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日本シリーズ第3戦観戦記

日本シリーズ第3戦観戦記

10月31日、阪神甲子園球場で2023年度日本シリーズ第3戦が開催され、一塁側内野席で観戦した。相手チームはオリックスで59年ぶりの関西勢同士の対決とあって、球場には多くの観客が押し寄せた。

試合開始前に、グランド整備が阪神園芸という会社によって行われる。

開始前に、両チームの選手の紹介が行われる。阪神は1塁側、オリックスは3塁側に全員が整列する。チアガールやマスコットキャラクターも出てきて、一種のショーでもある。

センターのスコアボードに日本シリーズ2023と映し出された。試合開始に先立ち、選手及び観客は起立して国歌を斉唱した。

いよいよ、午後6時に試合開始。阪神が先制点を入れた。

午後7時頃、球場の上に月が上った。クレーターがハッキリと見える。

多くの阪神ファンの声援にもかかわらず、4-5で逆転負けした。写真は1塁側外野席。

大相撲大津場所観戦記

大相撲大津場所観戦記

髙田忍

大相撲の地方巡業、大津場所が10月18日開催された。写真を交えて、相撲について知るところをまとめた。

 

会場の呼び方

会場の北側が正面、その反対側を向こう正面という。正面から見て右が西、左を西という。写真は正面から向こう正面を写したもの。

 

髷結い

十両以上の力士はいわゆる丁髷(ちょんまげ)を結っている。写真は正代関が髪を結ってもらっているところ。

 

相撲甚句(すもうじんく)

相撲甚句とは、邦楽の一種。大相撲の巡業などで披露される七五調の囃子歌である。本場所では行われない。

 

綱締め

  横綱照ノ富士に綱を締めているところ。数人の若手力士が綱を締めていた。

 

土俵入りと化粧まわし

  幕内の力士が、化粧まわしをつけて、お披露目をする儀式。

  思い思いの漢字を入れていることが多い。先ずは東から、次に西からのじゅんである。自分の名前と同じ文字が入っているのを見て思わずシャッターを切った。

 

 横綱土俵入り

  今年は膝の故障で休場の多い横綱照ノ富士だが大津場所には登場して、土俵入りを見せてくれた。不知火型と雲竜型がある。照ノ富士は不知火型。横綱の土俵入りには太刀持ちと露払いが先導する。

呼び出しと行司

   取り組みの前に呼び出しが独特の節をつけて対戦する力士の名前を読み上げる。

 

    行司には、格がある。幕下などの身分の低い行司は裸足である。最高位は紫の装束を身に着ける。

 

木村庄之助

木村庄之助

 

取り組み

 取り組みにはスポンサーが懸賞金をかける。左端の黄色にスポンサー名が入り、観客に披露する。懸賞金は3万円と聞いたことがある。本場所では、勝敗を気にして、立ち合いに変化してはたきこみなどの手抜きをする力士が偶にいるが、大津場所ではすべての取り組みに懸賞金が2~3本かかっていたので、真剣勝負が多かった。

 

三役そろい踏み

   取り組みの最後三番に対戦する力士が東と西に分かれて披露される。本場所では、千秋楽(15日目)に行われる。

弓取式

   全ての勝負が終わると弓取式という儀式が行われる。

弓取式

会場を後にする観客に対して、感謝の気持ちを込めた太鼓が打ち鳴らされる。本場所では櫓から太鼓がたたかれる。

 

たまり席

 観戦した席は、土俵下のたまり席からであった。決 して楽ではなかった。場所が狭く、足を延ばしたり畳んだりする。前の人の帽子や頭が邪魔になって勝負が良く見えない。

相撲を見るのはテレビが一番である。とはいえ、力士が手抜きをせず、真剣に勝負を挑むときは迫力がある。

イタリアの絶景を見る旅

イタリアの絶景を見る旅

9月23日から30日まで、イタリア北部の山岳地帯を巡るツアーに参加した。フィンランドのヘルシンキ経由のため、移動に3日かかかり、実質は5日間の旅であった。

24日 マッターホルン

スイスとイタリアの国境にそびえる山である。標高4478メートル。湖に写る山の景色が絵になった。

25日 モンブラン

フランスとイタリアの国境にあるヨーロッパ最高峰。白い山という意味である。360度回転するロープウェイに乗り、エルブロンネ展望台から見た景色は良かった。

25日午後 コモ湖

コモ湖はロンバルディア州にある湖。小型船で約一時間遊覧した。湖畔には、世界の著名人の別荘がある。中には、湖畔に降りるのにエレベーターやエスカレーターを備えた別荘もある。

26日 小さな村

小さな村の教会の散策が目的だったが、坂道のため参加はせず、遠くから写真に収めた。村からドロミテが見える

27日 ドロミテ山地

3000メートル級の山々が連なる世界遺産である。

ミズリーナ湖

28日 コルティナ

冬季オリンピックの開催で知られる街である。小さな町から見える山の光景も素晴らしい。

シルミオーネ

ホテル

旅行会社の予約にもよるかもしれないが、バスタブがなくシャワーだけのホテルが二つあった。カードキーが不具合のため、鍵で開けてもらったのが二か所。

アメリカ式のビジネスホテル風やイタリアの伝統的なホテルがあった。その中で快適に過ごせたのが一か所あった。

イタリア料理

イタリア料理は、最初にパスタなど麺類が出て、次にメインディッシュが出てくる。肉類や魚料理である。最後のデザートだけが美味しかった。

不愉快なことも

イタリア北部の景色は楽しむことが出来たが、決して良い面ばかりではない。スリが多いので緊張の連続であった。20数年前、ローマでは店の店員やタクシーの運転手からすり取られた。
今回は有料トイレで不愉快な思いをした。有料なのにトイレットペーパはなく、驚くことに和式トイレであった。

交通システム

ヨーロッパには三つのパターンの交通システムがある。車も鉄道も左側がイギリス式で、日本は明治時代に鉄道技術をイギリスから学んだ。その反対に、いずれも右側通行がドイツ、オーストリア。その中間がある。車は右側、鉄道は左側、フランスやイタリアである。
イタリアであおり運転かと思われるほど車間を詰めて走る。バスの一番前の席では冷や冷やする。昼間でもライトをつけることが規則のようだ。急な追い越しも多い。車線をまたいで走る車もある。

全般を通じて

イタリアには直行便がない。かつてはアリタリア航空があったが経営破綻した。そのため、今回はフィンランド航空でヘルシンキ経由となった。ロシア上空を飛ぶことが出来ず、行きは北極海上空宇、帰りは南下し中央アジアの上を飛び南回りであった。そのため、大阪ヘルシンキ間は約13時間の長旅である。海外旅行には体力も必要である。


会社員時代、1986年から1992年の6年間でアメリカやヨーロッパへ24回出張した。帰国後、翌日から出勤したことを思い出し、体力の衰えを感じるツアーであった。

社会見学会 日本銀行と中央公会堂

社会見学会 日本銀行と中央公会堂

 活動の初めての試みとして、6月27日に社会見学を行った見学先は日本銀行大阪支店と大阪市中央公会堂であった。どちらも歴史的建造物であることに共通点がある。

日本銀行大阪支店

 日本銀行は「発券銀行、銀行の銀行、政府の銀行」と役割の説明を受けた後、新館の営業室に案内された。営業室は広い部屋に柱が一本もなく、多くの職員の方が、都市銀行から持ち込まれるお札の確認などをしていた。
 続いて、休館の階段室、記念室と資料室に案内された。資料室では、偽造防止技術の説明を受けた。体験コーナーでは1億円の模擬券、10Kgを持ち上げた。
 最後に、来年生まれ変わる日本銀行券を見せていただいた。
 興味深い1時間であった。

天井と床の模様

日銀 天井の模様

日銀 天井の模様

日銀 床の模様

日銀 床の模様

記念室と階段室

記念室

記念室

階段室

階段室

大阪市中央公会堂

 春と秋の定例会の会場としている大阪市中央公会堂の展示室を見学した。
 中央公会堂は、大阪北浜の株式仲買人岩本栄之助氏の寄付金によって大正時代に建てられた。国指定の重要文化財である。
3階には、天井画などがある特別室が残されている。

見学後、公会堂内のレストランで昼食をいただきながら懇談した。
大阪市中央公会堂内レストランで昼食

大阪市中央公会堂内レストランで昼食

友の会と共に歩んだ7年

友の会と共に歩んだ7年

NPO法人黄斑変性友の会
代表世話人 髙田 忍

はじめに
 NPO法人黄斑変性友の会の前身、関西黄斑変性友の会が2015年10月に発足してから、今年で丸七年が過ぎた。私自身の治療経過と友の会とのかかわりに触れながら、この七年の歩みを振り返ってみることにした。

異変に気付いたきっかけ
 2014年8月27日、早朝パソコンの電源を入れると、画面の右枠が歪んで見えた。幸運だったのは、二日後の29日に人間ドックの予約を入れていたことだ。眼科診察室の入り口に掲げられた医師の名前のアクリル板も歪んで見えた。若い女性医師田中先生に異変を告げると、翌週水曜日に検査をすることになった。

 検査までの間、週末に車を運転した時、中央の車線が歪んで見えたので、即刻運転を中止した。バスに乗ると、窓から見える電柱も歪んで見えた。

 病院は大阪中之島にある住友病院である。住友グループの会社に勤務していたので、40歳以降、定年後も毎年夏の終わりに、住友病院の人間ドックで検診を受けていた。その当時の眼科部長は五味文先生である。現在は兵庫医科大学の眼科部長をしておられる。

診断されるまでの受診の状況
 翌週水曜日、発症から1週間の9月3日、造影剤を入れた眼底検査や光干渉断層計の写真が撮られた。その結果、病名が加齢黄斑変性であると告げられ、その日のうちに注射治療を受けた。今まで白内障や緑内障の病名は知っていたが、加齢黄斑変性は初めて知る病名であった。

 その日から10日ほどたったころ、神戸理化学研究所がiPS細胞の臨床研究を始めたとのニュースに接し、興味を抱き期待もした。それに先立つ2010年、妻が骨髄異形成症候群という血液の難病にかかり、病床で読んだ新聞でiPS細胞から血小板を作る研究が東大医科学研究所で進められていることを知り、医学研究目的で寄付をしてきたからである。

治療・症状の経過と出会い
 発症した2014年には、定められた通り一か月おきに計3回の注射治療を受けた。3回目の注射のあと、歪みはなくなり、車の運転を再開した。翌年の注射は1回であった。このころ、治療薬はアイリーアであることを知った。

 住友病院の掲示板に貼られた患者会の集いのポスターが目に留まった。世話役は東京の会を主宰していた女性Kさんである。2~3回参加するうちに、関西にも患者会を作るので代表世話人を引きうけないかと打診され、さらに要請を受けた。躊躇することなく承諾した。

 妻の病気を通じて、患者会の存在意義を理解していたからである。妻は2010年、血液の難病骨髄異形性症候群を発症し闘病生活を続けていた。その患者会で、母親が患者という女性と巡り合った。

 名古屋の病院へセカンドオピニオンを聞きに行った際、名古屋城近くの喫茶店で会った。その時の言葉が深く胸に刻まれていた。「この病気は治りません。生きているうちに楽しい思いをさせてあげて。私は母と温泉に行きました」。

 医師から聞くことのできない患者ならではの言葉であった。神戸の病院に通院しているとき、診察が早く終わるときはスーパーに立ち寄り買い物をし、遅いときはホテルで神戸の夜景を見ながらフランス料理を食べたこともある。その効果が次第に現れたように思う。

 医師から「一年後の生存率20%」と、余命宣告された時は、不安と恐怖から半狂乱の精神状態に陥った妻が、心穏やかになり「貴方、まだ若いから再婚してもいいわよ」とまで言うようになった。それから数日後、急に体力が衰えていった。手を握ると弱弱しく握り返してきた。それが最期であった。

iPS細胞に望みを抱いて
 妻は、子供が中学校へ通い始めた頃から、スーパーを皮切りに働くようになった。働いて得た給料は銀行に預金をしていた。これを相続することになった。生前の妻の意思を考えて、医学研究目的で東京大学と京都大学に寄付することに決心した。老後の生活資金に充てるよりも、社会貢献ができる。相続税として、国に納付すると、使途が定まらない。
 東京大学からは、毎年感謝の集に招かれ、著名な学者の講演を聞くことができた。京都大学iPS細胞研究所山中教授との記念写真も撮影した。ノーベル賞を受賞される前のことである。東京大学の安田講堂と京都大学時計台には、他の多くの寄付者と並んで、銘板に二人の名前が刻まれている。

 それから10年が経過した。加齢黄斑変性の臨床研究は進んでいるようだが、実用化の日は明確にはなっていない。過大な期待は抱かないようにしている。

友の会を託されて
 東京の世話役Kさんからの要請にこたえて、友の会の代表世話人を引きうけた。妻の病気を通して知った患者ならではの体験がある。その情報を患者同士が共有することの必要性を感じていたからである。もっとも、人生七十歳を過ぎると働く場所は限られてくる。定年後数年の間、臨時講師をした大学の仕事をしたが、打ち切られていた。自分を活かすことができるのは病気を通して他にないと思ったことも、もう一つの動機であった。

 2015年10月、関西を中心に20数名で発足した。最初の会合は住友病院15階にある講堂で開催した。五味文先生から病気に関する基本的な話をしていただいた。

集合写真

その後の治療経過、黄斑下出血発症
 2016年には注射は一度も受けなかった。ところが、2017年になると注射回数が5回に増えた。治療費も高い。2018年5月ころ、病院で検査を受けたとき、医師にどのようなサプリメントがよいかと尋ねた。それまでは、人工的なものは極力体内に入れず、自然の食品を摂取するという考えでいた。医師が勧めたのは、ボシュロム社のオキュバイト50+である。服用を始めてから、注射の回数は年1回程度に収まっている。左目を閉じ、右目だけで見ると中央部がかすんで見える。最近は白内障が進行中である。

 今年6月黄斑下出血を発症し、1週間の入院治療を受けた。眼内にガスを注射する治療である。ガスは軽い。出血している目の奥にガスを行きわたらせるためには、うつぶせになる必要がある。退院後も1週間はこの姿勢を取り続けた。昼夜を問わずのうつぶせの生活は難行苦行であった。一か月もすると、ガスは消え、目から霞が消えた。

 幸いなことに、左目は問題ない。左目が発症しないよう、予防のためサプリメントの服用を続けている。一昨年、NHK「チョイス」から取材を受けた際、サプリメントのサンプルを示して、予防効果があると説明した。現在も左目に異常はない。車の運転もできる状態である。早期発見早期治療のおかげであると思う。

診断時に知りたかったこと
 多くの説明書には、加齢黄斑変性という言葉の前に枕詞のように「失明の怖れ」をつける。マスメディアが不安を増幅させる役割を果たしているように思う。例えば、iPS細胞の臨床研究を伝える記事にも、必ずこの言葉が修飾語になる。実際に失明するのか。失明とはどのような状態をいうのか。真っ暗闇の世界なのか。

 失明するのであれば、見えるうちに美しいものを見ておこう。開き直りである。「春は桜、秋には紅葉」のキャッチフレーズで旅行の回数を増やしたことがある。日本全国だけでなく、世界各地を旅行した。

 旅をすると不思議な出会いがある。2018年春、西洋文明を日本に伝えた国、ポルトガルに旅行した時のことである。3日目、13世紀にできたコインブラ大学を見学した後、ホテルにチェックインしようとした時、後ろから名前を呼ぶ女性がいた。三つのヒントになるキーワードを言われたが、すぐには思い出せなかった。毎年、年賀状の交換をしている間柄であるにもかかわらずであった。翌朝、その6年前に若狭へのバス旅行で隣の席に座った女性医師、Kさんであることをようやく思い出した。

 妻が亡くなって間もないころで、寂しさを紛らわすため、一日バス旅行に参加していた時のことである。京都駅から出発間際に乗り込んできて、隣同士で座り、昔なじみのように話が弾んだ。

 最近廃院された。医師会の会計監査の役をされていたことを知り、友の会の監事として陰ながら支えていただいている。

これから治療を受ける方に伝えたいこと
 早期発見早期治療がいかに重要であるかである。目に限らず、体に異変を感じたら、放置せずに専門の医師の診察を受けることである。滲出型の治療法は現在のところ、抗VEGF薬の注射以外にはない。目に注射と聞くと不安を覚えるが、その必要はない。麻酔もするので痛みはなく、一瞬のうちに終わる。

 注射に不安を覚える全国の患者に安心感を与えるため、住友病院の医師に依頼し、手術の手順を撮影した。写真をホームページに掲載したところ、これまで多数の方が閲覧している。

 このホームページを維持し、管理してくれているのは、大阪市内でメガネ店を営む星野さんである。時には、店の営業より、会の活動を優先されることがある。もちろん無償である。頭が下がるばかりである。

 最近は、ノバルティス社のベオビュ、中外製薬のバビースモはじめ新しい治療薬や萎縮型の再生医療の研究が進んでいる。あきらめないで希望を持ってほしい。とはいえ、iPS細胞の臨床研究は始まって十数年経つが、実用化されるとのニュースは流れてこない。あと十数年はかかると思われる。過大な期待は抱かないで、緑黄色野菜やサプリメントで予防に努めることが大切である。そして、多くの眼科医が言っているように、喫煙は即刻止めることである。

充実感を覚える日々
 七年前に思った通り、患者会活動にはすることが沢山ある。充実した日々を送っている。医療情報や会員の体験を会報誌「友の会ニュース」に掲載することに仕事の充実感を覚えている。この会報誌や交流会を通じて言っていることがある。病気は自分で治すもの、医師は手助けしてくれるだけである。そのためには、医師との信頼関係を築いて、自分自身が努力することが大切である。このことは、黄斑下出血で自ら入院中に体験したうつ伏せ治療で実感している。

 この7年で多くの会員に出会った。年二回の定例会の講演だけではなく、見学会、音楽会、食事会、歩こう会、茶話会、最近は温泉の会を始めた。病気について学ぶだけではなく、楽しむことも取り入れてきた。

 これら多岐にわたる活動を通じて36年半に及ぶ会社生活で知り合った人とは、異なる人生を歩んできた多くの人との出会いがあった。新たに学ぶことも多い。歩こう会に参加した女性会員が語った言葉が「歩けば目を使う、目を使えば脳を使う。これが健康の秘訣です」が今でも耳に残っている。「僕が君に目になろう」と優しく語りかけた男性がいる。「目の病気は命に関わることはない」と言われた女性は、励ましの言葉と捉えて、ピアノを始めた。定例会ではピアノ演奏と共に美しい声を聴かせてくれる。

 反省していることが一つある。iPS細胞をはじめとする先進医療に期待するあまり、前のめりになったことである。見学場所として京大iPS細胞研究所と神戸理化学研究所を選んだ。

 神戸では、この研究の先頭に立っているT先生の話を聞き感激したことがある。また、理化学研究所と大阪大学が臨床研究の患者募集をしているという情報を会員に流したことがある。この時、東京の世話役Kさんから、「患者会の役割を逸脱していないか」との指摘を受けたこともある。

 確かに、ブローカーのような印象を与えたかもしれない。内心、募集に応じた会員が体験談を書いてくれることを期待していたことは否定できない。過大な期待や幻想を抱く結果になってはいけないと反省している。

 発足から7年間が過ぎた。会員は20数名から100名近くになった。当初は関西中心の会であったが、ホームページの充実とともに、北は北海道から南は沖縄まで広がった。そこで、当初の任意団体を発展させNPO法人とし、名称から関西を外しNPO法人黄斑変性友の会に改称した。

 また、全国規模での会員相互の親睦を図るため、交流会も対面だけではなくオンラインを取り入れた。毎月一回Zoomによるオンライン交流会を始めた。またLINEのグループ開設もした。ただ、パソコンやスマホなど電子機器を使えない会員が四割もいるので、紙媒体による情報共有に力を入れている。

 紙媒体として、最も力を注いできたことは「私の体験談」を冊子にしたことである。七年間に第4集まで発行した。会員の半数近くがそれぞれの体験を語った。自ら筆を執った人もあれば口述筆記したものもある。これらは国立国会図書館と大阪府立中央図書館に寄贈した。社会的資産として、永久に保存されることになる。

さいごに
 会社勤めをしたためか、数字のことを気にする癖が抜けきらない。これからは、会員数の増加を追い求めるのではなく、内容の充実に力を入れていこうと考えている。そして、患者会は会員一人一人ができる範囲で、会の活動に加わることを願っている。コンビニの店主と客の関係ではなく、誰もが店主の気持ちになって参画できるような会に変えていきたいと思う。

 


2022年10月21日定例会
(2022年10月23日)