目盛入りワイングラスと枡酒文化

目盛入りワイングラスと枡酒文化

「お爺さんも昼寝」

 1990年代の終わり、定年まで残り二年という年にドイツのフランクフルトに転勤した。ドイツでの生活を楽しもうと庭付きの家を借りることにした。日本のように、隣家との間に高い塀はなく、隣の庭に咲く花も楽しむことが出来た。

(地上三階、地下一階の庭付きの家)

(地上三階、地下一階の庭付きの家)

 

 この家を紹介してくれた不動産業者のNさんは、元大関琴欧州をスカウトし、佐渡ヶ嶽部屋に入門させた人でもある。

 Nさんは、午後1時から2時の間は庭の芝刈りが法律で禁じられていると注意してくれた。その理由を尋ねると「お婆さんが昼寝をするからだ」という。半信半疑で、レッスンを受けていたドイツ語の先生に聞くと「あなたの理解は半分だけ正しい。お爺さんも昼寝をする。」との答えであった。国の法律か、地方自治体の条例によって、大きな音を出す芝刈り機によって安眠を妨げることのないよう、昼寝の時間を保護していることに驚いた。

近隣同士のお互いの思いやりで話し合いで解決できる問題ではないか。なぜ身近な生活上の問題に、公の機関が介入するのか疑問であった。

 

「出張手当」

 ドイツで暮らしを始めると、日本では考えられない色々な規則に出会った。その一つが出張の日当である。日本であれば各企業が自由に決めている出張手当は、ドイツでは所得税法で一律に決められている。ホテルでの宿泊費は実費請求できるが、食事代は朝食、昼食、夕食別に出張先の都市ごとに細かく決まっていた。規定以上の食事代の支給は所得とみなされ課税対象になる。日本であれば支給される出張手当をどのように使っても会社から干渉されることはない。安いホテルに泊まって、呑み代に充てる。サラリーマン時代のささやかな楽しみの一つであった。

 

「法律の陰で」

 ドイツの人々は法律をよく守る。横断歩道では、車は停止してくれる。駅にゴミは落ちていない。紙屑を落とす人を見かけると注意して拾わせる。電車の中でヘッドフォンから音が漏れると注意する。お互いに注意しあって暮らしているようだった。しかし、人が見ていないところでは法律を守らない。町の中に落書きが多いのはこのためではないか。規則、規則の生活に反抗している姿ではないかと思った。

 

落書き

落書き

「メモリ入りワイングラス」

 もっと驚いたことは、ワインやビールのグラスに目盛り線が入っていることだった。これは度量衡法で決められているという。店が営業としてワインやビールを客に提供するときは、このようなグラスで出す必要がある。目盛り線に達していなければ、客は店に要求できる。客との間で多い少ないでもめないための工夫かも知れない。しかし、目盛り線の入ったグラスでワインを飲んだが、美味しいという感じはしなかった。

(チェコ・プラハのレストランで) 

(チェコ・プラハのレストランで)

 

(京都、四条烏丸の居酒屋で)

(京都、四条烏丸の居酒屋で)

 

 

 これに比べると、日本はおおらかだ。居酒屋で枡酒を注文すると、グラスから溢れ出た酒を枡で受ける。酒ファンにとってはささやかな楽しみの一つである。ヨーロッパに比べると、どこか温かみのある文化のように思う。

 

 この目盛入りグラスは最近ではEU各国で見られるようになった。写真上は2014年春チェコのプラハで撮影したものである。2月に訪れたキプロス島でも線が入っていた。ドイツの基準がEU全体の基準になったようだ。英国がEUから離脱した理由の一つにEUの官僚主義指摘されている。 このような生活の隅々まで規則や法律で規制するあり方に失望したのではないかと思う。     (高田 忍)

のぶなが

のぶなが

 「のぶなが」の名を知ったのは小学校入学前、生家の囲炉裏端であった。生家は琵琶湖西岸の若狭に至る街道沿いにあった。正面には伊吹山が聳え、背後には比良山系の山が迫っていた。村の人々の多くは、その間の狭い土地に米を作って暮らしていた。信長を語ったのは明治20年生まれの祖母である。その昔、酷いことをしたという。しかし、「酷い」内容までは語らなかった。

雪を被った伊吹山(琵琶湖西岸から撮影)

(雪を被った伊吹山(琵琶湖西岸から撮影)

 

 

 

 それから半世紀がたち、定年を迎えた。このことが気になり、郷土の古文書研究家に何か記録が残っていないかと尋ねたが、参考になる様な事は聞けなかった。

 その後、信長の側近太田牛一が書いた「信長公記」の存在を知った。それによると、元亀3年(1572年)7月26日、「信長公御下り、直ちに江州高島表、彼の大船を以て御参陣。(中略)高島の浅井下野、同備前、彼等進退の知行所へ御馬を寄せられ、林与次左衛門所に至って御居陣なさる。当表、悉く御放火。」と記されている。

(信長に焼き討ちされた田畑や小さな村。右上に浮かぶ島の向こうに安土がある。)

(信長に焼き討ちされた田畑や小さな村。右上に浮かぶ島の向こうに安土がある。)

 

 

 当時、天下統一を目指していた信長は、1570年、姉川の戦いで近江の浅井長政、越前の朝倉義景連合軍を破り、その翌年には比叡山を焼き討ちした。さらに、その後も琵琶湖西岸の高島を支配し続けていた浅井にとどめをさすために火をつけたと思われる。

 

 中世の歴史の研究家によると、火をつけた対象は家屋だけでなく、田畑も焼いたという。7月26日は旧暦で、新暦では8月も終わりの頃になる。収穫間近の米を焼きはらったに違いない。この信長の残虐行為は人々の口から口へと400年もの間、語り継がれてきたのだ。隣国の大統領が歴史と外交を関連させる姿勢には賛同しかねるが、「この恨みは千年経っても消えない」と発言したことは理解できないわけではない。

 比叡山の焼き討ちは歴史の教科書にも載っているが、小さな村の出来事までは記録されない。しかも火をつけた行為を「御放火」と尊敬語で表現されるのを読むと、何か違和感を覚える。

 一昨年の三月、滋賀県の歴史研究会の催しで、信長が陣を構えたという打下城に上る催しに参加した。60年前に、母と柴刈りに上った所である。その間に、人々の暮らしは大きく変わり、柴はプロパンガスに置き換わった。人が入らなくなった山は、倒木で山道が塞がれ荒れ放題であった。

信長が火を放つために陣を構えた打下城跡(当時の山城は、下からの攻撃を避けるため樹木は全て伐採されていた)

信長が火を放つために陣を構えた打下城跡(当時の山城は、下からの攻撃を避けるため樹木は全て伐採されていた)