌が入らないよう、触ったり洗顔は禁止、定期的に抗菌剤の目薬をしてさらに睡眠時も触らないよう金属製の眼帯を付けます。
注射後、注射液か血液なのか分からないが、眼球の中に球状のものが幾つもあり、時間経過とともに消えていく。
翌日の検査では感染症は起きていないとのこと、見え方にも特に変化は感じなかった。 変化が出てきたのは2日目、なんと歪みが完全に消えていました。
もちろん歪みだけでなく、それまで赤色がオレンジ色に見えるなど、中心部のかすみも完全に消えていました。
アイリーアの硝子体注射は最初3ヶ月間は毎月1回、以降2ヶ月に1回で行われますが、この術後1年間はほぼ症状が出ない状態でした。
7回目が2018年4月、それから定期的な検査を行いながら、アイリーアの硝子体注射は8月の4ヶ月後に行い、それまでのように完全ではなくても、普段の生活に支障のない範囲まで回復していました。
アイリーアの硝子体注射の効果に満足していた私は、年末の京大付属病院の検査を都合で受けられず、そのまま2019年4月まで8ヶ月間放置状態にしてしまい、その間に症状が進ませてしまいました。
2019年4月にアイリーアの硝子体注射をしましたが、効果はそれまでのようにはなく、写真からは少し改善されたようでも、自覚的にはまったく改善効果は出なくなりました。 その後2019年5月、7月、8月、10月、11月、12月、2020年2月、4月、6月と注射を継続していますが、アイリーアの薬効はほぼなくなったと思われます。
今後の治療に関しては京大付属病院とも相談して、とりあえず3月に承認されたベオビュに変えて8月頃に施術することにしています。
しかし8ヶ月間放置をして悪化させてしまったものは、元の状態に戻すことはできないため、どの程度進行を遅らせられるか、アイリーアと比べてその効果と効力期間を見て行こうと思っています。
現在の状況は左目はまだ正常なため、日常生活に支障はなく、従来通りの仕事(パソコンを使って設計、デザインや、金属加工などの制作、試作など)や、車の運転もできています。
お名前 :中谷 英世
加齢黄斑変性の型 :滲出型黄斑変性
発症時期 :2010年頃(昭和6年生まれ88歳6か月 東京都杉並区在住)
加齢黄斑変性「10年の闘病歴」
もともと眼はよく、65歳をすぎても両眼とも視力1.2以上 若干の乱視がある程度であったが、凡そ10年前の2010年頃、車の運転中、電線が歪んで見える左眼の異常に気が付いた。更に方眼紙で確認したところ、縦横のラインがかなり歪むのを確認「これは黄斑変性?ではないか?」と判断、インターネットで黄斑変性の名医をさがした。
アメリカで永年黄斑変性の最新治療を研究していた岡田アナベルあやめ教授(杏林大学付属病院アイセンター)が見つかり、診察を受けるためにホームドクターに紹介状をお願いした。岡田教授はハーバード大学医学部卒、附属病院眼科レジデンシー、東大、上智大学にも留学。
杏林大学付属病院で加齢黄斑変性診断
2010年11月 杏林大学病院5階のアイセンターの広い待合室は300人もの患者で大変混んでいた。視力検査、眼圧検査、眼底写真撮影などを確認した岡田先生の診察の結果、左目は明らかな滲出型黄斑変性と診断された。当初はルティンなどの投与で様子を見ることになったが、白内障も進行しているので、手術で眼底がよく見えるようにしたいと2012年8月に左目の白内障手術を実施。眼底の黄斑部をつぶさに診察した結果「加齢黄斑変性」の更なる治療が必要と判断された。
ルセンテス注射治療を開始したが・・・
本格的治療として2012年11月から新薬「ルセンテス」(ノバリィテイスファーマシィ)の注射治療を開始することになった。ただし杏林大学病院眼科は大変な患者数のため、近くの久我山病院眼科に4週間隔の注射治療を委託し継続することになった。
その後2014年に杏林大学に戻り継続注射するがあまり効果が見られない。
アイリーア注射治療に変更、いい効果が・・・
そこで、2015年1月から薬を変え、アイリーア(参天製薬・2012年開発)に変更し注射を続けた。徐々に効果が見られ始め、5週、6週さらに8週と間隔を延ばすことが出来た。その間2017年10月には右目も白内障手術を実施、黄斑部を点検したが右目は幸い変性異常のないことが確認された。左目も更に好調で両眼とも1.2の視力となり、2018年から更に10週間隔注射へと大きな改善が見られた。
突然、飛蚊症と視力低下が・・・アイリーアの副作用か?
2020年4月8日午後、44回目の眼球注射。この日、杏林大学病院別棟の救急棟で新型コロナ感染者が出とのことで、アイセンターも待合席を広げ、マスク着用、診察室のドアも明けっぱなしの診察であった。
注射7週後の5月25日の朝、突然、左目に飛蚊症が現れ視力も明らかに落ちている。急遽大学病院に連絡「すぐ来院するよう」指示された。検査の結果左目の視力0.7に落ち、かなりの飛蚊症も確認された。明らかなアイリーア注射の副作用による眼球炎症とのことで2種類の目薬(炎症用リンデロン点眼液、瞳孔拡大用ミドリンP点眼液)を日に6回点眼することを指示された。
6月1日の再診で改善がみられ、点眼を日に4回に減らすことが出来た。2週程経過した6月14日現在、飛蚊症軽癒、視力もほゞ回復しつつある。どんな薬でも副作用はあるものだ。7月1日の診察で炎症が軽易であれば10週間隔のアイリーア注射を再開するとのことである。
ただ、聞くところでは注射間隔を広げることが出来ても、生涯この注射治療は続ける必要があるそうだ。そろそろ自分の寿命と相談する時期かもしれない。
お名前 :児玉 功
加齢黄斑変性の型 :滲出型
発症時期 :2018年12月頃(78歳)
アイリーア注射しました
児玉 功と髙田の往復メール
1.児玉から髙田へ
(髙田が新型コロナウィールスの軽症患者の手記を送ったことに対し)
貴重な情報お送りいただき、ありがとうございます。あれで軽症とはびっくりです。
会社でも除菌剤やUV殺菌灯などできることはできるだけ取り入れて対応を進めています。
黄斑変性症の方は右目が滲出型です。ずいぶん前から会社の定期健診で「黄斑変性症の疑い」とあって1昨年の10月に近くの眼科医で受診しました。
その時アイリーア注射を勧められましたが、少々怖さもあってルテインサプリなどサプリ対応で行くことにしました。別ルートから阪大眼科を紹介で受診し、「そうひどくない、対処不要」と言われ、ルテインサプリ服用を続けてきましたが、来週火曜日が半年ごとで3回目の受診です。
いままでは横線がひずんでいましたが、最近は縦線がひずんできましたので、阪大でもどういう処置を言われるか、心配しています。また、阪大眼科は座るとこもないくらい混んでいて、1検査が30分毎くらいになるので3~4時間かかり、その間に新型コロナの方も心配です。アイリーア注射になった場合は阪大病院では時間がかかりすぎるので、近くの眼科医(50歳前後の開業して3年くらい)にしようかと思っていますが、手術の難易度と眼科医の熟練度がわからなくて迷っています。
現在も小さな技術系の会社を経営しているので、二水会などいろいろな行事に参加できなくて申し訳ありません。
仕事でもパソコン利用が多いので目は酷使している状態です。
2.髙田から児玉へ
メールをいただき有難うございます。
先ず、アイリーアの件です。私は2014年の8月に発症し、これまでに10回ほどアイリーアの注射をしました。
目に注射というと不安を覚えますが、その必要はありません。今年初め送りました「私の体験談」に、実際私が受けた手術の状況を写真で紹介していますのでご覧ください。先ず、麻酔をします。次に注射の針がずれないように枠をはめます。何か目に触れたと思ったら終わっています。
一晩眼帯をして、明くる一日間は感染予防の目薬をするだけです。医師の指示に従ってください。治療費は3割負担の場合は約45千円です。
さらに、お勧めしたいことはサプリメントです。商品名オキュバイト50+をためされてはいかがですか。アマゾンで三か月分6800円です。私はこれで注射の間隔が伸びました。そのお結果医療費も少なくなりました。
病院へは、マスクをして行って下さい。待合室でもマスクをし、他の患者と距離を置いた方がいいと思います。
尚、病院へは自家用車は避けてください。帰りは眼帯するので運転できません。高槻から阪大病院へは阪急に乗り、たしか南茨木で、モノレールに乗り換え行けるのではないかと思います。電車の中ではマスクをしていない人の隣には座らないように。手すりやつり革も避けるよう心掛けてください。病院に着いたら手洗いもすることも大切です。
病院の選択は人それぞれです。昨日、電話で話した姫路の72歳男性の方は、大病院から町の眼科医に替わったといっています。大病院は医師が頻繁に変わるという理由でした。私の場合は、人間ドックで発見された住友病院を継続しています。医師はこれまでに3人変わりましたが、不都合を感じることはありません。待ち時間も許容範囲内です。
私のアドバイスは診察を受ける都度、断層写真と眼底写真を貰うことです。自分自身で経過が分かります。血液検査をしたとき血液のデータを貰うのと同じです。
資料類については、今後メールに切り替えます。ただし先日送りました友の会ニュースは容量が多いため、すべての会員に印刷物で送りました。
友の会ニュースでお願いしましたように、児玉さんの体験談、是非よろしくお願いいたします。
いずれにしても、加齢黄斑変性について最も大切なことは早期発見早期治療といわれています。治療に逡巡することがないようにして下さい。私は異変に気付いて一週間後に治療しました。だから視力が落ちることもなく、高速道路も運転します。
3.児玉から高田へ
ご連絡いただきありがとうございます。
丁寧なアドバイスいただき、ありがとうございます。
今オキュパイトはプリザービジョン2でルテイン量が3粒で10mgのものですが、50+というのとどう違うのでしょうか?
阪大には阪急もしくはJRの茨木からバスが出ていて、それが一番便利です。ただ、バスや電車はコロナ問題であまり気が進まなくて、今回は注射の話になった場合は、近くの眼科医にお願いして、阪大では断ろうと思っているので、車で行こうかと思っています。
検査で瞳孔を開くので、ある程度治まるまでゆっくり待って帰ろうかと思っています。
写真の件も、なかなか言えないのですが、思い切ってお願いしてみようと思います。
レポの件は、零細企業なので、休日も仕事しているくらいで、なかなか時間が取れないので申し訳ありません。
いまのところ参考にしていただける情報もなく、いただいているだけになっています。
4.児玉から髙田へ
昨日夕方、近所の眼科医で右目のアイリーア硝子体注射を受けました。朝まで目の中に異物が入ったようなゴロゴロ感があり、今も残っています。今朝、術後診察を受け、順調とのことでした。昼過ぎまで歪みでなく幕が張ったようにぼやけがありましたが、今は、ぼやけは少なくなっています。
1週間ほど抗菌作用のあるガチプロ点眼薬を1日4回点眼することになっていますが、いまは少し沁みます。今日は会社を休みました。次に2週間ほどのちに診察の予定です。
おそらく1ケ月後に再度硝子体注射になるだろうと言われています。
3ケ月後に阪大眼科の予約を延ばしていますが、半年前の診察で処置はまだ不要と言われていましたので、何と言われかな、と思っています。
私の病状の履歴をまとめようとしていますが、時間的になかなかです。
5.髙田から児玉へ
手術が順調に行われ良かったですね。案ずるより産むがやすしという言葉があります。
通常、初めての場合一か月の間隔を置いて合計3回の注射が行われます。注射針の太さは0.3mmできわめて細いため、予防注射のような痛みは感じなかったと思います。
送っていただいたメールをまとめて、体験談集にしたいと思いますが、いかがですか。
6.児玉から髙田へ
早々にご連絡いただきありがとうございます。
経験談をまとめて皆さんに伝えていただくのは構いません。
逆に助かります。少し追記します。
昨日は少しぼやけていたのが、徐々に良くなってきました。
今朝から右目のゴロゴロ感が無くなりました。
今朝の右目は3~4m離れた17インチテレビのお天気お姉さん(足から上が写っているサイズ)の顔がのっぺらに見える程度です。
顔がアップになると目鼻立ちも見えています。
過去の健診等の履歴を見ますと
2011年2月 (69歳)動脈硬化性(那須クリニック 定期検診)
2012年2月 (70歳)動脈硬化性眼底(那須クリニック 定期検診)
2013年2月 (71歳)動脈硬化性黄斑部の変化(那須クリニック 定期検診)
2014年2月 (72歳)動脈硬化性黄斑部変化の疑い(那須クリニック 定期検診)
2014年4月 (73歳)右正常(阪大眼科)
2015年2月 (74歳)動脈硬化性黄斑部変化の疑い(那須クリニック 定期検診)
2016年4月 (75歳)初期の黄斑。中央部凹部なし(ふくなが眼科)
2017年7月 (76歳)両眼黄斑変性疑い(愛仁会定期検診 後期高齢者になり病院変更)
2018年10月 (77歳)右目滲出大。要アイリーア注射とオキュパイト2勧められる(ふくなが眼科)左眼軽いオキュパイト2を中心としてルテインを多めに服用することで様子見ることにした。
2018年12月 (78歳)黄斑変性症軽く処置不要(阪大眼科)
2019年2月 (78歳)両眼黄斑変性疑い(愛仁会定期検診)
2020年2月 (79歳)右眼黄斑変性が進んでいる。(山が大きくなっている)(ふくなが眼科)縦線が歪み始めに気づく。
2020年3月 (79歳)阪大病院予約を新コロナ心配で3ケ月先に変更
2020年4月 (79歳)14日 アイリーア硝子体注射(ふくなが眼科)です。
時間を見つけて眼底写真など調べてみようと思っています。
よろしくお願い致します。
児玉
日々努力の母
お名前 :谷 美智子(家族)
加齢黄斑変性の型 :滲出型
発症時期 :2012年1月(83歳)
尼崎から藤沢に母を呼び寄せてから、早いもので2年半になります。幸い近くに大きな病院が新設されたので、すぐに大阪医療センターの紹介状を以て受診しました。
黄斑の状態は変わりなく安定しているのですが、視力は少しずつ低下していて、今は両眼ともに0.02~0.03しかありません。
しかも中央が見えないので何を見るのも左端のほんの隙間で見ている状態です。大好きだった俳句づくりも縫物も出来なくなり,今は食べる事としゃべる事が唯一の楽しみです。
コロナのせいで孫やひ孫達と面会できなくなって一日も早い収束を祈るばかりです。
今日は前回の体験談の時にもお話した工夫していることの写真を同封させていただきますので、友の会の皆様にも参考にしていただければ幸いです。
◎ リモコンの小さい数字がみえないので、さわってわかるように高さのあるシールを貼っています。
赤や黒はわかりますが中間色は分かりません。
◎ 日光がまぶしいので部屋に遮光カーテンをかけて日中でもカーテンを開ける事はほとんどありません。ホームのお風呂にはカーテンがないので私が手作りの黒いカーテンをかけに行っています。
食事もほとんど何を食べているのか分からないので、その都度スタッフさんに説明してもらっています。母だけ黒いお茶碗に白いご飯にしてもらっています。
母は長生きしてもしょうがないとぐちをこぼすこともありますが、とにかく転ばないように寝たきりにならないように注意して出来ることはなるべく自分でやるように努力しています。90歳にしてはぼけてないと自分で云っています。見えない分、頭がしっかりしているような気がします。何でも人任せにせず、恥ずかしがらずに何でも聞いて忘れないように努力しています。なので、ホームのお友達から頼りにされています。
時計の時間が読めないので触ると時間を知らせてくれる時計や話しかけてくれる「スマイルくん」などネットで購入して活躍しています。
趣味のチャリ旅
お名前 : 建部 茂さん
加齢黄斑変性の型: 左眼:滲出型
発症時期 : 1997年(30歳代半ば)
今から3年ほど前、生まれて初めてロードバイク(少々高めの自転車)を購入しました。
キッカケは、要介護のために同居していた義父と会社が休みの日にずっと自宅で過ごすのも気が重くなり、外出する言い訳?をつくることでした・・・。それともうひとつの理由は、私は幼少のころから乗り物酔い(とくにバス)がひどく、家族とどこへ遊びに行くにもいつも私の乗り物酔いのために計画が変わり迷惑をかけることがトラウマになっていたのです。チャリなら大丈夫やろ!という発想から思いついた苦肉の趣味です(笑)。
そんな後ろ向きのキッカケから始まったチャリ旅の趣味ですが、今はかなりはまっています。(チャリ旅=自転車でいくおとなの遠足)
はじめてのチャリ旅の行先は網干(JRの駅でいうと山陽本線姫路駅から西へ3つ目の駅)でした。なぜ網干を選んだか? それは亡き母の実家で幼少期から長期休みの度に遊びに行っていた場所であったこと。それと、小学生の時に二つ上の兄と夏休みに自転車で網干に行く計画を立てていましたが、直前になって親から「茂はまだ小学生なのでやめなさい!」と言われ、断念した苦い思い出のリベンジも兼ねての初チャリ旅でした。
その後少しずつ向上心が芽生え出し、より遠くの自然豊かな場所を走りたくなりました。
それで、初めて「輪行」という前後の車輪を外して自転車を袋(カバン)に詰めて荷物として電車で移動する旅にチャレンジし、琵琶湖を目指しました。琵琶湖のほとりを走りながら、からだ全体で風を感じて走る感覚は、「ワクワク感」「爽快感」そのもので本当に贅沢な「おとなの遠足」のひと時でした。
また昨年は1泊2日でチャリダーの聖地で有名なしまなみ海道(広島県と愛媛県を結ぶ瀬戸内道)も走り、瀬戸内の海を真下に見ながら走る体験は自転車ならではの醍醐味です。
2日目の夜には台風接近で雨風の中ずぶぬれになりながら神戸三宮から自宅の大阪市内まで走り通しました。大変でしたがいい思い出です。
自転車は健康維持に人気の乗り物で、老若男女問わず仲間同士でチームを組んで走ってるチャリダーが多いようです。
あるとき、淀川河川敷を向かい風の中ひとりで帰り道を走っていましたが、疲労がたまりペダルをこぐ足に勢いがなくなっていました。そんな中、私よりかなり年配の人がスーッと抜いていきました。私も負けじとその年配のチャリダーの後ろにピタッとくっついてしばらく伴走しました。逆風の中かなり疲れていましたが伴走者がいて走るのと単独で走るのとではモチベーションが違うことを実感しました。人生にも伴走者がいるのといないのとでは大きな違いがあると思います。
同じ病に苦しむ黄斑変性症友の会のメンバーも私にとって逆風の中でもモチベーションをあげてくれる人生の伴走者であると思います。なかなか仕事と趣味で忙しく(笑)、お会いする機会は少ないかもしれませんがこれからもよろしくお願い致します。
今は治療は行っていません。サプリメントは紹介して頂いたオキュバイト50プラスです。
日常は現状維持を心がけています。例えば、バランスの取れた食生活、とくに和食中心のメニュー(味噌汁、納豆、つけもの等発酵食品)に変えました。
仕事では一日中パソコンを使うのでブルーライトカットのメガネを使用しています。
また、ときどきアムスラーチャートで正常な右目をチェックしています。
以上よろしくお願いいたします。
大きな声で歌を
氏名 : 神坂真佐子さん(84歳)
加齢黄斑変性の型: 両眼 滲出型
発症時期 : 2013年6月(78歳)
糸の通し方
先の切れた穴の針は写真がありませんが百均にあると思います。針の先が切れていて糸を強くピンと張って針の上でピンと張ったまま針先に押しつけると切れ目から針穴に糸が入ります。今はそれもまぐれに入るくらいですが、この冬 下のほうが破れた下着のベストを捨てようと思った。しかし丈が長くて長くて、上は着れるし暖かいから下の穴のあいたところからはさみを入れ、周りをぐるりと切りました。
これが難しかった短く切りすぎないようにし幅をあわせながら少しずつぐるりと切りました。それから裾を三つ折りにしてひと 針ひと針、「ちどりがけ」をしました。昔を思いだして靴下の穴の繕いしたなあ~と、半日かかったけど、楽しくやりました。
指の先は気をつけて向こうに出る糸が表に大きく出ないようにと、ちどりがけは大変でした。
おやつのケーキを我慢したらこのようなもの一つぐらい買えるのに・・・と思いながら何でもすぐ捨てられない。昔のもったいない人間です。しかし、お蔭で寒い冬を無事暖かく越せました。
炊飯器の水
水加減は内釜で三合お米を洗ったら、最後はお米を流さないようにぎりぎりまで水を捨てる。お米を計ったカップに三倍に量った水を新たに入れます。
私は唾液がでないからご飯が食べにくい、だから少し多めの水加減に少し柔らかめに炊きます。それでもご飯は唾液がないので口のなかで団子になって喉を越さないのでいつもお茶漬けで流し込みです。幸い入れ歯もさし歯もないので堅い沢庵もカリカリ音をたてながらおいしく食べられます。
おかきのお茶漬けにしてがりがり食べるのですぐ胃を悪くします
八十歳までメガネもなしに車で走り回っていたのにどうしてこんな老後になったのかと悔しい思いの毎日です。しかし全盲の人も強く生きておられるのに恥ずかしいと思って頑張って暮らしています。
一人で歌を
コロナの為に月に一度の地区の食事会も音楽療法の歌広場も取りやめになりました。仕方ないからアマゾン・エコーで「越路吹雪」の歌を聴いて「サントア・マミー」を一緒に一時間も歌ったり聞いたり、曇った日は暗くて電気をつけていてもかたづけも出来ないから一人で大きな声で歌っています。
赤ワインに玉ねぎを刻んで
氏名 : 尾郷 徹哉
加齢黄班変性の型: 病名も何も教えてくれなかった。
発症時期 : 平成23年頃(76歳)
今年85歳になり物忘れも出て来まして正確な年月は少しずれが有るかも知れませんがご容赦ください。
今考えると最初は網膜変性症では無かったかと思います、それは黄班ははっきりみえていたからです。
通勤で朝駅のホームで電車待ちの時片目ずつ交互に覆っていた時でした右目で見たときレールや上空の架線が鋸の歯のようにギザギザに見えたのです。吃驚して翌日眼科に行きました、先生は何も言わず沢山写真を撮ってからこの病気は治す薬も治療法も有りません、半年に1回位見せて下さい。
そして病気が進行するようだとレーザーで焼きましょう,しかし焼くと割と高い確率で見えなくなりますよと言ったのです。飲みたければ売店にサプリメントが売って居ますから飲んでください保険は効きませんよ、と言ったのです。
それでそのサプリメントを1年くらい飲みました、ドイツ製の高価な物でしたが治る気配は無かったです。すっかり落ち込んでぼんやりして何かを読んでいた時でした、フランスの民間薬として
≪赤ワインに玉ねぎを刻んで漬けて3日目から飲むと目に効果あり≫と出ていたのです。
これしかないと思い、早速夏の麦茶の広口瓶に玉ねぎを刻んで入れて赤ワインを注ぎ3日間を待って飲み始めました。
加齢黄斑変性症のテストに使う碁盤目の用紙で時々テストをしましたが最初は碁盤目があちこち破れていたのが少しずつつながって破れた個所も少なくなってきていました、これに力を得てさらに飲み続けてテストするとレールも電線もギザギザでなく緩やかなカーブになって居ました、ここまで1年位でした。車の免許試験の0.8もクリアしましてそれから3回継続出来ました。
そして昨年春頃赤ワインを飲むのを止めて様子を見ていると、黄斑の処に黒い物が見えてだんだん大きくなってきたのです、ビックリしてこれは加齢黄斑変性症になったと自覚しました、そしてワインを飲み続けた所黒い物がだんだん小さくなって消えたのです。
今は再発しないように少し量を減らして飲み続けております。
4日毎にワインを仕込むことを除けば昔と何ら変わる事無く見えますので一安心しております。先日NHKの深夜放送で黄斑変性友の会の存在を知り困っている人のお役に立てばと思い参加することにしたのです、よろしくお願いします。
事務局から問合せ
このまま掲載すると赤ワイン効果があるような印象を与えます。「誰にでも当てはまるわけではない」との注釈を付けて掲載しますが、いかがでしょうか。
文末に「NHKの深夜放送で知った」とありますが、何日の放送かも興味があります。
尾郷さんからの返事
NHKの深夜放送ですが3月6日の朝4時からだと思います、NHKに伺った所タイトル“視力を失って得た人生”と言いました。
インタービユウを受けたのは≪松浦常子さん≫と言いました。(←リンクしていますクリックすると別ページが開き記事が読めます) NHKの電話番号は、0570-066066です。
私の近所でも赤ワイン玉ねぎを飲み続けている人がおりますが、伺うと目の調子が良いと言っております。
もう一つ話が有りまして近くに私と同じ会社で定年された桃井さんと言う方がおりました90歳で去年亡くなられましたが、何年か前に連絡を受けて伺ったんですが、加齢黄斑変性症が進んでいて昼と夜がどうにかわかるくらいに進んでおりました。
私が赤ワイン玉ねぎを最初に届けたのが5月20日でしたが、6月に伺った時TVの野球放送の前に居ました。
吃驚して見えるんですかと伺うと、選手の顔は分からないが球を追いかけている動きが分かるよと言いました。
その後も卓球の試合も見て球は見えないが動きで感心しておりました。相撲が好きで力士の取り組みは分かるが顔は見えないと言っていました、又こんな人生が送られるとは思いもしなかったと言って喜ばれました、それから3年位赤ワイン玉ねぎを届けましたが最後に喜んでもらえて私もうれしかったです。
病院は近くの東邦大学病院に掛かって居ましたが時々視野測定に通っておりましたが伺うと視野測定しかしてくれないと言っていましたが外え出るのを楽しんでいました。
私の場合も同じ東邦大学病院に掛かったのですが治らないと言われたので2度とはいきませんでした。赤ワイン玉ねぎを飲むだけでした。
個人差が有るかも知れませんが酒に弱い人はジュースを入れたりしていますが沸かしてアルコールを飛ばして飲んでも効くかどうかは分かりません。
尾郷徹哉。
光る神様に出会って
お名前 :初田邦代さん
加齢黄斑変性の型 :滲出型
発症の時期 :2016年ころ
思えば、私がかかりつけの眼科から紹介されたのが一年と二カ月前、白内障と黄斑に水が溜まって腫れているということからです。S医大の先生は黄斑変性と白内障、「注射をしても白内障の手術をしてもネ」といわれました。でも白内障の手術はいつでもできるからという事で、注射ルセンティスを十一月と十二月の二回して下さいました。何故か三回目はありませんでした。きっと効かなかったのでしょう。
その後、一か月毎に。検査・診察をしていただきましたが、少しずつ見えづらくなっていったのです。私の気持ちもどんどん落ち込んで行き外出もあまりしなくなり、心配した娘が「こんなのネットで見つけたよ」と黄斑変性友の会でした。「遠いやん。か」と渋る私でしたが、娘がさっさと手続きを済ませてくれました。
治療もままならぬまま、一体白内障でなのか、黄斑変性でなのか、こんなに見えづらくなっていくのは随分と悩みました。でも注射を変えてみましょうという事で、アイリーアの注射を受けました。「今度は効くといいのにね」と先生がおっしゃって下さった時は本当に嬉しかったです。
二週間から三週間で効果があるといわれましたが、一向によくならず気持ちはどん底。支えてくれた友達の電話が何よりでした。先生から「じゃ手術(白内障)を考えてみて下さい」と云われたのが六月。どこか逃げ出したいような気持になり、思わず高田さんに電話をかけていました。
「(この病気は元に戻ることはない。ならば他に頼るものは何かないか)メガネ、メガネ、メガネですよ」
「えっメガネ」。
「取り敢えず、大阪の生野区のメガネ屋へ行きなさい、電話しておくから」と親切に言って下さり、家族に相談して出かけたのが七月二十二日、ネットとナビを頼りに知らない土地で探すのは大変でしたが、玄関で待っていて下さり、これが星野様との縁です。検査やいろいろアドバイスを丁寧にして下さり、とにかく神戸アイセンターへと勧めて下さったのです。二日後の二十四日にはアイセンターの玄関口に立っていました。
診察していただけることになり、いろいろな検査を受けました。その検査器が私にはとてもやさしい色合いで笑われるかもしれませんが、行くたびに受ける検査に怯えていた頃があったのです。
検査を終え二度目の診察室に入り事情をいろいろ聞かれました。先生が「じゃー、こちらで診ましょう」とおっしゃって下さった時は本当に嬉しかったです。それからトントンと事はスピーディーに運び、九月六日右目の白内障の手術を受け現在に至っています。本当に見えづらかった物が見えるようになり大変うれしく思っていますが、これからなんです。
黄斑変性に関しては、物は歪んで見えますし、いまだ不安で一ぱいです。これから体力のある限りアイセンターでお世話になりたいと思っています。主人が先生のことを光る神様だと申して喜んでくれています。
父を看病して思うこと
Sさん (50歳女性 患者の長女 東京都在住)
患者 :83歳男性
加齢黄斑変性の型 :滲出型 両目
発症時期 :約10年前
加齢黄斑変性の父を看病していて、二つのことを重点に調べました。一つはセカンドオピニオンに関する情報(方法 行きたい病院)の収集、もう一つは拡大鏡等の補助器具の情報収集です。私が看病を通じて痛感したことは症状の軽いうちに病状が進行した時の準備をしておけばよかったということです。友の会の皆さんの参考になればと思い、体験を書くことにいたしました。
父の病状
父は、約10年前(私は、すでに家を出ていたので、詳しい状況は分かりません)に加齢黄斑変性を発症しました。近所の眼科で診察を受け、そこで紹介された大学病院で加齢黄斑変性と診断されました。すでに左目は、治療ができないほど症状が悪化していたため、右目だけ治療を行いました。治療は、抗VEGF薬の眼球注射です。治療は1か月毎に3回の注射をし、その後、定期検査を受け悪化すると再度眼球注射という方法です。
発症してから、ほんの数回視力が落ちることがありましたが、眼球注射をすると、視力は回復していました。眼球注射は平均すると年に6回程度受けていました。5年前に母を亡くして以後、父は一人暮らしをしていますが、生活に不自由することはなく、趣味の囲碁や英会話を楽しんでいました。
私も、父もこの状態がずっと続くと思っていました。しかし、症状が回復しない程、悪化してしまったのです。今年6月いつも通り、定期検査を受けたところ、本人に視力低下の自覚症状はなかったのですが、眼底に腫れが見られるとのことで、1週間後の眼底注射の予約を取りました。注射の3日前、急に眼が見えにくくなり(今、思えば出血したのだと思います。)その後1か月毎に3回続けて眼球注射を受けました。断層写真では、眼底の腫れはやや良くなっていますが、残念ながら、現在も視力は回復していません。(矯正して0.2程度)
セカンドオピニオンについて
直近の治療を受けている時に、現在の担当医の対応に不満を覚えました。そこで、私はセカンドオピニオンを受けるために色々調べ始めました。どの病院が良いか、セカンドオピニオンを受けるためにはどのような手順を踏んだらよいか等です。セカンドオピニオンは患者の当然の権利ですが、父そして私にも今の担当医が気分を害するのではないかという不安がありました。私はインターネット等で情報を集めるなかで、そのもやもやした気持ちを解消することができました。
しかし、父は視力低下からインターネット上の情報を自分で読むことはすでにできない状態の中で、娘の私からの説明だけでは、その不安を解消することはできませんでした。
最終的には、現在の病院からの情報提供なしで(今の担当医には知られることなく)、診てくれる病院を見つけそこでセカンドオピニオンを受けることができました。
セカンドオピニオンについて、調べたり、病院へ問い合わせをするということは、私が患者当事者ではないのにも関わらず、かなりのストレスでした。一刻も早く、良い方法を見つけなければならないと思う焦りもありました。もし、症状が悪化した状態でこれを患者本人がするとしたら、そのストレスは相当なものではないかと思います。
ですから、今、症状の軽い会員のみなさんも、もし今後、セカンドオピニオンを受けるとしたらどのような病院があるのか、どのような手順を踏むのか等を今のうちに調べたり、あるいは、ご家族に調べてもらったりをしておくと良いと思います。
補助器具について
視力が低下してから、父は大好きだった英会話のテキストを読むことはもちろん、市役所等から送られてくる手紙も市販の拡大鏡を使っても読めなくなっていました。父が英会話のテキストを3倍に拡大コピーして更に拡大鏡を使っても読めないと知った時には私は愕然としました。文字の大きさだけではなく、字体やコントラストも重要であることを知りました。
インターネットで電子拡大鏡というものがあることを知り、良さそうなものを何点かピックアップしました。値段も安くはないので、実際に商品を試せる店舗を探したのですが、なかなか見つかりませんでした。(そもそも、パソコン画面を見るのも困難な状態の人が必要な器具ですから、インターネットに情報がないのも当然です。)眼科に付属するロービジョン*専門店もあったのですが、そこは、ロービジョン*外来で診察を受けてからではないと、器具を試すこともできないとのことでした。
(*ロービジョン 眼の機能が、病気や怪我などによって低下してしまった状態)
インターネットを検索しているうちに実家から1時間くらいのところで欲しいと思っていた電子拡大鏡を試せるお店がなんとか見つかりました。その店の店主はロービジョン学会の会員で、父の目の症状も普通の眼鏡店よりは理解してくれました。このお店を見つけられたのは本当に良かったです。店主の方が、パソコンの画面も見えないほど眼の悪い方に情報を発信するのは本当に難しいとおっしゃっていました。
電子拡大鏡など、必要のない会員の方々も将来もし必要になったら、どんなものがあるのか、ロービジョン外来がある病院はどこかなど、今のうちから調べておくと良いと思います。
症状が悪化するなんてことを考えるのは、気分の良いことではないのですが、セカンドオピニオンの情報にしても、補助器具の情報にしてもお守りと思って準備しておくと良いと思います。
これが、私が父を看病するなかで皆さんにお伝えしたいと思ったことです。少しでも皆様の参考になれば幸いです。
参考までに私が購入を検討した商品と実際に購入した商品を記載します。iPadなどのタブレットにインストールして使える拡大鏡のアプリもあるようです。また、良いものがみつかれば、友の会を通じで皆さんにお知らせしたいと思います。また、すでに使っている良い商品があれば、友の会を通じでお知らせ頂ければ嬉しいです。
購入商品
株式会社システムギアビジョン クローバー4(39,800円)
検討商品
株式会社システムギアビジョン クローバー3(29,800円)
株式会社システムギアビジョン クローバー10(198,000円)
*クローバー10は障がい者手帳を持っている方が補助を受けて購入する場合が多いとのことです。
名前 :岡田 弘
加齢黄斑変性の型 : 不明
発症時期 :左眼:1995年(平成7年 60歳)
:右眼:2002年(平成14年 67歳)
題名: 毎日8千歩で健康維持
生い立ち
私は昭和10年(1935年)東京の蒲田で生まれました。戦前、国民学校と行った時代に学校に入学しました。蒲田は中小企業の町工場が多い土地で、家業はグリコの箱に印刷する仕事でした。昭和20年の東京大空襲で壊滅的被害を受けました。
兵庫県の出石に逃れ苦しい生活が続きました。その後、大阪に移り父親は事業を起こしました。
ゴルフ場で
目の異変に気付いたのは今から24年前の平成7年、神戸地震の年です。ゴルフ場でティーショットをしようとしたとき、止まっているはずのボールが浮いたり沈んだりしました。直ぐに眼科に行きました。アムスラーチャートを見せられ、やはり歪んで見えました。医師は病名が加齢黄斑変性と告げました。今のような抗VEGF薬のない時代のことで、治療はレーザー光線でした。
右眼は正常だったので、自動車の運転は出来ました。ただ、トンネルの中は暗いので、大型トラックのテールランプを見ながら走りました。出口などの書かれた案内標識は助手席の妻が読んで、カーナビの代わりをしてくれました。その後、右眼も発症したので運転免許証は自主返納しました。
毎日読む新聞
現在の視力は右眼が0.003、左眼が0.007です。枚方の関西医大で3~4カ月に一回定期検査のために訪れます。治療は24年前のレーザー光線以外には何もしていません。
この視力で困ることは、字を上手に書けなくなったことです。切手を真っすぐに貼れないという問題もあります。
このような視力ですが、新聞は日経新聞と産経新聞を毎日読んでいます。LEDのスタンドで明るくし拡大ルーペと、テレビで宣伝しているハズキルーペを使います。今朝の日経新聞には「アメリカ政府の高官が竹島は日本の領土という発言」「内閣改造で小泉進次郎氏が環境大臣に内定」の記事が出ていました。視力が低いのに新聞を読むのは、仕事で銀行マンなどと接する機会が多いからです。テレビも見ますが、字幕を読み終わらないうちに画面が変わってしまいます。
4年前の平成27年の障害者手帳の視力4級の交付を受けました。鉄道やバスに乗る時、付き添いがあると一人分は無料になります。ただし、特急料金や指定席の割引はありません。入場料も割引になります。2月の歩こう会で訪れた銀閣寺の入場料を割引がありました。僅かですが、たすかります。
このほか、息子の運転する自動車に同乗するので自動車税が免税になります。またNHKの受信料が半額になります。
欠かさない運動
健康を維持するため、運動を欠かさないようにしています。先ず歩くことです。万歩計を身につけて、家で5000歩、会社に出勤して3000歩、合計毎日8000歩以上歩くようにしています。
このほか、昨年6月の定例会で大阪の女性医師窪田先生が紹介された「かかと落とし」などをします。寝る前にはタオルを握る運動を3000回行います。
仕事の経営は5年前息子に譲りましたが、土曜、日曜と「二水会」のある日を除いて毎日出勤します。経理帳簿を見るのが仕事です。
食べ物は妻が塩分を取りすぎないよう気を使ってくれます。
友の会との関わり
私は2015年に友の会が発足した当時からの会員です。出来るだけ、多くの人と知り合うために行事に参加するようにしています。
一昨年4月の琵琶湖畔海津大崎は長い距離でしたが、歩くことに慣れるようになりました。
今年2月の京都哲学の道は平坦で距離も体の負担になりませんでした。しかし、奈良の山の辺の道は坂道が多く歩きにくかったです。それでも、最後に立ち寄った店で三輪素麺を美味しく頂きました。10月の兵庫県たつの市の歩こう会のあと、赤穂温泉に泊まるのが楽しみです。
3月の神戸理化学研究所見学会では、予想もしていなかった高橋政代先生が出てきて講演をしていただきました。質疑応答で、私の治療について質問しましたところ、「安定していることが大切」といわれ、安心しました。
さいごに、友の会の行事にはいつも妻が付き添ってくれます。感謝しています。
(2019.9.11 髙田 忍 口述筆記)
窪田純子医師の講演から
名前 : 雲北 一雄
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期 : 2014年5月 アイリーア注射 15回
題目 : フレイル予防のすすめ
-高齢者の健康維持についてー
黄斑変性友の会から提供いただいた上記テーマについて私なりに当てはまるものをしるします。
私は現在80歳になりました。今のところ健康面では健診(人間ドック)で多少気になることはありますが.いたって毎日元気に過ごしています。
フレイル予防に必要な3つのことができているか見直してみました。
「栄養面」では特に気を付けていませんが栄養士からのお話を参考に塩分・甘いもの・量を控えるようにして朝昼晩3食は必ず取っている。
「運動面」では月1回、週2回で開催されている高齢者向けの体操に参加しています。
月1回の方はシニア向けのさわやか運動(2h)をタイトルに体操の講師が前半は健康面のお話があり.後半は無理のない全身運動をしています。
週2回の方はDVD(町作成分1h)を見ながら高齢者向けの体操をしています。いずれも一人で運動するのが不得手ですのでこのような企画の場に参加して体を動かすようにしています。
「社会面」では町・社会福祉協議会から認可をいただいた福祉団体で.スカイクロス・ウオーキング・サロンがありそれぞれの代表をしていました。今年度(令和1年4月)でもって代表を退き、後継者にバトンタッチしました。いずれも60歳以上のシニア向けで集まれば和気あいあいと楽しい一日を過ごすことができ健康の増進と会員相互の親睦を図ることを目的にしている。
いずれも月1回のペースで実施している。
以上の面からみて、特に健康維持について自身の努力とともに毎日を規則正しく過ごし自分に合った行事・集会に参加することにしています。
08/13/2019
名前 : 匿名 男性
加齢黄斑変性の型: 滲出型・萎縮型
発症時期: 2009年12月(43歳)
不安との戦い
平成21年12月頃、43歳の時に職場でパソコン作業中、突然、左目に違和感を覚えました。左目の奥にピキッとした音がなったような感じでした。その日から、左目で見る画像や文字に少しの歪みを感じるようになりました。当時、仕事上のストレスに見舞われていた頃であったことも覚えています。
初めは老眼の症状かなぁ、と考えていましたが、文字の歪みに不安を感じ数日経っても症状が変わらないので、5歳上の先輩に老眼について質問をしました。
私は、「老眼は私の年ぐらいになるものですか?」と尋ね、先輩は「それぐらいの年になると老眼になるものだよ。」と答えられました。
さらに私は、「老眼になると文字が歪みますか?」と尋ねたところ、先輩は「それはないなぁ、一度眼科で診察を受けたらどう」と勧めていただきました。
近所の眼科で受診したら、新生血管があり、精密検査を受けたほうがいいと言われ、不安になりました。
阪奈中央病院で精密検査を受け「黄斑変性症」と言われました。聞いたことのない病名でインターネットの情報は断片的で治療への不安感と、当時奈良県内では手術ができるのは市立奈良病院の一人の先生しかいないとのことで、益々不安になりました。
市立奈良病院の先生は、若い先生でしたが、黄斑変性症について詳しく説明をして頂き安心できました。その後、翌年の1月に眼底検査や造影検査を経て、アイリーアの硝子体注射という手術を受けました。
当時は私自身手術室にさえ入ったこともなかったので、とても緊張し、術後の血圧は170以上になり看護師さんに支えられて手術室を出てきた程でした。
術後は定期的に通院していたのですが、23年の夏に照明を替えようと上の方を覗き込んだときに、右目にも違和感を覚えました。この時の診断は硝子体剥離でしたが3年ぐらい前から右目にも黄斑変性症の症状が発症しました。両眼ともに症状が出てくると、今後の日常生活にも不安を感じました。
数年前からお世話になっている大阪の専門の先生に、私の黄斑変性症は新生血管の滲出性と強度近視を原因とする萎縮性の両方の特徴があるとのことでした。また右目は硝子体剥離を原因とする黄斑前膜もあり、60歳ぐらいから黄斑前膜の手術と白内障の手術をすることが望ましいということも教えて下さいました。
現在は少しずつ、見える範囲が小さくなっているような感じもあります。
黄斑変性症は、『今まで当たり前に見えていたものが見えなくなる』という不安との戦いを強いられる病気だと思います。そのため、少しでも色々な情報を求めてインターネットで検索していたら、黄斑変性友の会の存在を知りました。関西だけでもこんなに多くの人が悩みを抱えているんだなぁ、と改めて感じました。個人差はあるでしょうが、貴重な情報交換、助け合いのきっかけになる会だと思い入会させて頂きました。
余談ですが、当時の手術費用は健康保険が適用され3割負担ですみました。また平成21年度までアイリーアの手術は保険点数が手術と同等で医療保険の適用も受けられ、ほぼ、自己負担なしで受ける事ができました。しかしながら翌22年度からの厚生労働省による改正(私には改悪ですが)で、アイリーア手術は保険点数が低く評価され注射の扱いと同等になり、医療保険の適用が受けられなくなり、一回当たり約5万円の自己負担となりました。
黄斑変性症の多くの人は定期的な注射が必要だと思います。金銭的な負担を理由に手術を諦めてしまう人もいると思います。何とか改善して欲しいと強く思っています。
また、5年前に理研さんによるiPS細胞の臨床研究が始まり、個人的にはとても期待しています。
パソコンやスマートフォンの普及で今後も多くの方に黄斑変性症の症状が出てくるかもしれません。同じような悩みを持つ方に、少しでも自分の経験から伝えられることは伝えて不安感が癒されて欲しいと思います。
以上
名前: 金子恭子(82歳)
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 1999年5月(62歳)
題名:新しい注射の効果
前回体験談を記載してもらいましたから、それ以降の進展及び変化について少し書き述べ皆様の参考になればと思います。
2018年6月から8月にかけて涙道の手術を受け、その間眼科への診察が出来ずにいまして、8月23日にやっと眼科に診てもらいました。
ところが、その空白の2ヶ月ほどの間に右眼に黄斑変性が発症していて、それまで左眼が黄斑変性と言われていたのが、右眼にも黄斑変性を発症したことになります。
即日アイリーアの注射を受けました。1カ月後9月27日に眼科に行き網膜の断層写真など撮ってもらったところ、少しふくらみは減り、その後1か月ごとにアイリーアの注射を4回受けました。しかし4回目の注射は、これまで4週間おきだったのが、医師の休みで5週目となりました。医師から「注射の効きが弱くなったかもしれないので、今回もう一回アイリーアを打って、それで効果がなければレーザーに移ることになる。アイリーアの注射は本来3回で90%OKだけど、ハレが出るタイプでもある」と言われました。
4週間後に眼科に行きました。診てもらった結果「薬(アイリーア)は効いていないわけではないが、少し効きが悪くだいぶ腫れている」とのことでした。
その時、医師は「レーザーに移る前に別の注射薬(ルセンティス)があるから、それを一度試してみましょう」と言われ、即ルセンティスの注射を受けました。4週間後恐る恐る検査を受け診察してもらったところ、この新しいルセンティスの注射の効果は断層写真でもはっきり出ているのが確認できました。写真を見て「この注射の効果が本当なのか2週間たったら診ましょう」と言われ、2週間後の1月17日に眼科に行き、いつもの断層写真を撮って診てもらったところ、ルセンティスの注射の効果が出ていると言われ、ひとまずはレーザー治療に移ることは避けられホッとしました。
その後4週間おきにこの新しいルセンティスの注射を続けました。3回目の2月14日の検診の結果、前回より腫れは引いていて断層映像もかなり水平に近いところまで戻りました。
3月14日の4回目の検査では新しい機器が入ったからと蛍光眼底造影検査(注:参照)も同時に受けました。まばゆい赤や黄や緑のチカチカする光線を当てられ目がくらむような検査で正直これは御免だと思いました。しかし、これが医学的にどのような効果を測るものかわかりません。
以上今日にいたるまでの私の黄斑の治療です。私が今回初めて知ったのは黄斑の注射にも2種類があるということです。アイリーアだけが効かないから駄目と思わず、他の注射も試してもらうことをお勧めします。(2019年3月29日)
(注)蛍光眼底造影検査とは、腕の静脈に造影剤を注射すると心臓を経由して眼底の血管に流れていく様子を眼底カメラで連続して撮影する検査です。青色光または赤外光フィルターを通して眼底を照明し、造影剤(色素)から発した蛍光だけを撮影しますので、血管内の血液の流れの状態や、通常の眼底検査では発見が困難な病変を詳しく調べることができます。
名前: 匿名希望
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2007年8月(56歳)
94歳の母に励まされ
片目をふさぐと右目が
2007年の8月初旬ごろ文字が読みにくくなりました。私は以前から遠視のためプラス度数のコンタクトを両目に装着しており、近くを見る時は見にくいので老眼鏡をかけて文字を見ていました。
老眼が進んだと思っていましたが、ある時鏡の前で片目をふさいで交互に見た時右眼は普通に見えるのに、左目で見た時中心部が黒くかけているのに気付きました。変だと思い眼科に行きました。黄斑変性との診断でした。すぐに治療はせずにしばらく様子を見るとのことでした。経過観察で毎週眼科に通い、翌月の9月になってレーザーで毛細血管を塞ぐ手術をしました。
三日間の入院、その後一週間は光を避けてるようにし、家に帰っても太陽や家の明かりにも気を付けて過ごしました。
その後、順調によくなり中心部の黒いものはなくなりましたが、レーザー痕なのか、ゆがみは残りました。しばらくは遠近感がつかめなく自転車に乗るのも怖い思いをしました。その後の数カ月後には外出しても特に困ることもなく自転車に乗れて以前と変わらない生活が出来ていました。
安定した11年間
11年間は眼科にはほぼ3カ月ごとの検診に通いました。 11年の夏に一度前回の場所で少し膨らんできたのを注射で治療したことはありました。でもあまり深刻に思いませんでした。
左目も
黄斑変性発症後はルテインを欠かさず服用していましたが、2018年9月に左目の見えにくさに気付きました。眼科に行きましたところ、新たに以前とは違うと場所での出血が見つかりました。今回はガスを注入しての手術と3日間の入院でした。1週間はほぼうつむきの生活でかなりのストレスです。
ところがその治療で私の血のかたまりは移動せず、10月2日の一回目の手術入院に引き続き1週間後の10月9日に再入院となりました。硝子体を切開してそこから血のかたまりを溶かす注射をし、その後ガスを注入して血のかたまりを移動させる手術でした。この時は手術時間も1時間以上だったと思います。
手術は部分麻酔で目の中の様子がはっきりわかるため、針が入ってくる様子やその後散らばった血液が吸い込まれていく様子など気持ちのいいものではありませんでした。
また10月29日にはアイリーアの注射もしました。
10月9日の手術後、黄斑変性の部分の少し黒いものは薄くなったのですが左下の4分の1の視野がなくなりました。手術した眼科の先生に、見えない部分があると伝えたのですがあまりわかってもらえませんでした。その後初めて視野検査をしてもらったらほぼ4分の1の視野がなくなっていました。
先生の見解では、私に持病の高血圧とか糖尿とか左首の高脂血症のような動脈にプラークがないということでした。内科の方で検査してくるようにといわれました。私は「以前から健康診断も定期的に受けているし血圧も低血圧だしその他の持病はないです」と答えました。でも、もう一度検査を受けその結果を眼科には提出しました。
別の眼科で検査
その後なんだかその眼科が信頼できなくなり行くのが嫌になり違う眼科で何故見えない部分があるのかを調べてもらいました。やはり4分の1の視野がなく網膜の静脈が詰まっており、もう戻らないとの見解で、はっきりとした原因は分からないとのことでした。朝起きると何とも言えない不安な気持ちでいっぱいでした。
94歳の母が
そんな落ち込む私を見ていた94歳になる母がインターネットで関西黄斑変性友の会を見つけてくれて私に勧めてくれたのです。私もその後、友の会のサイトを何度も閲覧し、どうしようかなと迷っていました。お正月に帰ってきた長男家族を含めみんなに私が友の会に入会しようと思っていることなど話し合い関西黄斑変性友の会に入会することにしました。
2019-03-01
名前: 髙田 忍
加齢黄斑変性の型:滲出型
発症年月:2014年8月(72歳)
眼底写真から思うこと
2019年2月5日、大阪の病院で3カ月ぶりに検診を受けた。いつもと同じように視力検査の他に断層写真と眼底写真が撮影された。今回は、加齢黄斑変性の右眼のほかに正常な左眼の撮影も行われた。幸い、今回も右眼は悪化しておらず、抗VEGF薬の注射はなかった。
下の表は2014年9月に発症して以来、暦年毎に注射の回数と、次の注射までの間隔を表したものである。前回の注射は2018年5月22日で9カ月間病状は安定していることになる。2016年には一度も注射がなかったのは、発症時の治療の効果が持続していたものと感がられる。その効果が薄れ2017年には4回も治療を受けた。
2018年5月以降の最も大きな生活上の違いはサプリメント服用の有無である。効果があったと判断している。
2014 |
2015 |
2016 |
2017 |
2018 |
2019 |
3 |
1 |
0 |
4 |
1 |
0 |
8か月➡ 20か月➡ 9か月➡サプリメント |
下は右眼の眼底写真と断層写真である。医師の説明によると、眼底写真の色は網膜の厚さを等高線図のように表わしたものだという。緑色は正常な厚さであることを表し、白色は薄いことを示し水が溜まっていると考えられるという。この写真からは異常がないので、注射は必要ないと判断された。
下は参考までに撮影された左眼である。右下の断層写真も異常は見られず、眼底写真も素人目にも正常なことがわかる。
次の写真は前回注射した9カ月前の2018年5月22日のものである。たしかに白い部分が大きく写っている。納得して注射をして貰った。
ところが、念の為に一昨年2017年4月21日の眼底写真をみた。この時は注射されたのである。一見した所、2月5日の写真と大きな違いは見られない。違いはといえば、この間に担当する医師が変わったということだけである。医師の判断にも個人差があるようだ。次の検査の時に、医師の判断基準を聞いてみようと思う。
この時から75歳以上の後期高齢者となり3割負担が適用され45400円支払っている。生命保険の手術特約も適用されなくなり負担と感じるようになった。それ以前は一割負担であったことことに加え、生命保険の手術給付金を一回当たり50000円を受け取ることができた。天と地の差がある。
サプリメントの価格
今回、注射をせずに済んだのはサプリメントの効果ではないかと考えている。発症して4年以上経過しているのに、治療をしなくて良い状態が続いているからである。2017年には4回も注射したことと比較するとサプリメントの効果を信じたい。
サプリメントはボシュロムジャパン社の「オキュバイト50+」である。同社から直接購入すると60粒(一ヶ月分)で3780円(税込み)で、3か月分に換算すると11340円となる。ところがアマゾンから三か月分を購入すると6800円である。アマゾンは大量仕入れの価格でボシュロム社から割安で入手しているようだ。この違いは大きい。
(2019,02,06 髙田 忍)
名前:布施 英子
加齢黄斑変性の型: 右 滲出型 左 萎縮型
発症時期: 左 2003年12月(63歳)
右 2010年12月(70歳)
予防法もしっかり実行
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昨年は3回も行事に参加させていただき幸せでした。
「友の会ニュース」7号その他をお送り下さいましてありがとうございました。私のへたな作文を掲載していただき恥ずかしい限りです。
「友の会ニュース」に「早期発見も大事、その前に予防を」の記事を拝読しました。左目が加齢黄斑変性症と診断された15年前は有効な治療法はないようで、経過観察だけでした。診断を受けてから新聞や健康雑誌でこの病気に関する記事を多く目にしました。「友の会ニュース」にある記事と同じ内容でした。症状の進行を止めたい一心で一生懸命予防につとめました。それでも7年後に右目にも発症したのでした。とても悲しかったです。現在は両目にゆがみがあるものの治療と予防法を続けているおかげだと思っています。
ですが、15年も眼病をわずらっていますので、目の具合が良い時は横着になって見ないようにしているテレビに見入ったり本も読みすぎたりして目を疲れさせてゆがみがひどくなり「いっけない!!」と反省することしきりです。
2019年は目をいたわって予防法もしっかり実行して注射治療を受けることがないようにしたいです。(2019年1月5日)
私が続けている予防と改善法は次の三つです。
① 黄緑色野菜に豊富なルテインを摂取する
② 紫外線やテレビなどから発するブルーライトから目を守る
③ 運動する
どれも発症時健康雑誌から学びました。それぞれの内容を詳しく書きます。
1. ルテイン摂取について
ルテインは有害な光をさえぎり目の酸化を防ぐ。ルテインを含む緑黄色野菜としてケール、ほうれんそう、ブロッコリー、芽キャベツ、レタス、パセリ、トウモロコシ、卵黄などがあります。
私はほうれんそう、ブロッコリーから摂取しています。ルテインは油と一緒に摂取すると十二指腸での吸収がよくなり効率よく体内に取り込むことができるようになると記されていました。
なので、ほうれんそうはゆでてごま油で炒めていましたが、今はゆでたものにアマニ油エゴマ油小さじ一杯としょう油少々で調味してほぼ毎日昼食か夕食に食べています。
ブロッコリーはかぼちゃ、にんじんと一緒にフライパンに入れ水少々で蒸し煮にして朝食に食べます。
酢、しょうゆ、ごま油少々の手作りドレッシングにつけて食べます。長年、毎朝食べていても飽きません。
一人暮らしなので一度作ると4回は利用できて便利です。
ほかの緑黄色野菜もごまあえ、煮びたし、みそ汁にします。生野菜は食べません。
炒め物や揚げ物は年寄りになって食べられなくなりました。それでも油分も必要と思いますので食物にかけたり、手作りドレッシングに入れて摂取しています。これまではオリーブ油とごま油だけでしたが、MCTオイル、エゴマ油、アマニ油も利用して楽しんでいます。
健康雑誌の記事には、すでに加齢黄斑変性症を患っている人は食物だけでなくサプリメントも利用することをお勧めしますとありました。なので、ドラッグストアでルテインのサプリメントを購入して飲みました。
4年前(2015年)NHKテレビの加齢黄斑変性症に関する放送で、この病気のための複合サプリメントが眼科で購入することができると伝えていました。眼科受診の時、先生におたずねしましたら、この医院でも購入することができました。うれしかったです。「オキュバイトプリザービジョン2」です。30日分5290円です。以来毎日飲んでいます。
ゆがみはありますが、視力(めがねをかけて今の所、右1.0左1.0)は保たれていますので効果はあるのかなーです。
2. 紫外線やブルーライトから目を守るについて
発症時からUVカットでうす茶色のメガネを使用しています。
外に出る時は必ず帽子をかぶります。テレビは、昼は見ません。夜も1~2時間程度にしています。
3. 運動するについて
近くの運動公園に歩きに行きます。1週間に3~4回、体の調子によって30分~1時間歩きます。
毎日自宅で行っている運動
- 片足立ち 一分ずつ
- スクワット30回
- スワイショウ30回ずつ(両手を前後に振る。両手を左右に振る)
昨年6月の定例会で窪田子先生に教えていただいた体操を行って、体を動かしています。
以上が私の加齢黄斑変性症の予防と改善法です。これからもずっと続けて視力を保っていられたら幸せだなと思っています。
(2019年1月17日)
名前: 高屋千津子(67歳)
加齢黄斑変性症の型:萎縮型(両眼)
発症時期:右眼 昭和58年(1983年)
左眼 平成7年(1995年)
僕が君の目になる
異変は32歳の時
私の右眼の異変は32歳の時、娘の出産直後でした。写真を見ていて、下の部分が歪んでいることに気付きました。しかし、子育ての忙しさと左眼が見えていたため、あまり不自由なく生活しておりました。 その7年後、コンタクトレンズを作りなおそうと行った病院で「右眼の中心部が真っ黒で神経が死んでいる。どうしてもっと早く治療しなかったのか」と叱責されました。右眼は今も視野はありますが、ほとんど視力はありません。
左眼も
恐れていた左眼に異常が見つかったのは、平成7年夏のことです。転勤族であるため東京、金沢、福岡、横浜、千葉、広島と引っ越しました。主人は長男ですので、半年後に広島を離れ実家のある京都府南丹市に帰る予定で家を改築していた矢先のことでした。 車を運転していて焦点が合わず、疲れているのかなと思いました。そのうちテレビ画面が歪んで見えるようになり、広島の大きな病院3か所で診察を受けました。眼底出血なので、一年半から二年くらいかかりますが治りますよといわれホッとしました。止血剤と血管を強くする増血剤の眼中注射と飲み薬をもらい治療しました。 しかし0.9あった視力はどんどん悪くなり0.3にまでになってしまいました。運転免許更新も迫っていたので、視力回復センターにも一日おきに通いました。視力は戻らないまま南丹市に引っ越すことになりました。
サジを投げた医師の一言
それと同時に、主人は鹿児島へ転勤になり離れ離れの生活になりました。すぐに京大病院、京都府立病院に行きました。京大病院では10人くらいのインターンの人たちの前で私の目の画像を説明し、医師は私にこう言いました。「あなたの目は加齢黄斑変性症だね。今の西洋医学では治らんね」「前の病院で飲み薬をもらっていたのですか?」「出せと言われれば出すけど気休めだよ」と。その時初めて黄斑変性症という病名を知りました。その医師のサジを投げた一言は、私を地獄に突き落としました。悲しくてかなしくて涙が止まりませんでした。目の病状はどんどん進行し、カメラのシャッターをきったようにピカッと光ったり、黒い影が見えるようになりました。
前向きにしてくれた主人の一言
私の目はどうなるんだろう、不安で不安でたまりませんでした。主人の両親はうなぎの肝がいいからと魚屋に頼んで買ってきてくれたり、優しくしてくれましたが、気持ちはどんどん落ち込んで行きました。 知らない土地で、おしゃべりする友人もなく、2人の娘たちも新しい土地で頑張っていると思うとあまり言えませんでした。鹿児島にいる主人からは、毎日のように電話がありました。でも心配かけたくない思いで明るい話しかできませんでした。 ある時主人から電話があり、胸がいっぱいで声が出ませんでした。「どうしたの。おふくろに何か言われた?」「そうじゃないの。私の目見えなくなってしまうかもしれない。」初めて泣きながら言いました。主人は「君の目が見えなくなったら、僕が君の目になればいいじゃないか。目が見えなくたって君に変わりないんだから。君はいてさえくれたらいい」と。嬉しくてうれしくて涙が止まりませんでした。そのとき、これからは前向きに生きて行こうと思いました。
「黄斑変性症は治る!」に期待して
腰を痛めて、鍼灸で有名な明治鍼灸大学病院に行ったとき、目の病気の事を話すと、一割負担(200円)で10回ハリ治療を受けられると言われ、東洋医学にかすかな望みを持って受けましたが、全く変わりありませんでした。 10回目の治療を終えたとき、待合室で雑誌「今日の健康」の「黄斑変性症は治る!」という見出しが飛びこんできました。そこには阪大病院の田野教授が五~六年前から黄斑変性症の元気な網膜を移植する手術をしていると書いてありました。 この時、主人は大阪に転勤していましたので、主人を通して阪大病院にお願いし、田野教授の診察を受けました。この手術は発症してから1年未満の人が対象で、自分にはできないこと。その代わり、これ以上血管が切れないよう眼球の周りに金属の支え棒を入れる手術を勧められました。二週間入院し、その手術と斜視の手術を受けました。 左眼は矯正して0.08くらいで中心部が全く欠けているので、人の顔や見ようとするものが見えません。年とともに見えにくくなり、おまけにオッチョコチョイですので、よくつまずいたり段差で転び骨折し、家族の皆に迷惑をかけてきました。
お菓子とパン作りの楽しみ
主人は19年間の単身赴任を終え3年前に退職して、今は私の専属運転手兼ガイドヘルパーとして私の目となり心の支えとなって助けてくれています。ほんとに感謝いっぱいです。真ん中が見えないので、できないことも多いのですが、大好きなお菓子作りとパン作りは、暇さえあれば作って楽しんでいます。 いつか皆さんにおいしいお菓子を作って持っていきますね。これからもどうぞよろしくお願い致します。
2018.12.18
名前: 髙田 忍
加齢黄斑変性の型:滲出型
発症年月:2014年8月(72歳)
写真でわかるサプリメントの効果
二枚の写真は、いずれも抗VEGF薬アイリーアの注射をしてから6か月経過した眼底写真と断層写真である。上は2018年5月22日、下は2018年11月6日に撮影した。それぞれ右下の断層写真では大きな相違は見られない。
しかし、左上の眼底写真は大きな違いがある。5月22日のものは赤い枠の中に白い部分が映っているのに対し、11月6日には赤い部分がうっすらと見える程度である。
医師はこの写真から5月22日には抗VEGF薬の注射をしたが、11月6日は注射の必要はないと判断した。
生活上の大きな違いはサプリメントの服用の有無である。5月22日の治療後6か月の間、医師の勧めでサプリメントを服用した結果である。この二枚の写真から見るかぎりサプリメントの効果はあるといえそうだ。
一回の注射に支払う医療費は3割負担の場合は5万円近くかかる。それに対して、オキュバイトというサプリメントは6か月分で6800円である。効果は個人差があるかもしれないが、試してみる価値はあるようだ。
尚、この間サプリメントの副次効果かどうかわからないが、コレステロールの値も徐々に低下している。
(2018,11,07 髙田 忍)
右眼にも黄斑変性発症
金子恭子さん(女性、82歳)
加齢黄斑変性の型:左眼 萎縮型(1999年5月)
右眼 滲出型(2018年8月)
平成30年6月7日、通院している宝塚のD病院で眼に涙が出て拭いても拭いても出ることを相談しましたところ、涙道がつまっているとのこと、さっそく尼崎総合医療センターへの紹介状を書いてもらいました。6月13日に涙道を通す手術(チューブのような管を目のところから鼻の内側にU字型に入れ管の先端が鼻の中に出る)を受けました。
この状態で2か月管を入れたまま、そっとした生活を送りました。やっと二ケ月が過ぎ管を抜いてもらいました。その間、途中で管が抜けてきていないかと心配になり二度ばかり経過を診てもらう為診察を受けました。心の不安もありましたので。
管を抜いた後、少し涙が出るのが治ったかな?と思いましたが、今日にいたっては、あまり変化はなく手術はうまくいかなかったみたいです。事前にDr.からそういう人もあるとは聞いていましたが、自分がそれに該当するとは思ってもいませんでした。
ところが、この間約3か月眼科に行っていない間にとんでもない事態が発生していたのです。8月23日掛かりつけの宝塚D病院に行きましたところ、何と右目に黄斑変性が発症していたのです。これまでは左目に萎縮型の黄斑変性があり、右目は何もなく普通に見えていたのが、3カ月の間にその右目にはっきりと黄斑変性ありと診断されました。私は大きなショックを受けました。さいわい悪かった左目の進行は止まっていました。Dr.の判断で一日も早くアイリーアの注射をして新生血管の増殖を抑えた方がいいとのことで、即刻アイリーアの注射をする手術を受けました。
幸運にもこの病院では、その注射を施術するDr.がいたことです。この時はつくづく前の大阪のI市のDr.から今の病院に代わってよかったと思いました。注射の日は眼帯は取れませんでしたが、翌日からは眼帯もとれ、あとはばい菌を抑える点眼液をさすだけで一週間後に経過観察を受け異状なしでした。
次の週も点検の診察をしてもらい経過良好とのこと。そして1カ月後の9月20日2回目のアイリーアの注射をしてもらいました。添付の断層写真は左が8月23日の黄斑変性ありと診断されたもので右が注射一カ月後の9月20日の画像です。明らかにふくらみの山型が少しへこんでいることがわかります。これで注射の効果はあるのだと解りました。今日2回目の注射でどうふくらみがへこんでくるのか期待しているところです。このアイリーアに注射は一か月おきに3回やるそうです。
書きなぐり、うまくまとまった文章になっていません。参考になればと思います。
たし算の人生を
横山和子さん (73歳)
加齢黄斑変性の型:滲出型
発症時期:2008年頃
目の異状に気付いたのは10年くらい前になにげなく水平線を見た時、まっすぐな水平線がひどく波うって見えました。乱視のせいだとその時は勝手に思っていました。
5年前に目が充血したので近くの眼科に行き水平線が波うって見えることを告げると、すぐに生駒のS病院を紹介されました。早速S病院で調べてもらうと、黄斑変性といわれました。
今まで聞いたこともない病名なので本を読みやっかいな病気になったなーと気持ちが落ち込みました。
すぐにアイリーア注射を3か月間は毎月、それからは2,3カ月ごとにしています。今ではもう26回していますが、怖がりの私は注射になれるという事はありません。そのせいか、日常で困っている事は今の所ありませんが、新生血管がやぶれる事もあると聞いてものすごく不安を感じています。
今の自分に出来ることは食事に気を付ける事とサプリメントを飲む事位です。
旅行、ハイキング、読書、カラオケ、大正琴、詩吟と、趣味はたくさんあり今の所毎日充実した日々を送っています。これがズーと続きます様にと祈るばかりです。
ひき算の人生ではなく、たし算の人生をと思っています。友の会に入会したのは、同病の色々な方と交流したいと思ったからです。これからもよろしくお願いいたします。
(2018年9月15日)
Contents
医師選びの大切さ
木下 富夫 さん(91歳)
加齢黄斑変性の型 : 左眼 滲出型
発症時期 : 2013年12月
発病を知ったのは、5年前の年の暮れだった。自転車で帰宅中に幅広いビルの左端が歪んで見えたのである。夕刻だったので、翌日岡山済生会病院へ行こうと考えたが、受付に行くには3000円の通行料がいる。年金生活者の私はケチンボ精神もあって通行料不要のSa病院へ行った。総合病院ではないが大病院であり、ある診療科は全国的に有名である。病室からは旭日川が手に取るように見える清らかな土地に建てられた病院である。
眼科は女医さんが一人。でも診察機器は揃っている。初回は病名も言わず、来月何日においでと医師の方から予約する。二度目の時、「先生治るんですか」という私の問いに女医は「最後に手術すればね」と答えた。この言葉は私を地獄へ追いやることになったのである。三回目も四回目も来月何日においでと医師から予約する。
ある日「ゆがみがだんだん中央に寄ってくる」と伝えたところ、O大附属病院で診てもらうように予約された。一日かけてやっと診察されたが、主治医に伝えると言っただけ。
後日、Sa病院を離れたとき、O大附属病院では病名を付けていないことが判明したのです。全くひどい話である。大学病院の教授でありながら病名も治療法もSa病院へ伝えていないのだ。患者は必死の思いで受診しているのだ。
少しずつ歪みが中央に広がってきたが、それでも1.0は見えて、車にも乗っていたのである。
それが初めから数えて10カ月目にある日突然見えなくなったのである。すぐにSa病院へ飛んで行った。女医曰く「うちでは手術できないから他所へ行け」と3院を示されて紹介状を書いてくれた。病院の大先生は週に一度しか外来へは出ない。それで開業医のTaへ行った。見るなり加齢黄斑変性症と診断された。これが当っている病名である。
治療法としてレーザー光線で焼いてくれた。でも一時的であって患部が中央に進んでくる。従って眼に注射することになった。二年間位だったが、30本以上注射された。医師の話では、あまり多く注射すると正常な部分も害を受けるからと、今は三カ月に一回になった。自分では何もできない。できるのは昔からの民間療法で目をいたわるだけである。
開業医のTa眼科で、一時は少し回復したがまた0.3程度に落ちてしまった。メガネ商がロービジョンと教えてくれた。内容は知らないがTa医師に話すと、こちらが知らぬままに次々と展開され視覚障害手帳までもらう羽目になった。
初めの医師選びは大切だと痛感しているが、こればかりは当り具合で、自分では選べないものだからおかしいと思えば転院するより仕方がない。
40年前に妻に先立たれ、今年91歳になる私は一人暮らしをしています。今の私の生活は足腰の悪さもあり、料理もできず、毎日車椅子で店やものを求めて過ごしています。雨でも降ればその日の夕食は求められないのです。それでも人の力に頼らず、いつまでも自分の力で生き抜いていこうと考えています。
趣味の俳句も最近は作る機会が少なくなりましたが、いつまでもこの趣味を持ち続けようと思っています。
文を書く部屋一杯の蝉しぐれ
大祭のあとの御堂や猿すべり
会員の方で、俳句でお付き合いしようという方がいらっしゃればご連絡下さい。お互いに俳句を交換しましょう。
自力で頑張ろうと決心-ウクレレと出会って
武田 一恵 さん(66歳)
加齢黄斑変性の型 : 萎縮型(両眼)
発症時期 右眼 平成17年(2005年)
左眼 平成29年(2017年)
右眼に異変を感じたのは今から13年前、平成17年のことでした。大阪の地下鉄ホームに立った時、「黄色い線までお下がりください」とアナウンスされる黄色い線が歪んで見えたり消えたりしました。奈良県に住んでいますので、学園前のN眼科に行きました。何の病気か良く分らず、関西医大に行き、また阪大にも行きましたが、手術できないと言われました。その後、萎縮型は治療法がないことを知りました。
そのため、左眼を大切にしなければいけないと思いました。それから三年後の平成20年、今から10年前のことです。字がバラバラに見え、上がったり下がったりしました。T病院で診てもらうと「こんな患者はじめてや。よく分らない。目薬もない。ボーっとしていなさい」といわれたので、そのようにして過ごしました。すると不思議なことに、少しずつ良くなっていきました。そして、「10年後に悪くなるかもしれない」ともいわれました。
その通りになりました。昨年9月、左目に黒いものが見えるようになりました。診てもらっている王寺のK眼科の先生は研究熱心な方ですが、右眼と同じ理由(萎縮型)で注射はできないと言われました。外出の時はブルーライトのサングラスをかけ、サプリメントを服用してきただけに、何もできないと言われるといっそう不安になります。iPS細胞の可能性を聞きましたが、はっきりと「いつから」とは言ってくれません。
落ち込んでいる私に、主人は強い口調で「気の持ち方次第だ。気力の問題だ。目の病気で死ぬことはない」と言います。71歳の元公務員で定年後はある会社の顧問として、今も働いています。強い言葉使いは、励ましの言葉だと思うようになりました。
落ち込んでいる私を励まそうとの思いから、今年の三月にエリザベスクイーン号の10日間のクルージングの旅につれて行ってくれました。大阪港を出て上海と香港を巡る旅です。豪華な食事がでて美味しくいただき幸せでした。でも、香港は高いビルがあるだけで、目には緑の森や木々の自然がいいのではないかと思います。
贅沢な話ですが、そんなこともあり心底楽しむことが出来ず、落ち込んでしまいました。私が船の中で躓いてケガをしてはいけないとの思いから手をつないでくれたのです。優しさから出たものと思いますが、私からすれば、主人に手を引かれて歩く姿は他のツアー客にハンディーがあると見られているようで恥ずかしくてたまりませんでした。
日頃の生活で困ることはありません。コンタクトをしているので、視力は0.1と0.2です。そのため障害者認定は受けられません。大阪へ洋服を買いに行くことがあり、食事をしに行くのも楽しみです。買い物をする時、お金の区別もできます。スーパーの買い物は主人がしてくれますが、私も大根と人参の区別がつかないほど悪くはないので自分で行くこともあります。
困ることといえば、字が読めなくなったことです。それ以上に楽譜が読めなくなったことには困りました。私は、大阪の中、高、大一貫の音楽大学を出ました。これまで音楽教師をし、今でも近所の子供たち3人にピアノを教えています。その楽譜が読めなくなったのです。何とか読む方法がないものか。そこで、楽譜を拡大コピーしてルーペで読んで暗譜(あんぷ)することを思いつきました。暗譜とは曲を覚えることです。工夫すれば何でも解決するものです。
最近、公民館の文化教室のウクレレクラブに参加しました。一年になります。ここで出会った人たちと仲良くなりました。これも楽譜を拡大コピーしてルーペで読んで暗譜します。レパートリーは少しずつ増え「二人でお酒」「恋の誘惑」を奏でることが出来ます。「愛の賛歌」の替え歌も作りました。これは主人との出会いから、二人で支え合ってきたことを歌にしたものです。
5歳と3歳になる孫に食事などの世話をするのも楽しみです。近くに住む娘は仕事に行くので、昼間は孫の世話をするのが私の仕事です。二人とも女の子で、「ババ大丈夫」「ルーペ持って来てやろか」などと心配してくれます。可愛いものです。
主人はきつい口調で話しますが、いつまでも言われないように工夫して自力で頑張ろうと心に決めました。今日、体験談を電話で話しましたのは、この頑張る気持ちから出てきたものです。それまでは、私の体験談など採るに足りないものと思い込んでいました。
この前の定例会には参加申し込みをしていました。主人と近くまで行って場所が分らずルーペを買って帰ってしまいました。次は是非参加して、皆さんに私のウクレレを披露させていただく機会があれば、どんなにうれしいことでしょう。その日が楽しみです。
(2018,8,22 髙田代筆)
お名前: 谷美 美智子
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2012年(83歳)
題名: 母を私のもとへ
私は昨年「人の手を借りて」という題名で、母に替わって体験談を書きました。その頃、母は兵庫県尼崎市の武庫之荘というところに住んでいました。
去年の5月に、3年前から脳梗塞と胃がんで闘病していた父が亡くなり、それまでは介護保険を使いながら何とか二人で暮らしていたのですが、尼崎に一人で母を置いておけなくなりました。40年もの間、慣れ親しんだ尼崎を離れる時は、ご近所の方々や友人との別れも辛く名残り惜しそうで自分も生きていても仕方ないと落ち込むことが多く、私も心配でした。
去年の12月にこちら(神奈川県藤沢市)に呼び寄せてからは、私もすぐに行ける近くのホーム(後期高齢者住宅)に入居しました。大阪まで通っていた二年間のことを思うと夢のようです。
母はホームに入居してからも視力が落ちているわけでもないのですが、蛍光灯や日照りの強い日は眩しくて食事なども見えにくくて、食堂では黒いお茶碗にして貰ったり、メニューの名前を一品ずつ説明してもらったり、切り分けてもらったりしています。
メガネは普段は黄色いものをかけていますが、食事の時はレンズの上が黒っぽくて、下が白いものを作ってもらってかけ直しています。
この季節は部屋のカーテンを開けることはほとんどありません。食堂は朝から夕方までカーテンが開いていて蛍光灯も近いので、食事の時もサンバイザーを使っています。
黄斑変性症は、初めは右眼だけだったのですが、5年前に両眼になってからは字の読み書きが出来なくなり、必要なときはいつも私が読んであげたり、書類の書き込みなども総て私が代筆しています。
幸い89歳にしては、身体は元気なので、ホームのイベントに参加したりリハビリにデイサービスに通ったりして、少しずつこちらにも友達が出来たようで、関西や出身の九州の話が出たりすると嬉しそうに話してくれます。
母も少しずつこちらの生活にも慣れ、時々ひ孫の顔をさわりながら見る楽しみもできました。(2018,7,29)
名前: 岡田 弓子
加齢黄斑変性の型: 滲出型(両眼)
発症時期: 2014年(59歳)
題名:工夫して暮らしています
四年前のことでした。いつもと様子が違うのに気が付きました。線が歪む、視力が落ち本が読みにくい。白い壁や障子に丸い墨(うず)を見るようになる。本を読むと字が踊る(変視?)。人の顔の中心が歪む。
白内障の手術をしていた眼科医に駆け付け、診てもらいました。加齢黄斑変性との診断を受け別の病院を紹介されました。抗VEGF薬の注射の治療を受けました。注射そのものは、白内障手術を受けていたので、少しの恐ろしさはありましたが、治りたい一心で受けました。最初は右眼だけでしたが、今は両目が加齢黄斑変性です。
何回治療を受ければ治るのかと思うと、治療代が高いのが不安になります。
これ以上悪くならないようサプリメントを摂取しています。また、強度の老眼鏡をかけたり、スマホやパソコンを使用するときは専用の眼鏡をかけるようにしています。
困っていることがいくつかありますが、それぞれ工夫して暮らしています。
1. 外出時,人とすれ違うまで誰かわからず、知人に失礼な態度と勘違いされるときがあるのではと思う。 ➡ 親しい人には欠礼がなかったか伺い、眼が悪い(視力)事を伝えておく。
2. 本を読みたいのに意欲がなくなる。 ➡ スマホを利用
3. 好きな歌を続けたいのに楽譜が見ずらい。悲しくなる。 ➡ 拡大コピーでしのぐ。
4. 花や動物、自分の好きなものが歪んで見えること。 ➡ 見える内に楽しんでおこうと思う。
5. 失明への不安ですごく落ち込む。 ➡ あきらめではなく、病気の進行とつき合いながら覚悟を持って生きようと思う。
6. ポストの鍵が合わせられなくなった(マンション) ➡ スマホのライトを起動して明るくして数字を合わせて何とか開けています。
友の会には、同じ病でしか共有できない不安を語り合える場や、日常生活の工夫や知識を話せる場になることを期待します。
名前: 長田 順子(おさだやすこ)
(女性86歳)
加齢黄斑変性の型: 両眼とも滲出型
視力 右 0.8 左 0.6
発症時期: 2000年代初め(70歳代)
題名:病名が分かったのは何年も経ってから
60歳の頃、白内障の手術をしました。最初は自宅近くの眼科医へ行ったところ、市内の明和病院を紹介されました。手術したのは、兵庫医大でした。
視力検査をしたところ、良く見えませんでした。病名は良く分らず、医師は「ややこしい病気で治療法はない」と言いました。その後、神戸の海星病院で診てもらったところ、またも「治療法はない。失明の恐れがあるが、白い杖を突くほどのことではない」との説明でした。
70歳を過ぎた頃でした。関西医大出身の先生がいる大阪梅田の病院を紹介されました。
この先生は「可哀想になあ、病名は加齢黄斑変性」といい、この病気の専門医のいる住友病院の五味先生を紹介してくれました。五味先生は注射をためらわれ、しばらく様子を見るとのことで、再び梅田の先生のもとへ2~3カ月に一回通いました。
ある時、この先生が「これは大変、直ぐに治療を受けるように」と住友病院に翌日の予約を取ってくれました。住友病院では、アレルギーの検査や造影剤を注射しての検査の後、注射をしていただきました。注射は不安ですが、治療法があると知った時は大変うれしく思いました。
その後、五味先生は兵庫医大に移られました。兵庫医大は、私の自宅に近くにあるので便利です。病院へは2か月半に一度タクシーで通っています。その都度、検査をして注射をするかどうか判断してくださいます。年に3~4回の注射をしています。
注射を始めた頃は、右眼と左眼は別々の日に行いましたが、最近は両眼を同時に注射します。ですから、注射後の眼帯も両眼にします。といっても、眼帯はガーゼで紐のついたものではなく、プラスチックでできています。目を開けられるので、人の助けを借りずに自分でタクシーに乗って自宅へ帰ります。経過観察は自宅近くの眼科で診てもらっています。
人の顔は見えます。テレビの映る人の顔は顔面マヒのように歪んで見えます。便箋に手紙を書くとき、線が歪んで見えるので、線の中に字が入るように書くのが難しいです。ですからこの体験談も、電話をして代筆していただきました。
新聞は太陽の光の明るい所でルーペを使って読みます。電柱は電柱として見えますが、他のものは違って見えることがあります。
眼鏡は五味先生に検査してもらって、「めがねの愛眼」で作りました。老眼用と普通の眼鏡です。普通の眼鏡をかけ忘れることがあります。そのようなときは疲れます。
次第に視力が下がっているように思います。最近兵庫医大のロービジョンケアで検査を受けました。静かな場所での一対一の丁寧な検査でした。アムスラーチャートを見ての検査や、縦と横の線の入った下敷きを横において文字を書いたりします。料理をする時のまな板は黒がいいと言われました。
60歳の頃、大腿骨骨折をして、それ以来歩くときは杖を使っています。このことで、障害者手帳の交付を受けケアマネージャーの世話になります。他にも右の耳が聞こえにくく、脊柱管狭窄の問題もあります。足が不自由なので買い物は、主人が車で行ってくれました。
しかし、今年91歳になる主人が2年前に病気になりました。それ以来、リハビリについて来てくれる女性に頼んで店に立ち寄り買い物をします。コープに配達を頼むこともあります。時にはヘルパーさんに頼むこともあります。
食事の準備も致しますが、物が見えにくいからではなく、体力の問題で十分なことはできません。そのため外食することもあります。息子夫婦が2階に住んでいますので安心して暮らしています。ゴミ出しは手伝ってくれます。
高齢になり、昔の友達が亡くなったり病気になったりで寂しくなりました。足が不自由なので病院以外に出歩くことが少なくなりましたが、私と主人は社会のとのつながりとして近くのカトリック教会へ行っています。そこで知り合った人とメールのやり取りをするのが楽しみのひとつです。(髙田 忍代筆)
名前: 髙田 忍
加齢黄斑変性の型:滲出型
発症年月:2014年8月(72歳)
題名:発症から四年、目と生活の変化
1. 10回の注射 朝起きて、向かったパソコンの枠が歪んでいると気づいたのは、2014年8月も終わりの頃であった。2日後に予約していた人間ドックで異変を訴えたところ、1週間後に検査、加齢黄斑変性と告げられ抗VEGF薬の注射をした。 それから4年近くの日が過ぎた。この間10回の注射をした。発症した2014年は9月、10月と11月の三回で、翌年は7月に一回の注射であった。 下の段層写真は発症時の治療前のものである。黒い部分に水が溜まっている。
2016年は症状が早期発見早期治療のお蔭で、安定し治療を受けることはなかった。下の写真は2016年6月23日に撮影したもので、右の断層写真には、発症時のような水が溜まった時に出来る黒い影はない。 私は、病院での検査した時はデータをもらい納得して治療を受けるようにしている。血液の検査をした場合は、どの病院でも検査データを手渡されるように、眼科の場合も同じで検査結果の写真をもらうようにしてきた。医師がパソコン画面で見せてくれる画像は、その時は分かっても日が経つにつれ忘れてしまうからである。 安定を保ってきた2016年であったが、2017年になると悪化したようだ。4月から12月までの間に5回注射し、今年も5月22日に注射し、10回目となった。
2. 困ったことの数々 昨年暮、パソコンの画面が突然見難くなった。左眼も見難くなったようだ。数日後、右眼の定期検診の時に、医師に左眼も診てもらった。断層写真では、中央部にやや膨らみがあるが加齢黄斑変性ではないという。たしかに薄い膜があるような見え方であるが、歪みはない。治療法はないという。念のため別の眼科専門病院で検査してもらったが、やはり治療法はない。 これまで右眼の不具合を左眼で補ってきた。それが出来なくなった。新聞が読めない、本が読めない、テレビに映る字幕の字が読めない。 手先がよく見えないため字が乱れる。パソコンの文字が小さく、書けないことにも困った。送るメールに誤字が多いとの指摘も受けた。 10メートルほど先から近づいてくる人の顔は一つ目小僧で鼻も口もないお化けのように見える。停留所に近づいてきたバスの行先が留まるまでわからないなどなど、数え挙げればきりがないほど不便な事の数々である。 自動車の運転にも支障がでてきた。発症した直後は運転を控えていたが、二か月経った頃から再開した。免許取得以来、事故を起こしたことはなく30年近くGold免許を更新中である。 しかし、警察の世話になるような事故はないが、小さな事故がふえてきた。距離感に狂いが出ているのかもしれない。2015年に買い替えたプリウスの左側サイドミラーを二年間で3回も破損してしまった。道路わきの電柱にぶつけたり、狭い路上に駐車した自転車に接触したりした。左側のドアーにもかすり傷が出来る始末である。自損事故には保険をかけていないので、その度に修理費がかかる。
3.タブレットの活用 毎日配達される新聞は、ルーペを使って読むことにした。しかし、ルーペをずらしながら記事を読むのは極めて煩わしい。そのうえ、手が震えるので焦点が定まらない。 そこで、アマゾンのHD8という電子書籍を兼ねたタブレットを購入した。キャンペーン期間中であったので、5000円程度で買うことが出来た。日経新聞の記事を無料でダウンロードすることができた。文字も大きくなり読みやすくなった。
紙の本も同じである。ルーペ無しでは読めなくなった煩わしいことに変わりない。今まで、紙の本は本箱に収まるスペースがないので買わないようにし、アマゾンのKindleという電子書籍を利用してきた。しかしこれもサイズが小さく読みにくくなった。下の写真の左が今まで使っていたKindle用電子書籍、右がタブレットである。文字の大きさは同じであるが、見える範囲が広がり読みやすくなった。
タブレットはスマホと違って、外出先ではインターネットに接続できず、そのままでは利用できない。携帯用のWIFIを購入する必要がある。WIMAXという製品を購入したが、説明書の文字が小さて読めない。訪問サービスに依頼しで接続してもらうことにした。 ただし、場所によってはつながる所がある。神戸アイセンターに行った時、WIFIがありパスワードが掲示されていて接続することが出来た。 大きなホテルなどではパスワードがなくても無料で利用できることがある。海外でも利用できる。
4. パソコンの文字を大きく パソコンの文字も設定を変え大きくした。メールも文字の大きさを14Pで太文字にすれば、誤字を減らすことが出来るようになった。
5. スマホの活用 銀行の振込にはインターネットバンキングを利用している。安全のために、どこの銀行もパスワードカードという掌に入るカードを準備している。その都度変わる6桁の数字をパソコンの画面に入力すすることが求められる。しかし文字が小さすぎて読めなくなった。 銀行の窓口に問合せると、スマホのパスワードアプリを利用すればよいことが分かった。 写真の左が従来のパスワードカードで、右がスマホのパスワードである。随分見やすくなった。
6. 車の買い替え 二年乗ったプリウスは傷だらけになったので、買い替えることにした。より安全装備の備わっている車を選ぶことにした。160万円で購入したプリウスを100万円で下取りしてもらった。これには、歩行者用のエアバッグがついている。車間距離が狭くなるとき、後方からの車の接近、前方の歩行者を認識すると点滅信号とともに警報音が出る。高速道路などで速度設定をするとアクセルを踏まなくても走行できるクルーズコントロール機能もついていて、前の車に接近すると自動的にブレーキがかかる。スウェーデン製VOLVOの車である。幸いこの半年、無事故である。
7. サプリメントの服用 5月22日、3カ月ごとの定期検診を受けた。先生は眼底写真と断層写真を見せて「水が溜まっているので、注射をしましょう」といった。 「断層写真を撮るときに点滅する赤い線は縦横ともまっすぐに見えましたが」と訴えたが、眼底の赤い部分が水だという。(写真左)
今回は昨年の12月に続いて10回目となる。次の写真左は昨年12月19日のもので、赤い部分がかなり多かった。 それから3カ月後の2月6日は、治療の効果があったのだと思う。赤い部分が少なくなっていた(写真右)。このときは、注射はしなくて済んだ。
10回も注射すると慣れてくる。ベッドの上で仰向けになると「まな板の上の鯉」のようだ。それでも気分のいいものではなく、不安もある。今回も医師から「血管に傷をつけ充血させてしまった」と言われ、眼帯を外す翌朝まで不安であった。幸い大事には至らなかった。 できることなら、注射は少なくしたい。その間隔を広げたい。サプリメントをのめば、症状の進行を抑えられるのではないかと思い、医師に尋ねるとOcuviteのサンプルを手渡された。 今迄、栄養は自然の食品から摂るものと決めていたが、試してみることにした。自然の食品からは摂取出来ないバランスの取れた栄養が取れる効果も期待できる。アマゾンに注文すると翌日に配達された。価格は60粒3ケース入りで6800円。一日二粒をのむので90日分である。コストは1日当たり約75円である。
少しでも注射の間隔が伸びるのか、効果を確かめることにする。間隔が伸び注射の回数が減れば、一回当たりの注射に支払う費用が3割負担で約5万円であるから、経済的にも負担が減ることを期待したい。次の体験談で報告出来ればと思う。
(2018,06,05)
お名前: 堀部 和子(女性72歳)
加齢黄斑変性の型: 萎縮型
発症時期: 2005年(59歳)
題名: 歩けば足を使うし目も使う 脳も活発に
私は、去年(2017年)「それでも働いています」という題名で体験談を書きました。そこでも書きましたように、私は元々強度の近視です。32歳の頃に右目が黄斑変性になり治療が遅く、後に傷跡になり、残念な結果になりました。その後59歳の時に左眼にも変化が現れました。 前にも書きましたように、眼科の先生は、「家でじっとしていたら病状が進む、みなとコミュニケーションして脳を動かすことが大事だ、そうすれば体も元気になる」と言われました。 そして先生の紹介で仕事をするようになりました。仕事の内容は事務所と工場が一体になった4階建て建物の階段の掃除です。この会社の工場では金属粉が出ます。社員が階段を上り下りする時、作業服や靴についた金属粉が落ちました。これを4階から1階まで掃き落とし、塵取りに受けてごみ箱に捨てるのが仕事でした。一日二時間、週三回(火木土)で17年間続けてきました。
でも、17年間続けた仕事を辞めることになりました。 階段なので踏み外さないよう注意してきたので、踏み外したことはありません。 しかし、光ったものは見えるが、黒いごみは見えにくい。去年の五月、黒いごみが残っていると写真を見せられ、注意されたので辞めることにしました。
長い間働いたのは健康には、体を動かすことが大切と考たからでした。51歳の時に身体障碍者手帳をもらいました。私のためにガイドヘルパーさんがついてくれます。ヘルパーさんの助けで、カラオケに行ったり、日帰り旅行に行ったり、友の会の歩こう会に参加したり、適当に楽しんでいます。 今年の一月に飛鳥ウォークに参加しました。8キロの道のりを杖とヘルパーさんの助けで歩きとおしました。歩き終えて橿原神宮前駅の喫茶店で他の人とお茶を飲みました。その時、皆さんから歩きとおしたことに感心されました。私は「歩けば足を使うし、目も使う。すると脳も活発になり、眼の方にもいい影響をあたえる」と話しました。友の会のハイキングや食事会は、他の人とのコミュニケーションがあるので良いと思います。人との励ましもありいろいろな面で発展していくでしょう。私は願っています。
日頃は、ゲートボールやグランドボールで体を動かし健康に気をつけている。
写真:海津大崎ウォーク(滋賀県高島市)右から二人目が堀部さん、その右がヘルパーさん、
2018/06/17
名前: 坂上 高明
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期:1990年頃(当時55歳)
題名:白内障手術で歪みもよくなった
前略、御免いたします。
今日は梅雨入りを前にしてしとしとと小雨が降り続いております朝でございます。
丁度今から三十年前の今頃でした。何となくその当時左眼が見にくく、直線が歪んだり中心が薄暗く見えたり変な状態が続いておりました。
病院等に全く縁の無かった小生もさすがに不便を感じましたが、その時白内障や緑内障等の病名は耳にしたことはありましたが、今でこそ「加齢黄斑変性」と云う病名がまかり通っておりますが、当時は医者さえも「加齢黄斑変性」という病名さえも患者に云わなかった時代でした。
あちらの病院、こちらの眼医者等々を尋ね歩くときが続きましたが、やっとここ数年前に山中博士のご尽力で病名もはっきりしました。やっとの思いも少しの間、・・・・「不治の病」のような感じを受けてしまいました。もう我々の年代の者には遠い先のことでと諦め始めましたが、昨年の今頃でした。担当医曰く右左共に白内障が出ているとのことで手術をすることにして行いましたところ、なんと単なる白内障の右は当然ですが、加齢黄斑変性で困っている左眼も中心の大きく黒い丸い円が薄らいで、歪んでいた直線等が非常によくなったのにはビックリいたしました。ある程度の歪みはありますが、中心の暗い部分はすっかり治った様になりました。今の医学ではこれで精一杯だと思いますが、私達の後輩達には明るい希望の光が見え始めた様で嬉しく嬉しく思っています。
若い皆様、今少し辛抱しながら頑張ってください。心よりお祈り神々にお願いいたしましてペンを置きます。
祈 「団塊の世代」の諸君、辛抱辛抱あと少し
子孫の為に頑張れ!!
祈 関西黄斑変性友の会
草々
名前 : 伊藤 壽一
加齢黄斑変性の型:
発症時期: 未発症
題名:サプリメントで予防
私は以前から眼圧が高めで1年に1度山梨の眼科医で受診していました。
眼圧も落ち着いており目薬もまだ使っておりません。先生も一年に一度でいいでしょうと診察を受けています。
平成29年2月に受診してもらった時に加齢黄斑変性症の病気になる可能性があると云われました。
カレンダーのタテヨコの線が歪んで見えたらすぐに来るようにと云われました。現在もハンコを彫る仕事をしていますので不安になりました。
そんな時平成29年3月29日の読売新聞でiPS細胞実用化へ前進の記事を見ました。
その中で関西黄斑変性友の会があることを知りました。
代表世話人の髙田忍様に連絡を取り早速に入会させていただきました。
友の会発行の私の体験談とかいろいろの資料を送って頂き病気で苦しんでいる人のことを知りました。
私は幸い症状も無くハンコを彫る仕事を続けております。友の会より頂いております資料の中で(黄斑変性、浮腫で失明しないために)平松類著の本を知り取り寄せて見せて頂きました。
2種類のサプリメント(オキュバイト、ルタックス)が効果があることを教えて頂き、飲んでおります。以前よりブルーベリー&ルテインは飲んでおります。少しでも悪くなる時期が遅れることを信じて飲んでおります。
近所の薬剤師さんに(ワタナベ・オイスター)が体全体に良いと云われ飲んでいます。
色々な薬も研究されて日々進化していることを知らされます。
iPS細胞の実用化も使用可能になり苦しんでいる方々が苦しみから救われる日が一日も早く来て欲しいと思います。
私はこれからは1年に一回の受診を半年に一回受診しようと思います。
友の会の事務局の皆様、友の会の皆様今後共よろしくお願い致します。
名前 : 杉村 弘
加齢黄斑変性の型:滲出型 右目
発症時期: 平成23年12月(67歳)
題名:日常生活と加齢黄斑変性
影
平成23年12月中頃、いつものように朝新聞を見ていたら、1cmぐらいの丸い影らしきものが新聞の紙面に写っていた。目にゴミでも入ったのかと目をこすったが、消えない。
片目ずつ見たら、左目は影がない。右目で見たら、薄っすらと影が見えた。12月は例年忙しく、パソコンの前に1日中いて、細かい字を見ていたので疲れによるものかと思った。
しかし、心配になり、近くの総合病院の眼科を受診した。目に水がたまっていると言われた。1月に検査しましょうとなった。月1回の検査、診察が平成24年6月まで続いた。6月には、影が大きくなり、歪みが出てきて、視力も悪くなった。先生は帝京大学医学部付属病院から週1回来ており、当眼科では手術できないので、帝京大学病院で手術することにしましょうとなった。
2泊3日で3回手術
このころに、加齢黄斑変性という病気だと聞いた。失明の恐れがある難病であることを知った。仕事が続けられるのか、将来どうなるのか、不安を感じた。
7月に1回目、8月に2回目、9月に3回目の硝子体内注射(ルセンテイス)を受けた。注射料は約13万円と超高額で他の料金を加えると、1回の入院手術で約20万円かかった。保険で約17万円、高額医療費の還付金で約4万円カバーされたが、約40万円の出費となった。その後手術の効果により、歪みが小さくなり、視力も回復した。2~3年前にはルセンテイスはなく、加齢黄斑変性には、治療法がなかったと聞かされた。その点ではよかったと思った。月1回、近くの総合病院の眼科で検査、診察を受けていた。
だが、25年5月ごろになると、歪みと影と視力の低下が出てきた。8月に診察を受けたら、担当の先生が転院していて、別の先生が診察した。そして、帝京大学病院ではなく、近くの(車で20分)個人病院を紹介された。
混雑
個人病院だが、先生が6~7人おり、診察室が3つあり、受付をして、検査で呼ばれるまで、1時間半~2時間かかる混雑している病院です。
25年8月、9月、10月に3回セットの硝子体内注射を受けた。入院手術ではなく、日帰り手術で、費用は1回6万円ほどであった。
26年に5回、27年に6回、28年に1回、29年に2回、30年4月に1回と計21回の硝子体内注射を受けた。手術後は少し良くなるのだが、すぐに悪くなる。治療費は薬価引き下げによるものか、だんだん安くなってきた。6万、5万、4万と下がった。29年8月は所得が減って2割負担となったためか、2万円以下だった。
19回の手術に対しては、日本生命から手術給付金の支払いを受けた。20回目以降は、日本生命の勝手な理由付けにより、手術給付金は給付されなくなってしまった。現在は1~2か月に1回の診察を受けている。
加齢黄斑変性症は、現在のところ硝子体内注射しか治療法はなく、完治は難しいもののようです。
仕事、健康、趣味など
16年ほど前に、自宅で開業し、不動産鑑定業を営んでいます。パソコンを使用することが多いので、目が悪くなることは仕事ができなくなるということです。幸い私の場合は、水、血液がたまる場所が、黄斑の中心を少し外れているところに生じるらしく、視力がある程度保たれているということです。
現在のところ、左目は視力が1.0あり、日常生活には支障ない状態です。ただ、右目だけではパソコンも新聞も読めない状態です。
散歩は毎日欠かさず、8時~9時ごろ約6000歩、午後1時頃から約4000歩合計1万歩を目指しています。
健康のためというよりストレス解消になります。またラジオ体操は毎日欠かさず行っています。6時半直前には必ず 妻がラジオをかけ、二人でラジオ体操をしています。たま に旅行に行くのですが、旅行先でもラジオ体操をし、できるだけ駅から旅館までは、送迎バス等を利用せずに、歩くようにしています。
読書は趣味だったのですが、目に支障が生じた後は、すぐに疲れてしまうため、読まなくなってしまいました。
今年73歳になります。鑑定の仕事は少なくなっています。これからも続けられる仕事、趣味がないかと模索していますが、これはと思うものでも、なかなかうまくいきません。それでも時間をかけても、一生続けられる仕事・趣味を探したいと思っております。
町会の副会計をやっていますが、パソコンで帳簿をつけているので、左目が発症しないよう願っております。
04/21/2018
名前: 神坂真佐子(83歳)
加齢黄斑変性の型:両眼 滲出型
視力: 右 0.3~0.4 左 0.01
発症時期: 2013年6月( 78歳)
題名:お料理も目で味わいたい
初めての眼科
初めて眼科に行ったのは平成20年頃、左目が真っ赤に充血した時でした。それは目薬ですぐ治り生活に支障はありませんでした。
若い時視力2.0とか1.5とか言われていたし、車の免許を取ってからも80歳まで更新はいつもメガネ無しでした。
右肺切除で肺活量の少ない私は車が足代わりの生活でした。夕方になると人の顔が見えにくくなっても年のせいだろうと思い、トンネルに入ったら真っ暗になってびっくりして、それからは高速を走らなくなりました。
眼科に行ったら市民病院に行くように言われ、市民病院に行くと神戸医大に紹介され平成22年6月から23年8月まで神戸医大に通いました。
検査されてもはっきり原因が分らない、夜盲症かもといわれたり、変化もないから三田(兵庫県)に帰ってよいと言われたので、たいしたことなかったと安心してあんまり眼科に行かずにいました。
段差で転ぶ
開店したペットショップに行った時店内の段差に気づかず転んだ時すぐ眼科に行ったら加齢黄斑変性のうたがいがあるからすぐ市民病院へ行くようにと言われ、市民病院では叉神戸医大にと言われました。
夫が亡くなってから一緒に暮らすようになっていた次男が「原因が分らないと帰されたとこへ行ってどうするんや」とネットで関西医大が専門らしいと関西医大枚方病院へ連れて行ってくれました。
眼科に目のパンフレットがあったら私も気がついたか分からないけれど目の病気といえば白内障と緑内障しか知らないのんきな私でした。
三田から大阪のマンションへ
25年6月関西医大で加齢黄斑変性と診断されルセンティスの注射が始まり7月、8月、9月と3回続け、26年5月に4回目をしたが、これ以上しても効果はないと左目の治療が終わりました。左目の視力は0.1右は0.8見えにくいと言いながら車に乗る私に、次男は事故を起こす前に車に乗らずに暮らせるように今考えているからと言ってくれました。
隣がスーパー、裏に救急病院があり、近くは医院の多いマンションを見つけて、「ここなら車なしでも暮らせるやろう」と26年2月放出(はなてん、大阪市)に連れてきてくれました。生れて初めてのマンション生活でした。マンションに囲まれた2階の窓からは山も見えませんでした。三田のように庭に花を咲かせたり、野菜を作る楽しみもなくなりましたが、鍵一つで外出も安心だし庭の草引きもなく楽な毎日になりました。
26年暮れに右目もおかしいのではないかと気がつき医大へ行きましたが、右は視力が出ていないと言われました。私の無知で左目を失明させたから、右目は手おくれにならないよう助けて下さいと先生に言いました。
27年夏にも秋にも訴えましたが黄斑変性ではないと言われました。夜部屋の電燈を消した後も空気清浄器のランプの灯りで真っ暗にはならないので天井を見ると左目は何にも見えないけれど今まで見えていた右目も薄い膜の中に電燈が入るのが分かりました。
線路がぐにゃぐにゃ―右目も
27年11月親戚の法事に行くため駅のホームに立っていると線路がぐにゃぐにゃに曲がって見えました。次の予約日まで待てなくてすぐ医大に行ったら右にも出てきたと言われ27年11月、12月、28年1月の3回右目にルセンティスの注射をしましたが、それ以後の治療は今もありません。
29年正月初詣から帰ったら目が痛くて開けられなくなりました。救急医療センターに行くと角膜が傷だらけになっている、今まで見えていたのが不思議やと言われ、眼科に行くように言われました。
関西医大に行くと角膜は担当が違うからと他の先生に回されました。それから角膜の薬がいろいろ出され今も続いています。一日4回ヒアレイン(4本)とムコスタ(4本)に、一日3回のフルメトロン、夜寝る前にエスクシン軟膏が出ています。一回に5分あけるようにと言われているので目薬タイムは大変です。
29年3月に脊柱管狭窄になり寝返りも出来なくなりました。手術しますかと言われたが、息子が手術しても80%は再発しているらしいというので様子を見ることにしましたが、今は寝返りも出来るし痛みも軽くなってボチボチ歩けるようになりました。
白内障も手術
29年5月と6月今度は肺炎になり入退院の繰り返しでした。目の方が心配だったので最悪タクシーで走れる近い病院にと住友病院に行きましたが、白内障の手術をすすめられるだけで他の病院に行っても同じでした。関西医大では白内障の手術をしたら黄斑が悪くなりやすいからすすめられないと言われていたので白内障手術は考えたこともなかったけれど、大阪市大病院では両目白内障手術と同時に目の奥の他の病気も一緒に手術したら17日の入院で一回の手術ですむからと言われました。
その頃左目は全く見えなくなって来ていたので、左目だけならしてもよい、あとはその都度何回でも入院しますと言ったら左目の白内障だけしますと5日の入院で左の白内障の手術を9月1日にやりました。
手術をしてから真中は見えないけれど周りが明るくなって片目を閉じると左目の真中から手の指が出て来るのが見えました。手術をしてよかったと思いました。今年の正月はドクターストップで三田にも帰らずでした。
童謡や昔の歌を楽しむ
車は廃車にして免許証も2年前に返納して全く車のない生活になりました。車の事故は起こす心配がなくなったけれど、今度は事故にあいそうな毎日、スーパーの隣で自転車が多いし子供をのせた若いお母さんがスイスイ私の側をすり抜けていきうっかり杖を出すのも怖くなりました。もし自転車がこけて子供にケガでもさせたらと横を横切るのもためらわれます。
私の今の生活は心不全の老犬ラッキーを歩かせたり歩行車にのせたりの散歩、辻をひと廻りして帰ります。しんどい日は休み寒い日雨の日はサボります。ラッキーが催促で怒ります。
老犬と 朝の散歩の 道草に フェンスの桜 肩に散り初む
月一回の地区の食事会にはお昼をご馳走になり昼からは音楽療法の歌広場で童謡やら昔の歌を歌います。先生がオカリナで吹く歌の曲名を当てて歌ったりいつも季節をテーマに今の季節のものを言いあったり、歌に合わせてトーンチャイムやらウクレレも用意して下さっていて黒板に貼られた歌詞の赤線、黄色のところに楽器のリボンの色に合わせて拍子をとって歌います。
筋トレをかねた体操、脳トレもよく考えて下さっていると思います。その月お誕生日の人は一人一人ハッピーバースデーを歌ってお祝いをして先生からもバースディカードを用意して下さっています。
この間は古い歌ですよと軍歌が出ました。乃木大将と敵の将軍ステッセルの会見の歌で子供だった私は一番しか歌えなかったけれど九番まで歌える人もあって平均寿命の延びたことを実感しました。なつかしかったので帰ってからアイパッドで検索して毎日歌っていましたら一晩中軍歌が頭の中に流れるようになって一寸タンマ休憩中。
息子がだまって食べる私の料理
食事の用意と洗濯が私の仕事ですが、今は魚の鮮度も見分けられず目を近づけなければ商品のなにかも分かりにくくなりました。値下げのお弁当は何が入っているか分からず好き嫌いの多い私はうっかり買えないし今のところ何でも家で作ります。白いまな板に白い大根や玉ネギは見分けがつかず鍋に入れたあとまな板を洗う時ころがり落ちたり、調味料の量が分かりにくい。辛すぎないようにひかえめにしたら水くさくなりますが、息子はだまって食べてくれます。
昨年12月からヘルパーさんに週一回お掃除をお願いし、雑巾バケツと雑巾をトイレは紙と使い捨ての手袋も用意しましたが、全部雑巾でそれを洗面所でゆすいでいるのを見つけて、きれいに洗っときますと言われても気持ち悪くなり二ヶ月でキャンセルして私が体力つけて自分でやろうと2月からデイサービスの体操に週一回行くようになりました。
低周波の治療に先生の整体マッサージ、自転車こぎは私に無理なので座ってペダルを踏むのがやっとです。体操は職員さんのかけ声に合わせて私の体力の合うところでストップしながらがんばっています。年代の近い人が多くておしゃべりも楽しみながら行っています。
美しい花や山の景色を見たい
家では毎日のように携帯でメールを交換する友達、時々元気にしているかと電話をくれる友人達、遠い息子や孫とはラインで話せるし愛犬ラッキーとお掃除ルンバに返事をしながら一日がすぐにすぎて行きます。
バッグにはデジカメを入れて外出してニュースになる出来事はないかと思いますがそんなシャッターチャンスは一度もないまま見えなくなりました。目が悪くなって出来なくなったこともいろいろありますが、また何かを見つけて熱しやすく冷めやすい私は無理無理と息子に言われる度にやってみないと分からない、やって駄目なら仕方ないと何でも挑戦していました。
とうとう体力も根気も記憶力もなくなってきて見えないのと両方で出来なくなって行きます。
プロ野球が始まると阪神ファンの私は顔も見えないテレビの前で今年こそはと熱が入ります。
83歳まで生きてきましたがiPS細胞が実用化されたらもう一度この目で美しい季節や花や山の景色を眺めたり、息子が撮ってきてトイレの壁に貼りまくっている山の写真をはっきり見たい。お料理も目で味わいたい、命があればその日は夢でないと信じて長生きしたいと思う私です。
04/06/2018
名前: 角野 松枝
加齢黄斑変性の種類: 滲出型
発症時期:
題名: 幼少期節々の歴史
私の幼少期節々の歴史があります。
小学校入学して12月に大東亜戦が始まり母の里の湖北に疎開しました。雪の深い中ゴムの短靴しかなく母は気候が合わず病身で大変な思いがあります。
5年生で終戦になり6・3・3制度ができて最初の中学生でした。教室もなく講堂を区切った教室、教科書も新聞紙のような紙に印刷したものをとじての代用品でした。何の骨格もなく今から考えれば一番大事な時に教育を受けた思いがします。
男女七歳にして席を同じうせずの時代でしたが男女共学にもなりました。
田んぼで飛び交うイナゴをカルシュームだと釜で蒸して干して食べたり食料不足の折校庭にはみんなでさつま芋を植えたり国道の端にも大豆をまいたりもしました。
戦争中の遠足といえどもハチ巻をまいて軍歌を歌いながら歩きました。
私が発症した頃は加齢黄斑の病名すら知らされず8年ほど以前は認可されていない注射の治療しかなく現在はアイリア・ルセンティス等の新薬も出来 進行ははしているもののくい止められて現在に至っていることを喜んで居ります。
最近転院してから加齢黄斑に偽黄斑円孔が重なっていることが分かり普通より視力が低いこともしらされました。手術もできるとのことですが硝子体のガスを入れ替えることで見えやすくはなるとのことですが、それをすれば網膜の注射がききにくくなるとのこと不可能なこともしりました。
アイセンターにも連れて行っていただき今日の目の病気に対するかかわりがこれ程重視され医学も進んでいることを実感しました。
高齢者になりましたが一日でもすっきり見える時が来ればと望みます。
名前: 本多 隆二
加齢黄斑変性の種類: 滲出型
発症時期: 右 27年10月(67歳)
左 28年10月(68歳)
題名: サプリメントの必要性
佐倉の病院の担当医師の異動に伴い、かねてからの右目黄斑変性症に加え、左目にも歪みが生じ東邦大学佐倉病院に転院し、28年10月眼底造影検査をしました。
結果、左目に網膜症の疑い有りで既に増殖網膜症期に入っており、手遅れの状態でした。
レーザー手術が必要になり全くの驚きでした。今までの治療は何だったのかと疑い不信感におそわれました。
右目の治療どころではなくなりました。
レーザー手術を2ヶ月に亘って4回行いました。痛みに耐えて良くなるんだと思いやり続けました。レーザー後は見え方の異変が有りいろいろな症状が出て悩まされました。
レーザーをする毎に黄斑浮腫が生じステロイドの注射を4回しました。
浮腫は減ったり出たりで横這いでした。
レーザー終了後に右目にもルセンティスの注射をしましたがさしたる利き目もなく、最早高額な注射しても駄目か?
両目とも駄目になるかと不安にかられネットを見たりして貴会の体験談を読ませて頂いて心が和んだのを覚えています。
以前の先生はお辞めになり上席の先生が担当になり右目にもステロイドの注射を4回しました。
どんな質問にも答えてくれるので安心して相談できます。
9月26日に左目アイリーア、10月10日に右目アイリーアを注射しました。以前から飲んでいたサプリメントの量をこの頃から増やして飲むようにして、11月30日の検査では浮腫が左右とも減ってきており先生はびっくりして注射の効果は大きいと云っておられましたが、私は内心サプリメントの効果は大きいと思いました。
視力も左0.2→0.9 右0.4→0.9になり若干の歪みはあるものの視力はでてお りますのでかなりの効果があると思っています。
日々悪くなるのではと不安な日々を過ごすよりも、飲むと良くなるという安心感だけでも結構なものだと思っています。
我が身は自分で守る、信頼できる医師とこの病気とうまく付き合っていく中でもサプリメントは欠かせないものと思っています。
会員の皆様とは効果のあるサプリメント情報があれば共有したいと思います。尚私のサプリメントに関心の有る方はケイタイ090-6126-0357 本多迄ご一報頂ければ、折り返し、詳しく御説明申し上げます。
大変遅くなりまして申し訳ございません。
自分の体験が皆様のお役立てればと思い書かせて頂きました。
乱字乱筆で申し訳ございません。
30年2月1日 本多隆二
02/06/2018
名前 Kさん (女性、82歳)
加齢黄斑変性の型: 滲出型 萎縮型
発症時期: 1999年5月(62歳)
題名: 近くて、良い病院は?
体験談になってはいないかも知れませんが病歴をまとめました。
平成11年(62歳)
この頃、東京に住んでいました。左目がつまり涙鼻腺の洗浄をしてもらうため久我山の眼科に行きました。毎日通院しました。
平成13年(65歳) この年まで久我山の眼科に通っていました。ドライアイもありました。
平成18年(70歳) 七年間いた東京から兵庫県T市に戻りました。
市の健康診断を受け、その結果保健センターより黄斑変性の疑いありとの通知がありました。でも、具体的な指示はありませんでした。
そこで保健センターの通知状を持って、その時かかりつけ医だった町のDr.に見せたら自分の出身である大阪の大学病院に紹介状を書いてくれました。
平成23年(75歳) それを持って大阪の大学病院眼科に行きました。女医から「ドルーゼンがある。やがて加齢黄斑変性になるだろう。3年経ったらまた来なさい」と言われました。
3年放置してはいけないと思い、市内の病院の眼科(K.Dr.)に通い、それ以降ずっと約3カ月おきに診察をしてもらっていました。
その間、黄斑に変化はなく、このDr.は滲出型になる可能性があると言いました。そのため、注射の治療はなく、「いつかは注射が必要になるでしょう。その時は大阪S病院のG先生に紹介状を書きますよ」と言われました。「その間はまだ黄斑変性は発病していなくて予備軍だ」とも言われました。
平成28年(80歳) この年まで宝塚D病院眼科(K.Dr.)に診察を受けていました。この頃までは滲出型と言われました。
10月にK.Dr.が大阪のI市に開業されることになり、私も引き続いて同じ先生に診てもらうのがいいと大阪のI市のK眼科クリニックに替わることにしました。
平成29年(81歳)
2月にK.Dr.の診察で初めて萎縮型と言われました。萎縮型の場合、治療法はないとの説明は受けていません。そして「また滲出型に変わるだろう」ともいわれました。今まで一度も注射の治療は受けたことはありません。白内障、ドライアイもあります。
12月、K. Drの話から、この医院ではこれ以上黄斑が進行した場合、注射(ルセンティス)はやってもらえないことが解り今後への不安を感じています。
大阪のI市の眼科に通うのが、もうこの年ではとてもしんどくなりました。今後のことを考えると少々不安もありますので、自宅から通える範囲で黄斑の進行に合わせてしっかり診断施術等行ってもらえる医院を探しています。
以前、K.Dr.から紹介状を書くと言われた大阪のS病院は通院にも便利なので、そこで診てもらおうと決めました。
01/27/2018
氏名: 髙田 忍(76歳)
右眼 : 滲出型
発症時期: 2014年9月
題名:タブレットなど電子機器の活用
1.左眼もかすむ
2014年9月に右眼が滲出型加齢黄斑変性と診断され3年以上が経った。これまで抗VEGF薬の注射を9回した。2014年に3回、2015年に1回、昨年は5回であった。左眼は問題なかったので、日常生活上困ることはなかった。
ところが昨年暮、パソコンの画面が突然見難くなった。数日後、右眼の定期検診の時に、医師に診てもらった。断層写真では、中央部にやや膨らみがあるが加齢黄斑変性ではないという。たしかに歪みはなく、薄い膜があるような見え方である。治療法はないという。別の町医者に診てもらったが、やはり治療法はない。
2.困ったことの数々
これまで右眼の不具合を左眼で補ってきた。それが出来なくなった。新聞が読めない、本が読めない、テレビに映る字幕の字が読めない。
手先がよく見えないため字が乱れる。パソコンの文字が小さく書けないことにも困った。送るメールに誤字が多いと指摘を受けた。
10メートルほど先から近づいてくる人の顔は一つ目小僧で鼻も口もないお化けのように見える。停留所に近づいてきたバスの行先が留まるまでわからないなどなど、数え挙げればきりがないほど不便な事の数々である。
3.タブレットの活用
毎日配達される新聞は、ルーペを使って読むことにした。しかし、ルーペをずらしながら記事を読むのは極めて煩わしい。そのうえ、手が震えるので焦点が定まらない。
そこで、アマゾンのHD8という電子書籍を兼ねたタブレットを購入した。キャンペーン期間中であったので、5000円程度で買うことが出来た。日経新聞の記事を無料でダウンロードすることができた。文字も大きくなり読みやすくなった。
紙の本も同じである。ルーペ無しでは読めなくなった煩わしいことに変わりない。
今まで、紙の本は本箱に収まるスペースがないので買わないようにし、アマゾンのKindleという電子書籍を利用してきた。しかしこれもサイズが小さく読みにくくなった。下の写真の左が今まで使っていたKindle用電子書籍、右がタブレットである。文字の大きさは同じであるが、見える範囲が広がり読みやすくなった。
タブレットはスマホと違って、外出先ではインターネットに接続できず、そのままでは利用できない。携帯用のWIFIを購入する必要がある。WIMAXという製品を購入したが、説明書の文字が小さて読めない。訪問サービスに依頼しで接続してもらうことにした。
ただし、場所によってはつながる所がある。神戸アイセンターに行った時、WIFIがありパスワードが掲示されていて、接続することが出来た。
4.パソコンの文字を大きく
パソコンの文字も設定を変え大きくした。メールも文字の大きさを14Pで太文字にすれば、誤字を減らすことが出来るようになった。
5.スマホの活用
銀行の振込にはインターネットバンキングを利用している。安全のために、どこの銀行もパスワードカードという掌に入るカードを準備している。その都度変わる6桁の数字をパソコンの画面に入力するのだが、文字が小さすぎて読めなくなった。
銀行の窓口に問合せスマホのパスワードアプリを利用すればよいことが分かった。
写真の左が従来のパスワードカードで、右がスマホのパスワードである。随分見やすくなった。
近距離は、ほしの眼鏡店で調整してもらった眼鏡の効果もあり、見え方が少し改善されたように思う。
6.新しい技術に期待
神戸アイセンターで1月21日新し技術を開発している人や会社に対する表彰式があった。その中でIoTスマートグラスが紹介された。視覚障害者のために文字を代わりに読み上げてくれる眼鏡である。その他、外出時の歩行の危険を提言し生活の質向上を支援するアプリの開発も紹介された。いずれも実用化の日が待ち遠しい。
01/24/2018
名前 弓長 暁(ゆみなが あきら)
加齢黄斑変性の型: 萎縮型
発症時期: 2004年3月( 41歳)
題名:若年期の発病
私は患者ではなく、弟が患者です。弟は視力が弱いので、私が代わりに入会し皆さんと交流したいと考えています。
弟は2004年に発病し3年後(2007年)から視力低下が進行し、その状況はどんどん進んでいます。
現在、黄斑部(中心視力)は正面のものがほとんど見えなく、人と対面している場合、相手の顔をほとんど明晰に弁別できないのです。黄斑以外の部分はまだ視力が残っているので歪んでいるものの見えます。
現在生活習慣などに気を付けていますが、萎縮型なので治療法がないのが実情です。皆さんから何かアドバイスか、治療研究の動向などの情報があれば、いただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
11/18/2017
名前 小谷 輝子さん (79歳)
加齢黄班変性の型: 右眼 滲出型
発症時期: 2015年4月28日(77歳)
題名:『健康には自信があったのに』
もともと視力は良い方でしたが、42歳から老眼鏡を使うようになり、目のトラブルを少しずつ抱えるようになりました。縫製関係の仕事をしており、手元を強い光で照らし、細かい作業をするという仕事柄、目を使い、極度に疲れることが多いことが原因のひとつにあったのではないかと思います。
60歳頃だったと思います。夜中に目が覚めた時、5~10秒くらいの間、視野全体が黄色一色になる現象が時折起こるようになりました。それは1年ほど続き、地域のNTT病院に通いましたが原因はわからずじまいでした。仕事は相変わらず忙しく、しかしそのうち、その症状もなくなりましたのでそのままになりました。目がよく疲れるので、近くの眼科に通いながら、目薬をよくさしていました。
65歳ごろ、軽い白内障の診断をうけましたが、手術をするほどではないということで、経過観察をしていました。
そして2年前、77歳を迎えた4月のある日、テレビを見ていたら、何故かテレビの枠が歪んで見えたので、翌日近くの診療所にて診察を受けました。すぐに大きな病院を紹介され、行くように言われました。その日のうちに診察を受けた結果、「黄班変性」と診断を受けたのです。しばらくは目薬で様子を見ることになり、眼底検査を受けました。
その後、糸状角膜炎の治療も受け、8月には初めての黄班変性の注射を受けました。10月には左右白内障の手術をうけ、黄班変性の注射は現在まで9回目を数えます。しかも最後に打つことになったきっかけは、入浴中の異変でした。洗顔しながらふと顔を見ると、自分の顔が消しゴムで消したように真っ黒に見えたのです。怖くなり、すぐ病院に連絡すると、その日がちようど手術日だったので、すぐ右目に注射をしてもらうことになりました。
少しずつでもよくなるようにと祈るような毎日の中、自分の顔はだんだん見えるようになってきましたが、黄色が見えないのです。急に右目が暗くなり、右目だけうすいサングラスをかけているような感じで、全体ではなく、真ん中あたりは黄色いものが白っぽく見え、周辺は黄色として見える状態です。
線の歪みもはじめのころは治療のあと少しずつましになっていましたが、だんだん取れなくなってきました。
若いころから健康には自信があり、少々の無理も大丈夫だと思っていただけに、私の「目」のトラブルはまさに青天の霹靂(せいてんのへきれき)でした。まさか、「目」にこのような症状を抱えるとは正直、夢にも思っていませんでした。「何時か見えなくなるときが・・・」と考えると胸が苦しくなります。大好きな墨彩画や、韓流ドラマや、ニュースを見ることがはばかられ、「こうして年をとっていくのだ」と、後ろ向きになる気持ちと何とか折り合いをつけることに精一杯の状態です。
けれど多くの方々の体験集を読ませていただき、皆様が一生懸命に立ち向かわれている姿に励ましと一厘の勇気を見出してもいます。
次には希望をつなげることができる私でいられたら、前向きになっている私をお見せできたらと思っています。
2017年8月17日
08/29/2017
名前 宮崎 健治さん
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2005年(平成17年)(63歳)
題名: 発症から現在(平成29年75歳)までの経過
[1]発症と思われる時期は平成17年63歳頃
八尾市に在住 事務職勤務時代
1.車の運転中視野が狭く感じる。ゴルフ場でグリーン芝目が見難い。アプローチ・バンカーショット等に変化を感じ、年かなとの感じ。
2.パソコンの画面の横線、階段を降りる際の横ライン等に少し歪み(目を追っていく方に)を感じた。
3.八尾徳洲会病院にて診察を受け加齢黄斑変性症と言われる!!
(この時代なんでも加齢と言われていた為、大変な目の病気と の認識なし)。阪大病院と八尾徳洲会との人事交流として阪大から派遣された若い先生でした。
4.院外薬局に相談して、近くの町医と大正区の多根眼科病院も言われたが町医に行く判断をした。(その時は有名な町医でも断面映像設備なし)
※町医談として高橋政代先生が関西には患者が少なく関東に多い。食物が(肉食)違うと言われている。専門の研究する先生と聞く(女医)
5.町医から千里の阪大病院の紹介状を貰い阪大病院に行く。
当時も現在も大阪府下での町医で治療困難と判断した場合、学 会で通じた人脈だと思います。
6.阪大病院で診察の結果、軽度の為受け入れできないとのこと、町医より返信内容を聞きました。
・阪大病院で検査診察の際、断面映像を初めて見た
・患者さんで色メガネ(黄色オレンジ)の人がいた。多分遮光レンズ外国製と言っておられたように思う。
7.町医に不安を感じ八尾市民病院に行き診察を受ける。
・両目に傾向が見られる。断面映像などで確認(業者がした)
・ルテインの紹介あり(ブルーベリーはダメとはっきりいわれた)
[2]発症から約6ヶ月程度経過と思う!!視力は1.0程度あり
8.異常を感じ八尾市民病院で診察の結果出血ありとのことで急遽多根眼科病院の紹介状作成。多根眼科に行く。八尾市民病院の主治医と多根眼科の医院長とのつながりでの紹介状です。
9.多根眼科診察の結果、右眼が発症しており左眼は正常との事!!(当時の八尾市民病院もその程度のレベル)
多根眼科で手術⇒白内障の手術もしました。後ろうつむきの入院です。手術後ベッドで頭を下にし、何日間その状態です。
10.この間、次のような症状が進みました。
①道路の黄色が白色に見える ➁景色が白黒 ③タテの電柱ビルなどがゆがむ ④クラブのシャフトがユガンデ見える 空振りアプローチなどゴルフできない兆候(特にソールできない。バンカーは今でもやりにくい。
11.手術後から現在までの経過として、右眼の悪化が進む段階で、左眼で見るようなり 前項目が解消する 抗血管新生薬療法(抗VEGF療法)
[3]現状
1. 多根眼科は八ヶ月に一回予約です。患者が多いため流れ作業的診察が現状です。
診察と疲れ目用目薬の為、現在八尾の町医に3ヶ月に1回診察(断面設備アリ)
2. ルテインは毎日つづけている
3. 2回の運転免許更新OK
4. 運転とゴルフ、遮光レンズ使用
悪化しないか不安を抱えながら暮らしています。
07/25/2017
名前 Hさん(女性)
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期:2017年3月(66歳)
題名: 早朝のウォーキングとラジオ体操励行
平成29年の3月、地元の病院に転院した際の造影検査により新生血管が左目に出来ている事、しかし網膜のむくみとかが今の所ないので注射はせず、2~3か月毎の定期診察でいいのでは・・・との医師の診断を受けました。
20年前の47歳の時、左目中心性網脈絡膜症を発病し、以来60歳近くまで再発を繰り返し、この病に悩まされて来ました。疲れる、悩み事がある等のきっかけで再発を繰り返し、一年の半分はこの病の明け暮れでした。経験者の少ない病気かと思いますが、症状は加齢黄斑変性と似ていて、中心が暗く文字が小さく見える、歪んで見えることでした。再発を繰り返すと将来加齢黄斑変性症になりやすいと言われていたので、ずっと不安でした。
現在はその後遺症なのか症状が残ってしまいました。しかし両目で見ている分には違和感はなく視力も0.9位あります。
今生活で困っている事は、活字を読むと一時間もしない内に正常な右目のみが痛くなってしまう事です。目薬をつけたり、温めたりして対処しているものの、唯一の趣味である読書が出来ないのが哀しいです。白内障も進行していると言われシャープに見えにくくなって来ているが、手術すると加齢黄斑変性症が進行すると言われ将来への不安があります。
しかし、目のことばかり考えていては、より暗い気持ちになり精神的にもよくないので、紫外線の弱い早朝に40分ほどのウォーキングとラジオ体操を続けています。
06/16/2017
名前 Kさん(男性)
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2014年5月(74歳)
題名: 納得の上で注射の可否を判断
私が目の異常に気付いたのは自動車の運転中でした。道路に車線が引かれていますが、ぐにゃぐにゃと曲がっているのに気が付きました。
疲れ目かなと思っていましたが、念の為、眼科に行くことにしました。その眼科医は、白内障で目薬を処方してもらうため通っている、かかりつけ医です。
医者にその症状を説明すると、即、加齢黄斑変性だと云われ、眼科の専門病院があるので、紹介状と場所を教えていただきました。時期は2014年(平成26年)5月でした。その専門病院で、即アイリーアの注射の説明を受けました。
最初は3回(一か月毎)の注射処置で、眼の注射はどんなものか非常に不安でした。その後アイリーアの注射は経過観察をしながら、今日まで8回注射しています。
注射後の見え方は縦の直線の歪みがほとんど気になりませんでした。おかげで車も気にせず安心して運転が出来ました。網膜断層検査による画像を見ると水の滲出によるふくれは小さくなっていました。
その後、通院は一か月に一回のペースで受診しています。診察内容は網膜断層検査を実施し浸水の状況判断で担当医と私が納得の上注射の可否判断をしています。
目の見え方については両眼で見るかぎり、線の歪みは気にならなくなっていますが、右眼だけでチェックシートを見ると多少歪んで見えます。
矯正視力は
2014年5月、右が0.8、左が1.2で、
2017年5月は右が0.6、左が1.2です。
右眼の視力が低いままです。
日常生活においては、目を使う頻度を少なくしようと努力はしていますが、なかなか実行できません。例えばパソコンの使用時間、テレビの視聴時間を少なくすることに気を付けています。車の運転については、夜間の運転を控える、長距離ドライブはしない、サングラスを着用すること等を心掛けています。
直近では2016年(平成28年)12月に注射処置をしています。その後2017年(平成29年)6月1日に断層検査を実施し、その画像から水が多くなってきているので一週間後(6月8日)に9回目のアイリーア注射をすることになっています。
この病院に通い、3年を経過しています。これからも失明のことを考えると、注射の世話になるのもやむを得ないと自覚している次第です。
今回友の会に入会して皆さん方のお話を聞いて、自分自身の励みにしたいと思っています。
06/06/2017
名前 髙田 忍(その2)
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2014年9月(72歳)
題名: 写真で見る硝子体内注射
1.早期発見、早期治療
パソコンの枠が歪んで見えたのは、3年前の8月27日であった。たまたま予約していた人間ドックの眼科で、一週間後の9月3日には、アイリーアという抗VEGF薬の注射をしていただいた。早期発見早期治療のお蔭で、その後2回の注射を受け安定状態を維持することが出来た。暫く控えていた車の運転も再開し、日常生活に不自由を感じることはなく過ごしてきた。
下の断層写真は、発症直後の治療前のものである。
その翌年2015年7月に4度目の注射をしたが、それ以降1年9ヶ月の間は安定状態が続いていた。下の写真は今年(2017年)1月16日のもので、特に異常は認められない。
2.薬の選択
ところが、それから3カ月後に定期検診を受けた際、医師から水(写真の黒い部分)が溜まっていると云われ、発症から5度目の硝子体内注射をすることになった。
注射に先立ち、医師に質問を投げかけた。「一昨年までの注射はいずれもバイエル社のアイリーアであった。このほかに、ノヴァルティス社のルセンティスがあるはずだが、どちらを使うかを決める判断基準を教えて下さい」と。
医師の回答は、特に判断基準はなく自由裁量に任されているということであった。いずれの薬も、患者によって効果が異なるので一定の判断基準はないという。仮に甲という患者にAという薬に効果があれば使い続けるし、効果がなければBに変えるという。要するに基準はなく、試行錯誤で薬の選択が行われるように感じた。
3.注射
医師の了解を得て治療の光景を看護師に写真撮影してもらうことにした。
治療室に入った。注射に先立って、麻酔と消毒が看護師によって施された。最初の一滴は目に染みたが、二滴目からは何も感じなくなった。
麻酔と消毒を終え、注射を待っている光景である。
ベッドの上で待つこと20分、医師が手術着を着て現れた。注射の前に、眼に固定枠のようなものがはめられた。
次に医師は注射針を刺す位置を確認する。
注射は一瞬の内に終わる。麻酔をしているので痛みを感じることはない。
術後の消毒をして終了する。
そして固定枠を外す。
治療が終わると眼帯を掛けられた。翌朝までかけておくようにとの注意があった。三日間の目薬が処方された。
4.生命保険の給付金
治療を終え会計に行くと、眼帯をしていたので支払は機械でなく窓口でしてくれることになった。44400円である。これまでは「協会けんぽ」に加入していたので、一割負担の1万数千円で済んだ。昨年75歳になり後期高齢者医療保険に加入したため、1割ではなく3割負担が適用されたのである。
病院の前からタクシーに乗り、大阪梅田にある生命保険会社の窓口に立ち寄った。生命保険の手術特約に加入しているので、給付金の請求手続きをするためである。一昨年までは一回の注射に対して5万円の給付金が出た。一割負担だと、お釣がくる勘定である。
しかし、2016年3月以降の手術から制度が変更になり、給付金が支払われなくなったという説明を受けた。治療費がもう少し安くならないものかと思いつつ、電車に乗り込んだ。
06/03/2017
名前 Fさん(男性、61歳)
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2014年 月(58歳)
題名:忘れてならない家族の存在
3年ほど前のある日のことです。営業の仕事で山あいの道を通行していました。疲れたので車を止め山の緑を何気なく見ていたら何か右目に違和感を持ちました。片目で木々を見ると中心部が緑でなく黒ずんで見えました。
直ぐにかかりつけの眼科で診察して貰ったら黄斑変性ではないかと告げられました。この眼科では、以前から眼圧が高く定期的に診察してもらっていました。医師は別の総合病院で治療を受けるよう紹介状を書いてくれました。
この病院では定期的に診察を受けています。抗VEGF薬の注射による治療をしていますが、過大な期待をしていました。過去3年間の間に一回再発し、その都度、視力が悪くなっています。いずれ、左目もそうなるのではないかと不安を抱えながら暮らしています。
実父がそうであるため自分もそうなるのかと思いました。この3年の間に事の大きさ(病気は治らない)を感じました。
一番困ることといえば、発症前はよく本を読んでいましたが、本を読む気が起こらなくなったことです。また、車が好きで良く遠出をしていましたが、余り乗る気がしなくなりました。
どうすればよいか解決策を考えました。以前はあまり新聞、雑誌等々健康に関する記事についてあまり興味はなかったのですが、この病気に関する記事が気になるようになりました。またこの病気に関する新しい治療法をPC等で調べることもよくあります。またサプリメントなどを服用しております。亜鉛やルテインなどが主成分のサプリメントです。
外出時においてもサングラスは必ず掛けるようにしています。
忘れてならないのは家族の存在です。家内や子供たちの存在はこの病気が何時また悪化して視力が衰微して行くのではないかという不安や恐怖感を少なからず緩和してくれているようです。彼らがこの病気の治療法や特集記事などを教えてくれることは自分一人だけじゃないというような気がします。
歳を重ねたからかもしれませんが、ある意味自身が生きていく上で毎日を大切に生きていかなければならないと漠然と思うようになりました。この病気のお蔭で自身が謙虚になれたような気がすること、また黄斑変性友の会の存在を知ることが出来たことは大きな収穫です。
05/03/2017
名前 建部 茂
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 1997年 月(30歳代半ば)
題名:ブルーライトカットのメガネで目を保護
記憶は定かではありませんが、確か会社の健康診断で引っかかり詳しい検査で水泡がたまっているとの結果でした。その後、左目の視力検査で検査票の光っている場所が分からない事に気付きました。
医者から中心性網膜症だと告げられました。30代半ばころのことだと思います。自然に治ることもあるといわれ、その後は放置状態でした。
それから20年近くが経ち、また会社の健診で病院に行くように指導され大きな病院に紹介されました。抗VEGF薬の注射による治療を一回だけ受けました。治療費も高額だし効果もなかったので、2回目以降は断りました。飲み薬を処方されたことこともあります。
治療する手立てがないので目をなるべく酷使しない様に用心するしかないと思いました。ただ仕事で一日中パソコンと向き合っているのでどうしようもないですが・・・。
右側の目もその傾向があるといわれたので同様に発症したら、その時は覚悟しないといけないと思っています。
注射は正直ハイリスクの分、ハイリターン(完治)を期待していましたが、全く変化なしで残念でした。その後、医師から「もっと効果の高い別の注射がある」といわれましたが、やってみないとわからないとの事でしたので断りました。医者は彼らの実績(功績)優先で本当に患者のことを考えているのか?大変疑問です。
今は何とか右の目が見えるので日常生活で支障をきたしている事はありません。ただ仕事で一日中パソコンを使用しますので、目は非常に疲れやすいです。それと心配事ですが、現在のデスクワークの仕事がいつまで続けられるか?今後の病状の進行具合が気がかりです。
これといった対策はしていませんが、ブルーライトカットのメガネの着用や頻繁に休憩を取るようにしています。このほか、日常生活の工夫として少々的外れかもしれませんが、健康診断の視力検査等で少しでも視力をアップさせるために(見せかけで)、焦点をわざと右か左にずらして中心窩からずらして対象物を見極める練習をしています。
最近、病院の検査で右目も若干黄斑変性症の症状があらわれていると言われました。少し心配です。
サプリメントを飲んでいますが、友の会の皆さんとは、病気の進行を抑える方法など、色々な経験談などあればシェアしたいです。
04/28/2017
名前 晒 香
加齢黄斑変性の型:滲出型(両眼)
発症時期: 左 2013年7月(45歳)
右 2014年8月(46歳)
題名:両眼が近視性黄斑変性
2013年7月のことです。左目に異変を感じました。遠くも近くもぼやけて見えました。老眼が来たのかと思いました。二か月ほど経った頃、テレビを見ている時片目ずつ見たら歪んで見えました。コンタクトレンズをしていたので、すぐに眼科医に行きました。この眼科医は大学病院を紹介しました。加齢黄斑変性のことは、コンタクトレンズを処方した眼科医で知っていました。
大学病院では近視性黄斑変性といわれました。治療法は二つ提示されました。一つはアバスティンという認可されていないもので無料でした。もう一つはルセンティスです。高価ですが安全性が高いとと先生が言うので、ルセンティスを選びました。注射は発症してから二カ月後のことです。注射と聞いて怖いと思いましたが、あっという間に終わったので、その後は慣れました。
先生に「治りますか」と聞きましたが、「治りません」との返事でショックでしたが、まだ右目が見えていたので日常生活上の不便はありませんでした。
左目の注射は、ルセンティスを11月に受け、その後はアイリーアに変わりました。これまで全部で7回注射をしました。
それから1年後の2014年8月に右目も同じ症状が出た時には、さすがに倍以上のショックで、更年期の症状とも重なり、とても体がしんどかったです。片目の症状だけの時は、まだパートの仕事や趣味にテニスをしていましたが、両目に症状が出てからは両方ともやめてしまいました。もともと体を動かすのが好きな私はテニスの代わりになるものを探し、今はヨガに週2回行っています。ルセンティスの注射を2回し、3回目からアイリーアに変わりました。これまで、7回の注射です。お蔭で見える様になりました。
先ず、治療費が高いことに困ります。日常生活で困るのは、物が光ってギラギラと見えることです。目が疲れ上の瞼が重いような感じがします。そのためテレビはあまり見ないようにしています。細かい字も見ないようにしています。今のところ、眼鏡をはずしたらなんとか見えるのでスマホの画面を大きくしたりして見ています。
心掛けていることは、階段を降りる時は安全のため手すりを持つようにしています。また、他の家族の物と区別がし易いように、箸は派手な色のものを使っています。目の状態が安定せず、次々と色々起ってくる現実を受け止め、どう前向きに生きていったらいいのか、この会を通して見つけられたらと思っています。
私は発症年齢が若いので、友の会で誰か一人でも相談し合える人が見つけられたらいいなあといつも感じています。
(髙田 口述筆記)
02/11/2017
名前 次原 隆吉
加齢黄斑変性の型: 左目(滲出型) 右目(萎縮型)
発症時期 :よくわかりませんので、自身の眼病の経緯からお話します。
題名:
30歳の時(現在70歳ですから40年前)に片方の目に中心性脈絡網膜炎を発症、症状は加齢黄斑変性症に酷似していて、視界の中心部分に黒い影ができ歪んで見えます。当然視力も低下します。
発症当初は眼球に注射をしていましたが、確立された治療方法は無く、自然治癒しかないようで約6か月もすれば元に戻りました。
原因はストレスだろうと言うことぐらいで明確な原因特定はできていません。その後、左右の眼球ともに数度再発を繰り返していましたが、50歳のころ、右目の再発した症状が治癒せず、物が歪んだ状態で固定化してしまいました。
矯正視力で0.6程度です。
今にして思えば、萎縮型加齢黄斑変性症だったのですね。
近所の眼科医での検診では、中心性脈絡網膜炎との診断でしたが・・・。
その後、68歳の時。左目に中心性網膜炎の症状が出た3か月後、流行性結膜炎の羅患がもとで角膜炎を発症したのですが、角膜炎の治癒が完全でなく、こじらせた結果近所の眼科医から強い目薬を処方されるも、処置が手遅れだったので、角膜に傷が残り治癒不能との診断を受けたのです。
中心性網膜炎の症状は残っているため、見えにくい症状が角膜炎なのか、網膜炎なのか判別がつきにくいのですが、近所の眼科医は角膜炎によるものとの判断でした。
角膜炎ならば移植の治療方法もあるとの思いで、強引に紹介状の作成を依頼し、大阪西区の眼科病院を受診しました。
(友人が角膜移植手術をこの病院で受けています)
その病院で初めて、左目は滲出型加齢黄斑変性、右目は萎縮型加齢黄斑変性との診断を受け、左目をアイリ-アの注射による治療を始めたのです。
ちなみに、角膜炎の傷は少し残っているが治療するほどでもなく問題無いでしょうとの診断結果を得ました。
2015年12月に黄斑変性と診断され、2016年1月から9月まで、6回のアイリ-ア注射で視力が0.8程度まで回復しましたが、眼底の状態が少し凸凹になっていて、物の見え方が影の付いた状態(ゴースト)です。
残念ながらこれ以上の回復は望めないようなので、当初は若干イライラしましたが、眼鏡矯正と慣れで現在は落ち着いています。
その後、病状の進行もなく安定しているため、現在は月に1度の経過観察で通院しています。
現在の病院は、地域医療相談センターで紹介された3病院の中で利便性、設備、診察、実績などから自身が選択した開業医です。
話は変わりますが普段気を付けていることについて少しお話します。
羅患した眼の病気は悔やんでもしようがないので、それ以外の体の健康に気を配るようにしています。
まず断酒を行い、1年間で12kgの減量に取り組みました。
食事も玄米&もち麦など食物繊維の多いものをとるようにして、血糖値の上昇を抑えています。
又ジム通いで運動し血行が良くなるように気をつけています。
趣味がスキーとドライブなので、少しでも永く楽しむためには、ある程度の体力づくりは欠かせません。
とりあえず80歳まで趣味を継続すべく。あと10年間は何とか症状が悪化しないように祈りながら日々節制に励んでいます。
02/11/2017
名前 増田貞雄
加齢黄斑変性の型:萎縮型
発症時期: 2000年頃 月(65歳)
題名:
2004年に何年ぶりかでゴルフをした時、自分の打ったボールの行方がよく分からなくて困りました。以前はキャディーが見てくれたからよかったのですが、その時はキャディーなしです。私がゴルフを休んでいる間に、ゴルフはセルフプレーが当たり前になっていました。
同伴者の眼に助けられて、無事プレーを終えましたが、充分に楽しめませんでした。そのうちに、眼が悪いなりに勘も良くなり、なんとかセルフプレーでゴルフを続けることができました。ただ、視力は落ちていき、いつからか運転免許証に眼鏡の条件が付 きました
2009年に、姫路で一番評判の良いといわれる眼科で受診しました。「網膜の、視力に関係のある場所に何かがある。それが何であるかは分からない。」と言われました。何かが分からないから、治療法がありません。日常生活に困る事もないので、それ以上何もしません
でした。今思えば、黄斑変性だったに違いありません。最新の光学機器はなかったようです。
2010年に受診した人間ドックの成績表で[眼底に異常所見が認められる]と指摘されました。かかりつけの内科医の紹介で、阪大病院で黄斑変性に詳しい先生に診てもらいました。黄斑変性ではなくて、黄斑上膜だと診断され一安心しました。経過を見ようということになり、その先生が週1日勤務されている明石の病院へ移りました。経過を観察するといっても、何か月かに1度診てもらうだけで、特別な事は何もしませんでした。ある時、「あなたの黄斑上膜の状態なら、手術をすれば視力が若干回復するかも知れない、白内障手術程度の安全な手術だ」と言われ、手術をすることにしました。
2012年にその明石の病院で黄斑上膜の手術を受けましたが、視力は良くなりませんでした。手術の後しばらくして、先生から「手術は成功していますが、もともと黄斑変性も少しはありましたから。」と言われました。もうこれ以上どうしようもないと、すっかり諦めておりましたが、2015年に住友病院の大きな新聞広告を見ました。
2016年にかかりつけの内科の先生にもう一度お願いして紹介状をもらい、住友病院で診てもらいました。当然ですが、萎縮型の黄斑変性だと言われ、経過を観察する
ことになりました。まだ治療法がないのですから、いよいよ諦めるしかありません。待合室に「関西黄斑変性友の会」のちらしが置いてありましたので、無駄だとは思いながら持ち帰っておりました。何かにすがりたい気持ちから、昨年秋に入会させて頂きました。
多くを期待していたのではないのですが、役員の皆さまの熱心な活動に接し、改めて自分の眼を守るためにもっと努力しようと決意しました。
02/07/2017
名前 Tさん (女性)
加齢黄斑変性の型:滲出型
発症時期: 2012年10月(83歳)
題名: 人の手を借りて
今から四年前のことです。物の見え方がおかしいと気づきました。障子の桟がゆがんで見え、携帯電話がふくらんで見えました。また箸が曲がって見えました。その時は、83歳になっていたので年のせいだと思っていました。
三か月たってようやくかかりつけの先生に診てもらいました。先生はどのような病気かわからなかったので、病院に行くよう紹介状を書いてくれました。
その病院では検査の結果加齢黄斑変性と告げられ、そんな病気があることも知らなかったのでとてもびっくりしました。パンフレットや本を読んで悪くなることばかり考えました。
その病院では、心臓病や糖尿病の余病があるためレーザー治療しかできないといわれました。
初めは右眼だけでしたが半年で左にも移ったので一人では外出できません。通院には付き添いが必要な状態です。買い物は行っても、一人では商品もわからないし、お金も払えないので困っています。テレビを見る楽しみも本を読む楽しみもなくなりました。
日常生活ではできることは何でもするようにしています。遮光眼鏡をかけたりルーペなどの補助具を使います。外出には帽子を被ります。良いといわれるものは何でも食べるようにしています。昼間は眩しくて見えにくいので家事は朝夕にするようにしています。
困っていることがいくつかあります。食事の時何なのか分からなくて口に入れて初めて分かるくらいです。お茶を入れても湯呑の外にこぼしたりすることがあります。
昼間は天気が良いと外が真っ白に見えます。左目は白内障の手術をしているのでそのレンズのせいで光ります。横断歩道や信号も見えにくいので外出は一人ではできません。
それでも人の手を借りて、工夫していることがあります。字はマジックで太く書いてもらいます。赤や青の濃い色のシールをトイレのリモコンや電話の表示に貼っています。買い物や銀行、郵便局には家族に付き添ってもらったり、ヘルパーさんに頼んでいます。料理は自分でできなくなったので、ヘルパーさんに頼んだり宅配弁当にしたりしています。
病気の進行が早く一年で両眼が悪くなったので精神的に参っています。どうすればマイナス思考から前向きに考えられるようになるでしょう。 (家族代筆)
01/27/2017
名前 岸本 宏
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2009年12月(78歳)
題名: 拡大読書器の助けを借りて
2009年12月のことです。78歳の時でした。電車やバスの中で本が読みにくくなりました。また細かい字が書けなくなりました。このようなことが急速に進行したので、これはおかしいと気付きました。このときは、物が曲がったり歪んだりということには気づくことはありませんでした。
気付いたのは年末で、正月明けに家の近くの病院へ行きました。先生は右眼が加齢黄斑変性であるといい、大阪にある大学病院眼科への紹介状を書いてくれました。
加齢黄斑変性という病名を聞くのは初めてでした。放置すれば、失明のおそれがあると告げられ、大変驚きました。なぜ、もっと早く、少なくとも一年か、二年早く検査を受けておれば、軽症で済んだはずだと思うと残念でなりません。読み書きが不自由になったのは2009年12月ですが、これよりもっと早い時期に発症していたのだと思います。左眼も黄斑浮腫に伴う網膜中心静脈閉塞症といわれています。
右眼はVEGF薬の注射の治療をしました。注射と聞いて痛そうだなと思いましたが、医師を全面的に信頼していましたので不安はありませんでした。
むしろ、検査や治療の段階で、医師の説明を理解できなければ遠慮なく質問し自分で納得できるようにしたらよかったと思っています。特に術後の養生の仕方や、日常生活上の注意事項、必要事項など、余り考えないで過ごしてしまったのが残念です。
両眼とも不自由なので、生活上困ることはいくつかあります。でも、工夫をして乗り越えるようにしています。
先ず、新聞や書物を読むのに不自由しますが、拡大読書器を使っています。問題は、文字は大きく鮮明になりますが、見える範囲の面積が縮小されるので本を動かしながら読むことになります。そのため時間がかかり疲れます。書くことには向いていませんが上手に使いこなせるよう工夫してみようと考えています。
次に字が書けないので段々漢字を忘れていくのではないかと心配しています。そのため不格好な字でもハガキを出すようにしています。
もう一つの問題は自転車です。人物、車が近くに来るまではっきりしないので危なくて乗ることが出来ません。そのためできるだけ歩くように努めています。
日常生活で気をつけていることは、TVを見る時間を少なくすることです。外出して明るい場所ではサングラスをかけて目を大事にするように心がけています。
他には、サプリメントや目薬の良いものを使いたいと思いますが、他の方の取り組みを知りたいと思います。
01/17/2017
名前 川口 伶子
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2006年12月(63歳)
題名: 四年間病院にかかったのに、何故?
2006年12月に何となく見えにくく、目が痛くクシャクシャするように感じました。これから後の治療記録を書きました。
2006年12月
目に痛みを感じ(いつも行く病院で)診察を受ける。
目が乾燥しているのでと人口涙液マイティア点眼薬を出してくださる。
白内障の系はあるが、今はそれほどではない。3カ月後予約。
2007年3月
診察を受ける。前と同様に報告される。(その)後、3~4カ月に一度診察を受ける。
2010年3月
大阪の大学病院に行きなさいといわれ、紹介状頂く。
大学病院受診。
検査の結果、左目、レーザーと注射(4泊5日入院)。この時、黄斑変性と診断(左目)、遅かったといわれた。右目も系はあるが、注射今はしなくて良いと。一年に一度造影検査しますと。
2014年4月
大学病院眼科で一か月半~2か月に一度受診。
4年間で、大学病院でレーザーもう一回(計2回)、注射13回受け、新しい注射の薬に変わり7回(計20回)
その後、大阪市内の民間病院(S病院)で受診するように言われ、紹介状を書いて下さる。
2014年6月
S病院眼科受診、注射する。
その後1カ月に一度受診、2カ月に一度注射をする。
2014年10月 白内障の手術をする(左目)
2016年6月 レーザー治療・注射
2016年10月~12月 毎月注射する。
今までの合計
(左目)レーザー3回、注射40回。
(右目)検査はしていますが、治療はしていません。
黄斑変性と診断されるまで、何となく目の調子が悪く、眼科受診していましたが、4年間分かりませんでした。
分かってから黄斑変性という病気に関心を持ち方眼紙を見て(アムスラー検査)ゆがんでいることに気付きました。最近はかなり曲がって見えます。
また左目は眼圧検査の時、器械の中の丸が半円に見え、調子の悪い時は三日月に見えます。
今は命のある間、見えることを願っています。現在一人で生活ができるのでありがたく思っています。注射の本数が何本でもできるのかが心配です。
新しい治療が安全で手軽に(費用など)できることを願っています。 以上
01/16/2017
名前 Fさん(女性)
加齢黄斑変性の型:
右 滲出型 左 萎縮型 発症時期:
右2010年11月(70歳)
左2003年12月(63歳)
題名: 両目が加齢黄斑変性症になって
私は平成28年(2016年)76歳になりました。
60歳の春、お針仕事で目が疲れましたので向かいの屋根を見て目を休めていました。何気なく片目ずつで見ると、右目は普通に見えましたが、左目は屋根の上の直線が波打って見えました。その内に治るだろうとそのままにしていました。
63歳の秋、中日新聞に「ゆがんで見えたら要注意、加齢黄斑変性症」という記事があり、早期発見して治療しないと失明する恐れあり」と書かれていました。左目のゆがみは続いていましたので、読んでいて怖くなり近くのN総合病院の眼科に受診しました。
診察の時、先生に「新聞を読んできました。心配です」と申しました。検査後、先生は「大抵の方は心配ありませんが、あなたの場合はおっしゃるとおりです。」と言われ、「はあ~」でした。病気でないことを願って、6か月ごとの経過観察ということになりました。
N総合病院は、私の家から歩いて10分のところにあります。初診の時より診察してくださいます眼科医O先生が加齢黄斑変性症の専門医であることが診ていただいている内に分かり、大安心でした。また幸運でした。
O先生は2009年(平成21年)3月末に総合病院を離れられ、新しく「O眼科」を開院されました。以来、総合病院に眼科はなくなりました。私の家から「O眼科」まで5km程ありますが、先生のもとに通院しています。晴天の日は自転車、雨の日はタクシーです。
70歳の秋、右目もゆがみが出て発症しました。左目だけで済むようにと願っていましたので泣きました。
最初に発症した左目はメガネをかけての視力が0.5まで低下した時もありますが、経過観察だけで少々ゆがみがあるものの1.0の視力を保って落ち着いています。右目は発症してから4年間は経過観察でしたが、急に進行して74歳の1月ルセンティスの注射治療を受けました。「めだま」に注射やなんて、かなわんなあでしたが、注射前のまぶたを広げる時や、消毒、麻酔の処置が少々苦痛なだけで、注射は痛みもなく一瞬で終わりました。注射後目がくしゃくしゃとして不快でした。ゆがみと乱視がひどく出て視力も低下しましたが、次第に回復してメガネをかけて1.0~1.2の視力になり良好な状態が続きました。しかし、1年10カ月後悪くなって75歳の10月2回目の注射を受けました。
現在は1カ月ごとに注射をするかしないかの診察を受けています。
私の目のために的確な診断と診察をして下さいます先生とお世話くださいます看護師さん、スタッフの方々に感謝申し上げます。
目の病気になってから新聞や健康雑誌で加齢黄斑変性症の記事が多く目につきました。それらの記事を参考に食べ物に気を付けドラッグストアSWサプリメントを買って飲みました。今は受診している眼科で「オキュバイト」を購入出来てありがたいです。
叉、外に出る時はかならず帽子をかぶり、うす茶色のUVカットのメガネをかけています。テレビをみるのも読書も程々にして少しでも症状が悪くならないように気を付けて毎日を送っています。
01/05/2017
名前 堀部 和子
加齢黄斑変性の型: 萎縮型
発症時期: 2005年 月 (59歳)
題名: それでも働いています
私は子供の頃から目が不自由でした。弱視で、小学校の時は左目が0.6、右目が0.5で、中学校に上っても変わりませんでした。眼鏡をかけてもよく見えるということはありませんでした。
19歳の時、悪性貧血という病気になり、先生から他の人とは異なる網膜であるといわれました。24歳で結婚し子供が一人生まれました。
30歳になった時のことです。右目と左目を代わる代わる見ると、右目の方が何を見てもクニャーと歪んで見えました。
家の近くに住んでいた大学病院の先生に相談したところ、検査の器械がある先生の大学病院で診察を受けることになりました。
先生は「家で小鳥を飼っているか、小鳥から病気をうつされたのではないか。トキソプラズマではないか。どうしようもできない。手術はできない。失明するかもしれない。左目を大事にしなさい」というばかりで、何の治療もしてくれませんでした。
11年前、左目の右下に丸いものが張り付いた感じになりました。その頃、大学病院の先生は難波で開業していました。「眼底も傷んでいる、治らない」ということでした。
別の眼科へ行きました。真ん中が見にくいというと、新生血管が出ているということで萎縮型と言われました。アバスティンという注射を2回受けました。少し見えるようになりました。
地下鉄に乗ると前の人が良く見えません。夜暗くなると見えないのでライトを持って歩きます。テレビも白黒の見分けがはっきりした画面は見えますが、同じ色の系統は区別がつきません。
そのような状態ですから障害者認定を受けました。
そのお蔭で医療費は500円です。また街に出る時は、ガイドヘルパーさんが付き添ってくれます。骨を折って寝たきりにならないよう、特に段差に気を付けています。体には気を付けています。
目が不自由だからといって家にこもってばかりいるわけではありません。先生が「家でじっとしていたら病状が進む、皆とコミュニケーションして脳を働かすことが大事だ、そうすれば体も元気になる」と言われました。
先生の紹介で、週に3回ですが、それぞれ2時間ほど掃除の仕事をしています。毎日何か用を作り、出かけるようにしています。
主人に先立たれましたが、子供と一緒に暮らしています。洗濯もしてくれますので、寂しい思いをすることはありません。ときには、ヘルパーさんに付き添ってもらって、旅行もしたいです。(高田口述筆記)
12/27/2016
名前 福本 静子
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2000年1月(69歳)
朝、テレビを見ながら何となく、片方の目をおさえた時、テレビに映ったアナウンサーの目がオタマジャクシの様な形に見えびっくり、左目に異常を感じて直ぐに眼科を受診しました。
先生は診療用のテレビに映った私の目の映像を、これは黄斑変性という病気で、私のところでは無理なのでと、大きな病院を紹介してくださって今に至っております。
あらゆる治療をし続けて安定している時があって、そんなに不自由を感じて来なかったような記憶しかなかったのですが、この半年、左目を抑えたり、片目をつぶって本を読んだりと、たいへん気分が悪い状態が続いています。
病院は月に一度くらいの割で受診しています。その都度、診察の結果は悪くないです、異常は感じられませんと先生はおっしゃるのですけど、注射はして貰った方がいいのではないでしょうかと、先生に言いましたら(私は今まで23本の注射をしています)これ以上続けても良くなる事はありません、無駄と言われました。
私は筋肉が衰えないように、毎日5000歩位、成るべく歩くようにしています。でも左目が邪魔をするのか宙を歩いているように歩き難いことが良くあります。
成るべく本を読む回数を減らしたり、テレビを見過ぎない様にとか、目を休ませるように努力してiPS細胞のお薬か手術を待つ希望を持って元気に過ごしたいと思っております。
12/15/2016
名前 左近 三郎(さこん さぶろう)
加齢黄斑変性の型 : 惨出型
発症時期:2009年12月 (84歳頃)
2009年12月に、右眼で窓枠などを見ると曲がって見えるので受診したところ、異常はないとのこと。その後、2010年5月に別の医師に診てもらったところ、受診検査(蛍光眼底造影など)の結果、黄班変性と言われ、治療の方法はなく、いずれ左眼もなる可能性があると言われました。
この時に病名をはじめて知り大変ショックでした。その後左眼の視力が1.2であまり不自由を感じませんでしたが、2012年12月に異常を感じ、診察の結果兆候があらわれてきました。
医師より進行を遅らすための手術(注射)の是非を問われ、いろいろと悩んだ末、2013年1月、2月、3月、6月と計4回注射をしましたが、視力が段々と落ち現在は右眼が0.05、左眼が0.06です。
日常ではルーペに頼る生活で、10倍位を使用すると範囲が狭いので、5倍を2つ重ねて見ています。 特に透明の物が見にくく、遠近感にも悩まされます。
一人暮らしの為、何事も工夫し、努力して頑張って参りたいと思います。
名前 力石 啓二
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2013年11月(64歳)
題名: 加齢黄斑変性を発症して
平成25年(2013年)10月頃、健康番組を見ていた時、今まで聞いたこともない加齢黄斑変性と言う、目の病気のことを知りました。片目ずつ格子状の物を見ると歪んで見えるとのこと。実際やってみると、右目が少し歪んで見えました。半信半疑のまま、インターネットで調査して職場に近い、今通院している眼科に行きました。やはり加齢黄斑変性でした。私の場合、中心窩の近くに変性部がありました。
眼内に薬剤を注射することになりました。点眼麻酔で注射をするので、痛みはまったくありませんでした。
それと同時に、最悪の場合は失明するとのこと。進行性の病気の為、定期的な眼内注射が必要。薬剤が3割負担でも5万円と非常に高額となる。中高年で80人に一人発症している。今、全体的に発症が増えていることなどを知り、最初は非常にショックを受けました。
薬剤はルセンティスを4回、アイリーアを5回注射して現在に至っています。最初の検査時は悪い右目の視力が0.6~0.7、良い左目が0.7でした。現在は悪い右目が1.0で、少し歪みがあります。良い左目は1.2です。4カ月に1回注射をしています。
医者の奨めもあり参天製薬のサンテルタックス20+DHA(ルティン.DHA.ゼアキサンチン)が入っているサプリメントと亜鉛、ビタミン剤、ブルーベリーを飲んでいます。サプリメントの効果で視力が改善していると感じています。
この病気の友の会に入り、体験談や定期的に病気の新しい治療法などの情報をもらい精神的に励まされています。
私の場合、運良く発見が早かった為、日常生活は何も不自由はありません。毎日チェックシート(アムスラーチャート)で片目ずつ見え方をチェックしています。今後iPS細胞などの治療が早く進むように、期待しています。
12/09/2016
名前 Sさん (匿名希望)
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 1990年頃(55歳頃)
題名: 「eyeアイ」には愛を
前略御免、今から約30年ぐらい前に左眼に違和感が生じ、格子の桟が歪んで見えたり、中心がぼやけて見えたりしたので眼科に行く。Dr曰く。「ストレスのせいかも?」
当時巷では「加齢黄斑変性」という病名すら聞いたことが無かったので、やはり「ストレス」のせいかと思い込んでいたが・・・
それからのちも定期的に受け乍ら現在に至っている。
何度か注射もしたり、ある時は真っ暗闇の部屋に入れられ2日過ごしたこともあった。
それから通院しているが、どのDrも「可もなく不可も無い」程度の診察が続いている。現に段々悪化しているのは確かで左眼0.01右眼も1.0だったのがいつの間にか0.5になって白内障の兆しが見えているとのこと。
何のために通院しているのか?。。。
長時間待合室で待つのも苦痛だのに。。。
病院に入って逆に疲れて帰る様な現況です。
山中先生のIPSの件も進行して何人かの患者さんが我々同病の仲間の為に頑張って下さっているのは心強く感じます。一日も早くその恩恵を頂きたいと思っております。
我々世代のあとには団塊の世代の多くの人達がおられるので一日でも早く成功することを只々祈るばかりです。
そして友の会のお世話をされている方々には大変ご苦労様ですが、何とか頑張って頂き沢山の後輩たち光が当たります様に。。。
何卒網膜の難病克服に高田代表様以下ご一同様の更なるご活躍をご祈念申し上げます。
祈。フレーフレー「関西黄斑変性友の会」と「我が阪神タイガース」
敬具
名前 国友 征子
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期: 2012年1月(71歳)
題名: 治療経過
① 2007年頃から白内障の検査と目薬をもらいに眼科に行ったが、何も言われなかった。
② 2012年、黒目に水がたまった様に重たくなったので病院を変えて診てもらったら、滲出型加齢黄斑変性と診断された。
③ 2012年2月、3月、4月とルセンティス注射開始。2013年は発生しなかった。
④ 2014年、注射はアイリーアに変わり1月4月9月と3回、6月に白内障の手術をした。
⑤ 2015年アイリーア注射2月6月9月11月4回、大学病院を紹介され、12月ビスダイン療法(光線力学的療法)をしてもらったが、1ヶ月程目がかすんでいた。
⑥ 2016年、2月7月10月アイリーア注射をした。発生してから13回ルセンティスとアイリーアを注射、ビスダイン療法1回、計14回です。毎月検査に行っています。今のところ左目には発生していませんが、戦々恐々です。
⑦ 保険も網膜硝子体注射と診断書に書かれたら、打ち切られたのでショックを受けています。 皆様の体験談を読ませてもらって共感しております。
11/18/2016
名前 木下 富夫
加齢黄班変性の型: 不明
発症時期 : 平成25年12月 (86歳)
題名: 病院選びに苦労
3年前だったでしょう。12月にビルの長い屋根の左端がゆがんで見えた。翌日すぐに病院に行った。この地方だけでなく全国にも名の通った循環器専門病院内の眼科(女医一人)である。眼底写真を何枚も取りながら病名をいわない。来月何日においでと予約をする医師の方から予約日を決める。
2度行っても病名はいわない。それで治るのですかと聞いたら最後に手術をすればねという。毎月一回予約の日に行くのだが病状が次第に悪くゆがみが中央へ及んでくる。何ヶ月か経ったとき、女医は O病院で診てもらって来いという。
紹介状を教授に渡して診てもらった。病名はいわない。主治医に連絡しておくからというだけ。そして元の病院へいくと、やっぱり病名も治療法もいわない。O病院から連絡を受けていないのだろうか。
ゆがみが中央へ寄ってくるが1.0はみえていたから、さほど深刻には思っていなかった。一年ほど経った頃、ドッサっと視力が落ちた。ほとんど見えない。予約日ではないが病院へかけつけた。そしたらこの病院の眼科では手術ができないから他の病院へいけという。人をバカにするな。それなら初診のときに云え。1ケ年何一つ治療してくれてなく写真を撮っただけではないかとムカムカした。
止むなく、紹介状をもらって直ぐにTK医院へいった。夫婦二人が眼科医でご主人の院長が診てくれた。すぐに加齢黄斑変性症といわれた。1ヶ月毎月診ていて病名のつかない医者、黄斑変性と診断できないO病院の先生。腹が立ってしょうがない。
TK医院で眼内注射を始めた。そして9ヶ月ほどの注射で0.7まで回復し、車にも乗れるようになった。
しかし今年4月1日のこと、眼底写真を見た奥さん先生は、眼底がきれいになっているから注射はしなくてよいだろうという。少し寂しい感じがしたが、治療を受けずに帰宅、そしたら1ヶ月後の4月末日に見えなくなった。
医師に電話をしたが連休で外国旅行に出かけて留守。連休あけにかけつけると眼内注射をしてくれたがさっぱりである。視力は0.2~0.3だった。6ヶ月経った今も医院の測定で0.3である。自宅の視力表では0.5~0.6位はみえているが人や車を見るのが見えにくい。
少し暗くなると外出はできない。
毎日毎日、神たのみで0.7みえるようにと祈っています。今後共よろしくお願いします。
名前 髙田 忍
加齢黄斑変性の型: 滲出型
発症時期:2014年8月(73歳)
題名: 早期発見、早期治療のお蔭
二年前の早朝、いつものようにパソコンに向かうと右枠が歪んで見えた。幸運だったのは、その二日後に人間ドックの予約を入れていたことだ。異常を訴えると、翌週再検査することになった。 人間ドックを終えて、車を運転した所、車線が二重に見え危険を感じたので運転を控えることにした。
翌週病院を訪れ検査を受けると、医師は加齢黄斑変性とつげ、その日のうちに抗VEGF薬の硝子体内注射を受けた。 以後、以後一か月ごとに三回注射をするという。 注射をしたからといって直ちに効果が出るものではない。 暫くは悪化した。パソコンの文字が見えにくくなり、ルーペの助けを借りた。車の運転ができないから、外出しないわけにもいかない。バスに乗ると、外の電柱が歪み、駅の階段が波打って見える。手すりに捉まり降りた。
一カ月後二回目の注射をし、歪みも減ったので名神高速を西宮から大津まで走った。 ところが、途中の天王山トンネルに入ると真っ暗になり、後ろの車を心配しながら速度を落とさざるを得なかった。 そこで患者会で知った星野さんに相談し、斜視矯正用の眼鏡を作ってもらい、サングラスもかけるようにした。
3回目の注射の後は、八カ月後に一回注射しただけである。 眼の状態も。 安定し定期検診もこれまで3カ月おきから4カ月になった。陽の当たる部屋の障子はゆがんで見えるが、トンネル内も明るくなり運転は楽になった。 診察の都度、医師からもらう断層写真からも良くなっていることがわかる。
しかし、それでも不安はある。新聞等には枕詞のように「失明の怖れがある」という言葉が付く。 それならば、見える内に綺麗な物やめずらしいものを見ておこうと決め、春には桜、秋には紅葉を見に出かけることにしている。
目の病気に限らないが、体に異変を感じたら直ぐに専門医に診てもらい治療を受けることが大切であると感じた。
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