日本シリーズ第3戦観戦記

日本シリーズ第3戦観戦記


10月31日、阪神甲子園球場で2023年度日本シリーズ第3戦が開催され、一塁側内野席で観戦した。相手チームはオリックスで59年ぶりの関西勢同士の対決とあって、球場には多くの観客が押し寄せた。


試合開始前に、グランド整備が阪神園芸という会社によって行われる。


開始前に、両チームの選手の紹介が行われる。阪神は1塁側、オリックスは3塁側に全員が整列する。チアガールやマスコットキャラクターも出てきて、一種のショーでもある。


センターのスコアボードに日本シリーズ2023と映し出された。試合開始に先立ち、選手及び観客は起立して国歌を斉唱した。


いよいよ、午後6時に試合開始。阪神が先制点を入れた。


午後7時頃、球場の上に月が上った。クレーターがハッキリと見える。


多くの阪神ファンの声援にもかかわらず、4-5で逆転負けした。写真は1塁側外野席。

大相撲大津場所観戦記

大相撲大津場所観戦記

髙田忍

大相撲の地方巡業、大津場所が10月18日開催された。写真を交えて、相撲について知るところをまとめた。

 

会場の呼び方

会場の北側が正面、その反対側を向こう正面という。正面から見て右が西、左を西という。写真は正面から向こう正面を写したもの。

 

髷結い

十両以上の力士はいわゆる丁髷(ちょんまげ)を結っている。写真は正代関が髪を結ってもらっているところ。

 

相撲甚句(すもうじんく)

相撲甚句とは、邦楽の一種。大相撲の巡業などで披露される七五調の囃子歌である。本場所では行われない。

 

綱締め

  横綱照ノ富士に綱を締めているところ。数人の若手力士が綱を締めていた。

 

土俵入りと化粧まわし

  幕内の力士が、化粧まわしをつけて、お披露目をする儀式。

  思い思いの漢字を入れていることが多い。先ずは東から、次に西からのじゅんである。自分の名前と同じ文字が入っているのを見て思わずシャッターを切った。

 

 横綱土俵入り

  今年は膝の故障で休場の多い横綱照ノ富士だが大津場所には登場して、土俵入りを見せてくれた。不知火型と雲竜型がある。照ノ富士は不知火型。横綱の土俵入りには太刀持ちと露払いが先導する。

呼び出しと行司

   取り組みの前に呼び出しが独特の節をつけて対戦する力士の名前を読み上げる。

 

    行司には、格がある。幕下などの身分の低い行司は裸足である。最高位は紫の装束を身に着ける。

 

木村庄之助

木村庄之助

 

取り組み

 取り組みにはスポンサーが懸賞金をかける。左端の黄色にスポンサー名が入り、観客に披露する。懸賞金は3万円と聞いたことがある。本場所では、勝敗を気にして、立ち合いに変化してはたきこみなどの手抜きをする力士が偶にいるが、大津場所ではすべての取り組みに懸賞金が2~3本かかっていたので、真剣勝負が多かった。

 

三役そろい踏み

   取り組みの最後三番に対戦する力士が東と西に分かれて披露される。本場所では、千秋楽(15日目)に行われる。

弓取式

   全ての勝負が終わると弓取式という儀式が行われる。

弓取式

会場を後にする観客に対して、感謝の気持ちを込めた太鼓が打ち鳴らされる。本場所では櫓から太鼓がたたかれる。

 

たまり席

 観戦した席は、土俵下のたまり席からであった。決 して楽ではなかった。場所が狭く、足を延ばしたり畳んだりする。前の人の帽子や頭が邪魔になって勝負が良く見えない。

相撲を見るのはテレビが一番である。とはいえ、力士が手抜きをせず、真剣に勝負を挑むときは迫力がある。

イタリアの絶景を見る旅

イタリアの絶景を見る旅


9月23日から30日まで、イタリア北部の山岳地帯を巡るツアーに参加した。フィンランドのヘルシンキ経由のため、移動に3日かかかり、実質は5日間の旅であった。

24日 マッターホルン


スイスとイタリアの国境にそびえる山である。標高4478メートル。湖に写る山の景色が絵になった。

25日 モンブラン


フランスとイタリアの国境にあるヨーロッパ最高峰。白い山という意味である。360度回転するロープウェイに乗り、エルブロンネ展望台から見た景色は良かった。

25日午後 コモ湖


コモ湖はロンバルディア州にある湖。小型船で約一時間遊覧した。湖畔には、世界の著名人の別荘がある。中には、湖畔に降りるのにエレベーターやエスカレーターを備えた別荘もある。

26日 小さな村


小さな村の教会の散策が目的だったが、坂道のため参加はせず、遠くから写真に収めた。村からドロミテが見える

27日 ドロミテ山地


3000メートル級の山々が連なる世界遺産である。

ミズリーナ湖

28日 コルティナ

冬季オリンピックの開催で知られる街である。小さな町から見える山の光景も素晴らしい。

シルミオーネ

ホテル


旅行会社の予約にもよるかもしれないが、バスタブがなくシャワーだけのホテルが二つあった。カードキーが不具合のため、鍵で開けてもらったのが二か所。


アメリカ式のビジネスホテル風やイタリアの伝統的なホテルがあった。その中で快適に過ごせたのが一か所あった。

イタリア料理


イタリア料理は、最初にパスタなど麺類が出て、次にメインディッシュが出てくる。肉類や魚料理である。最後のデザートだけが美味しかった。

不愉快なことも


イタリア北部の景色は楽しむことが出来たが、決して良い面ばかりではない。スリが多いので緊張の連続であった。20数年前、ローマでは店の店員やタクシーの運転手からすり取られた。
今回は有料トイレで不愉快な思いをした。有料なのにトイレットペーパはなく、驚くことに和式トイレであった。

交通システム


ヨーロッパには三つのパターンの交通システムがある。車も鉄道も左側がイギリス式で、日本は明治時代に鉄道技術をイギリスから学んだ。その反対に、いずれも右側通行がドイツ、オーストリア。その中間がある。車は右側、鉄道は左側、フランスやイタリアである。
イタリアであおり運転かと思われるほど車間を詰めて走る。バスの一番前の席では冷や冷やする。昼間でもライトをつけることが規則のようだ。急な追い越しも多い。車線をまたいで走る車もある。

全般を通じて


イタリアには直行便がない。かつてはアリタリア航空があったが経営破綻した。そのため、今回はフィンランド航空でヘルシンキ経由となった。ロシア上空を飛ぶことが出来ず、行きは北極海上空宇、帰りは南下し中央アジアの上を飛び南回りであった。そのため、大阪ヘルシンキ間は約13時間の長旅である。海外旅行には体力も必要である。



会社員時代、1986年から1992年の6年間でアメリカやヨーロッパへ24回出張した。帰国後、翌日から出勤したことを思い出し、体力の衰えを感じるツアーであった。

友の会と共に歩んだ7年

友の会と共に歩んだ7年


NPO法人黄斑変性友の会
代表世話人 髙田 忍


はじめに
 NPO法人黄斑変性友の会の前身、関西黄斑変性友の会が2015年10月に発足してから、今年で丸七年が過ぎた。私自身の治療経過と友の会とのかかわりに触れながら、この七年の歩みを振り返ってみることにした。


異変に気付いたきっかけ
 2014年8月27日、早朝パソコンの電源を入れると、画面の右枠が歪んで見えた。幸運だったのは、二日後の29日に人間ドックの予約を入れていたことだ。眼科診察室の入り口に掲げられた医師の名前のアクリル板も歪んで見えた。若い女性医師田中先生に異変を告げると、翌週水曜日に検査をすることになった。


 検査までの間、週末に車を運転した時、中央の車線が歪んで見えたので、即刻運転を中止した。バスに乗ると、窓から見える電柱も歪んで見えた。


 病院は大阪中之島にある住友病院である。住友グループの会社に勤務していたので、40歳以降、定年後も毎年夏の終わりに、住友病院の人間ドックで検診を受けていた。その当時の眼科部長は五味文先生である。現在は兵庫医科大学の眼科部長をしておられる。


診断されるまでの受診の状況
 翌週水曜日、発症から1週間の9月3日、造影剤を入れた眼底検査や光干渉断層計の写真が撮られた。その結果、病名が加齢黄斑変性であると告げられ、その日のうちに注射治療を受けた。今まで白内障や緑内障の病名は知っていたが、加齢黄斑変性は初めて知る病名であった。


 その日から10日ほどたったころ、神戸理化学研究所がiPS細胞の臨床研究を始めたとのニュースに接し、興味を抱き期待もした。それに先立つ2010年、妻が骨髄異形成症候群という血液の難病にかかり、病床で読んだ新聞でiPS細胞から血小板を作る研究が東大医科学研究所で進められていることを知り、医学研究目的で寄付をしてきたからである。


治療・症状の経過と出会い
 発症した2014年には、定められた通り一か月おきに計3回の注射治療を受けた。3回目の注射のあと、歪みはなくなり、車の運転を再開した。翌年の注射は1回であった。このころ、治療薬はアイリーアであることを知った。


 住友病院の掲示板に貼られた患者会の集いのポスターが目に留まった。世話役は東京の会を主宰していた女性Kさんである。2~3回参加するうちに、関西にも患者会を作るので代表世話人を引きうけないかと打診され、さらに要請を受けた。躊躇することなく承諾した。


 妻の病気を通じて、患者会の存在意義を理解していたからである。妻は2010年、血液の難病骨髄異形性症候群を発症し闘病生活を続けていた。その患者会で、母親が患者という女性と巡り合った。

 名古屋の病院へセカンドオピニオンを聞きに行った際、名古屋城近くの喫茶店で会った。その時の言葉が深く胸に刻まれていた。「この病気は治りません。生きているうちに楽しい思いをさせてあげて。私は母と温泉に行きました」。

 医師から聞くことのできない患者ならではの言葉であった。神戸の病院に通院しているとき、診察が早く終わるときはスーパーに立ち寄り買い物をし、遅いときはホテルで神戸の夜景を見ながらフランス料理を食べたこともある。その効果が次第に現れたように思う。

 医師から「一年後の生存率20%」と、余命宣告された時は、不安と恐怖から半狂乱の精神状態に陥った妻が、心穏やかになり「貴方、まだ若いから再婚してもいいわよ」とまで言うようになった。それから数日後、急に体力が衰えていった。手を握ると弱弱しく握り返してきた。それが最期であった。


iPS細胞に望みを抱いて
 妻は、子供が中学校へ通い始めた頃から、スーパーを皮切りに働くようになった。働いて得た給料は銀行に預金をしていた。これを相続することになった。生前の妻の意思を考えて、医学研究目的で東京大学と京都大学に寄付することに決心した。老後の生活資金に充てるよりも、社会貢献ができる。相続税として、国に納付すると、使途が定まらない。
 東京大学からは、毎年感謝の集に招かれ、著名な学者の講演を聞くことができた。京都大学iPS細胞研究所山中教授との記念写真も撮影した。ノーベル賞を受賞される前のことである。東京大学の安田講堂と京都大学時計台には、他の多くの寄付者と並んで、銘板に二人の名前が刻まれている。


 それから10年が経過した。加齢黄斑変性の臨床研究は進んでいるようだが、実用化の日は明確にはなっていない。過大な期待は抱かないようにしている。


友の会を託されて
 東京の世話役Kさんからの要請にこたえて、友の会の代表世話人を引きうけた。妻の病気を通して知った患者ならではの体験がある。その情報を患者同士が共有することの必要性を感じていたからである。もっとも、人生七十歳を過ぎると働く場所は限られてくる。定年後数年の間、臨時講師をした大学の仕事をしたが、打ち切られていた。自分を活かすことができるのは病気を通して他にないと思ったことも、もう一つの動機であった。


 2015年10月、関西を中心に20数名で発足した。最初の会合は住友病院15階にある講堂で開催した。五味文先生から病気に関する基本的な話をしていただいた。

集合写真



その後の治療経過、黄斑下出血発症
 2016年には注射は一度も受けなかった。ところが、2017年になると注射回数が5回に増えた。治療費も高い。2018年5月ころ、病院で検査を受けたとき、医師にどのようなサプリメントがよいかと尋ねた。それまでは、人工的なものは極力体内に入れず、自然の食品を摂取するという考えでいた。医師が勧めたのは、ボシュロム社のオキュバイト50+である。服用を始めてから、注射の回数は年1回程度に収まっている。左目を閉じ、右目だけで見ると中央部がかすんで見える。最近は白内障が進行中である。


 今年6月黄斑下出血を発症し、1週間の入院治療を受けた。眼内にガスを注射する治療である。ガスは軽い。出血している目の奥にガスを行きわたらせるためには、うつぶせになる必要がある。退院後も1週間はこの姿勢を取り続けた。昼夜を問わずのうつぶせの生活は難行苦行であった。一か月もすると、ガスは消え、目から霞が消えた。


 幸いなことに、左目は問題ない。左目が発症しないよう、予防のためサプリメントの服用を続けている。一昨年、NHK「チョイス」から取材を受けた際、サプリメントのサンプルを示して、予防効果があると説明した。現在も左目に異常はない。車の運転もできる状態である。早期発見早期治療のおかげであると思う。


診断時に知りたかったこと
 多くの説明書には、加齢黄斑変性という言葉の前に枕詞のように「失明の怖れ」をつける。マスメディアが不安を増幅させる役割を果たしているように思う。例えば、iPS細胞の臨床研究を伝える記事にも、必ずこの言葉が修飾語になる。実際に失明するのか。失明とはどのような状態をいうのか。真っ暗闇の世界なのか。


 失明するのであれば、見えるうちに美しいものを見ておこう。開き直りである。「春は桜、秋には紅葉」のキャッチフレーズで旅行の回数を増やしたことがある。日本全国だけでなく、世界各地を旅行した。


 旅をすると不思議な出会いがある。2018年春、西洋文明を日本に伝えた国、ポルトガルに旅行した時のことである。3日目、13世紀にできたコインブラ大学を見学した後、ホテルにチェックインしようとした時、後ろから名前を呼ぶ女性がいた。三つのヒントになるキーワードを言われたが、すぐには思い出せなかった。毎年、年賀状の交換をしている間柄であるにもかかわらずであった。翌朝、その6年前に若狭へのバス旅行で隣の席に座った女性医師、Kさんであることをようやく思い出した。


 妻が亡くなって間もないころで、寂しさを紛らわすため、一日バス旅行に参加していた時のことである。京都駅から出発間際に乗り込んできて、隣同士で座り、昔なじみのように話が弾んだ。


 最近廃院された。医師会の会計監査の役をされていたことを知り、友の会の監事として陰ながら支えていただいている。


これから治療を受ける方に伝えたいこと
 早期発見早期治療がいかに重要であるかである。目に限らず、体に異変を感じたら、放置せずに専門の医師の診察を受けることである。滲出型の治療法は現在のところ、抗VEGF薬の注射以外にはない。目に注射と聞くと不安を覚えるが、その必要はない。麻酔もするので痛みはなく、一瞬のうちに終わる。


 注射に不安を覚える全国の患者に安心感を与えるため、住友病院の医師に依頼し、手術の手順を撮影した。写真をホームページに掲載したところ、これまで多数の方が閲覧している。


 このホームページを維持し、管理してくれているのは、大阪市内でメガネ店を営む星野さんである。時には、店の営業より、会の活動を優先されることがある。もちろん無償である。頭が下がるばかりである。


 最近は、ノバルティス社のベオビュ、中外製薬のバビースモはじめ新しい治療薬や萎縮型の再生医療の研究が進んでいる。あきらめないで希望を持ってほしい。とはいえ、iPS細胞の臨床研究は始まって十数年経つが、実用化されるとのニュースは流れてこない。あと十数年はかかると思われる。過大な期待は抱かないで、緑黄色野菜やサプリメントで予防に努めることが大切である。そして、多くの眼科医が言っているように、喫煙は即刻止めることである。


充実感を覚える日々
 七年前に思った通り、患者会活動にはすることが沢山ある。充実した日々を送っている。医療情報や会員の体験を会報誌「友の会ニュース」に掲載することに仕事の充実感を覚えている。この会報誌や交流会を通じて言っていることがある。病気は自分で治すもの、医師は手助けしてくれるだけである。そのためには、医師との信頼関係を築いて、自分自身が努力することが大切である。このことは、黄斑下出血で自ら入院中に体験したうつ伏せ治療で実感している。


 この7年で多くの会員に出会った。年二回の定例会の講演だけではなく、見学会、音楽会、食事会、歩こう会、茶話会、最近は温泉の会を始めた。病気について学ぶだけではなく、楽しむことも取り入れてきた。



 これら多岐にわたる活動を通じて36年半に及ぶ会社生活で知り合った人とは、異なる人生を歩んできた多くの人との出会いがあった。新たに学ぶことも多い。歩こう会に参加した女性会員が語った言葉が「歩けば目を使う、目を使えば脳を使う。これが健康の秘訣です」が今でも耳に残っている。「僕が君に目になろう」と優しく語りかけた男性がいる。「目の病気は命に関わることはない」と言われた女性は、励ましの言葉と捉えて、ピアノを始めた。定例会ではピアノ演奏と共に美しい声を聴かせてくれる。


 反省していることが一つある。iPS細胞をはじめとする先進医療に期待するあまり、前のめりになったことである。見学場所として京大iPS細胞研究所と神戸理化学研究所を選んだ。

 神戸では、この研究の先頭に立っているT先生の話を聞き感激したことがある。また、理化学研究所と大阪大学が臨床研究の患者募集をしているという情報を会員に流したことがある。この時、東京の世話役Kさんから、「患者会の役割を逸脱していないか」との指摘を受けたこともある。

 確かに、ブローカーのような印象を与えたかもしれない。内心、募集に応じた会員が体験談を書いてくれることを期待していたことは否定できない。過大な期待や幻想を抱く結果になってはいけないと反省している。



 発足から7年間が過ぎた。会員は20数名から100名近くになった。当初は関西中心の会であったが、ホームページの充実とともに、北は北海道から南は沖縄まで広がった。そこで、当初の任意団体を発展させNPO法人とし、名称から関西を外しNPO法人黄斑変性友の会に改称した。


 また、全国規模での会員相互の親睦を図るため、交流会も対面だけではなくオンラインを取り入れた。毎月一回Zoomによるオンライン交流会を始めた。またLINEのグループ開設もした。ただ、パソコンやスマホなど電子機器を使えない会員が四割もいるので、紙媒体による情報共有に力を入れている。


 紙媒体として、最も力を注いできたことは「私の体験談」を冊子にしたことである。七年間に第4集まで発行した。会員の半数近くがそれぞれの体験を語った。自ら筆を執った人もあれば口述筆記したものもある。これらは国立国会図書館と大阪府立中央図書館に寄贈した。社会的資産として、永久に保存されることになる。



さいごに
 会社勤めをしたためか、数字のことを気にする癖が抜けきらない。これからは、会員数の増加を追い求めるのではなく、内容の充実に力を入れていこうと考えている。そして、患者会は会員一人一人ができる範囲で、会の活動に加わることを願っている。コンビニの店主と客の関係ではなく、誰もが店主の気持ちになって参画できるような会に変えていきたいと思う。


 


2022年10月21日定例会
(2022年10月23日)

 

入会の呼びかけ

入会の呼びかけ

 入会した人には、「私の体験談」や会報誌「友の会ニュース」のバックナンバー、加齢黄斑変性に関する資料などをお送りします。


 NPO法人黄斑変性友の会は2015年発足後、7年間で「私の体験談」を第4集まで発行してきました。これまでに在籍した会員約160名のうち、約100名が貴重な体験を投稿しています。

 この「私の体験談」は、国立国会図書館に寄贈し、社会的資産として永久保存されます。

 



 会報誌「友の会ニュース」

は、年4回発行し2022年末現在24号になります。会員からの投稿、最新治療情報、社会制度に至るまで幅の広いミニコミ誌です。



 全国の会員の交流の場としてZoomによるオンライン交流会を毎月開催して、体験交流と親睦を深めています。
さらに、年に2回定例会を開催し、専門の医師を招いて講演会や会員の体験発表を行い、会場参加だけでなく、全国の会員にZoomでのオンラン配信をしています。ここでは音楽会も行います。

 

 

この他、関西在住の会員を中心に「歩こう会」、「食事会」、「温泉の会」も開催しています。

さあ、入会して、友達の輪に加わりませんか。

わからないことは質問しよう

 わからないことは質問しよう


市民公開講座に参加して 

髙田 忍

「加齢黄斑変性の理解を深める1時間」が12月15日に開催された。WEBによる市民公開講座で、患者、家族、医療関係者など全国から約千人が参加した。テーマは「加齢黄斑変性とうまく付き合うために」で、関西医大山田晴彦先生の総合司会で進められた。


前半は兵庫医大、五味文先生の講演、後半のパネルディスカッションには髙田が招かれた。初めに自己紹介として、治療履歴、患者会の存在意義、患者会との関わるに至った動機を語り、山田先生の質問に答える形式で進められた。

関西医科大学 眼科教室 病院教授 山田 晴彦先生、 兵庫医科大学 眼科学講座 主任教授 五味 文先生、NPO法人 黄斑変性友の会 理事長 髙田忍

関西医科大学 眼科教室 病院教授 山田 晴彦先生、 兵庫医科大学 眼科学講座 主任教授 五味 文先生、NPO法人 黄斑変性友の会 理事長 髙田忍

 

医師とのコミュニケーション
わからないことは質問するようにしている。例えば、注射を受ける際、四つある薬の中で、なぜ、その薬を選んだのか、新しい薬が出たときは、その扱い、即ち治療薬としてすぐに使うのか、しばらく様子を見るのかについて医師に考えを聞く。


眼底写真と断層写真のプリントを毎回もらい、アルバムにしている。注射の時は納得して受けるようにしている。先生は顔を覚えてくれ、コミュニケーションはよくなる。

医師との関係に関するアンケートのコメント
不満が四分の一ほどある。これは断層写真や眼底写真を頼んでも、渡してくれない医師があるためではないか。診察を受ける際、ご夫婦で受ければ、内容もよく理解できるし、二人で頼めば、医師の態度が変わる可能性がある。診察室に付き添いの人も入って、医師の説明を納得いくまで聞く。


病気との付き合い方
発症した2014年9月にiPS細胞の臨床研究が発表された。テレビや新聞が一斉に報道した。判で押したように、加齢黄斑変性の前に枕詞のように「失明の怖れ」がついていた。記事を書いた人が、どのような思いで「失明」という言葉を使ったかわからない。全く暗闇の世界か、多少は光を感じるのか。この言葉を聞いて不安に思った。
失明するなら見えるうちに美しいものを見ておこうと、心に決め「春には桜、秋には紅葉」で各地を旅行した。
幸い、早期発見早期治療のおかげで、車の運転ができる。今年も愛知県まで行った。正し夜間は対向車のライトがまぶしくて避けている。


会報誌「友の会ニュース」は楽しみながら作っている。

社会の理解
目の病気といえば、緑内障や白内障は、その原因や見え方を知らないとしても大半の人は病名を知っている。しかし、加齢黄斑変性は病名すら知られていない。


まして、「目に注射」と聞くと不安になる。そこで、医師に依頼して自分が注射を受けるとき、消毒、麻酔、注射、眼帯など一連の手術経過をカメラで撮影し、ホームページに掲載した。これまでに十数万件の閲覧があり、社会の理解を深めるよう務めた。

患者会活動
2015年に約二十名で活動を開始した友の会は今では約百名に増えた。患者会の目的である「医師から聞くことのできない患者ならではの体験の共有」に力を入れてきた。「私の体験談」を第4週まで発行した。会報誌「友の会ニュース」は年四回発行している。対面での交流のため、定例会での講演や音楽会、歩こう会、最近は温泉旅行も始めた。また全国の会員の交流の場として、Zoomによるオンライン交流を行っている。お互いに顔見知りになっている。今回の催しのような情報を迅速に伝えるため、メールを活用している。

 

越前ガニ旅行

越前ガニ旅行


19日と20日、福井県の越前ガニを食べるツアーに参加した。
大阪発サンダーバード13号金沢行に乗車。湖西線回りで福井駅で下車した。
滋賀県内は青空が広がり、比良山頂には初雪がかぶっていた。



ところが、トンネルを抜けて福井県に入ると突然雪国の景色に変わった。

 

最初に訪れたのは、北前船の博物館。明治に鉄道が開通するまでは、船が主な物資の輸送に当たっていた。北海道の松前から日本海を南下し瀬戸内海を経由して大阪に至るルートである。越前の商人はその事業主の一人であったという。

 



夜、福井県北部、東尋坊や芦原温泉に近い坂井市三国のホテルでカニ料理をいただいた。



二日目の午前、一乗谷にある朝倉氏の博物館を訪ねた。信長に滅ぼされた戦国大名である。博物館に展示されたものの中で興味深かったのは元亀争乱といわれる地図であった。そこには、私の生まれた寒村の名前が入っていた。



そのころ、越前の朝倉氏と近江の浅井氏が手を結び、信長を挟み撃ちにしたが、体制を立て直した信長に潰された。


午後は、福井藩主松平家の邸宅跡を訪ねた。雪景色の庭が美しい。

髙田 忍

かかりつけ医

かかりつけ医

山本先生との出会い

髙田 忍

受けてよかった人間ドック

 今から20年ほど前のことである。定年から半年たったころ、右の親指に痛みを感じ、病院に飛び込んだ。病名は痛風である。定年を控えた2年間、水より安いビールの国、ドイツで過したことが原因と思われる。

 その病院を選んだのは、40歳から毎年人間ドックの検診を受けていたからである。勤務先の健康保険組合が補助金を出してくれた。健康データの継続性を考え、定年後も同じ病院で検診を受けてきた。

 人間ドックを受けてよかったと思うことが二つある。2009年の検診で尿酸値が高いことが判明した。半年の経過観察の後、精密な検査が行われ前立せんがんと判明した。早期に発見し、放射線治療を受けた。

 もう一つは2014年8月の終わり、早朝パソコンに電源を入れると、右枠が歪んで見えた。幸いなことに二日後の金曜日に人間ドックを予約していた。眼科の田中医師に、歪みを伝えると、翌週の水曜日に検査をして加齢黄斑変性と判明した。その日のうちに注射の治療を受けた。そのおかげで、8年たった今でも視力は低下せず、車の運転も続けている。

 

時間がかかる病院

 最初、痛風の診察をしていただいたのは内分泌内科は副院長、南先生であった。その後、先生が代わり、最近は丹波先生、杉山先生の世話になった。

 人間ドックは病気を見つけてくれる。高脂血症、腎臓、甲状腺の薬が処方された。やがて、病院は採血と採尿をし薬をもらいに行くところとなった。医師は処方箋を印刷するだけである。そのために半日以上も費やす。病院が始まる8時半に受付しても、すでに大勢の患者が待合室にいる。採血までに1時間、結果が出るまでにさらに1時間から1時間半、診察と会計を終えて、薬局に行くと1時間待たされる。時計を見ると12時に近い。

 これが、三か月に一度の頻度で繰り返される。何も総合病院でなくてもできることではないか。コロナの感染が広がっている中で、長時間、大勢の人で混み合う待合室にいるのは不安になる。

クリニックに転院

 そんな思いでいたとき、同じ病院の別の内科の医師が電車で二駅の隣の町にクリニックを開院することを知った。病院の医師に紹介状を書いてもらって、このクリニックに代わることにした。待合室には一人いるか、いないこともある。コロナの心配をする必要もない。診察から薬を受け取るまで、わずか1時間で済んだ。

 今までと大きく異なる点が二つある。

一つは、聴診器を胸と背中に充ててくれることである。この間、医師との会話ができる。

二つ目は、診察がひと月に一回と増えたことである。

 ただし、検査のための採血採尿は2か月に一回である。採血のない月でも聴診器を当て、変わったことがないか聞いてくれる。いつも見守っていてくれるようで安心できる。

 このような先生には80年の人生で初めて出会った。

 先生の名前は山本先生という。

 

西国街道を歩く(山崎~高槻)

西国街道を歩く(山崎~高槻)


髙田 忍


 10月22日、歴史街道倶楽部の「西国街道を歩く」に参加した。西国街道は京都から西宮までの街道である。東海道から更に西へ向かう街道である。今回は、大山崎(京都)から高槻(大阪)までのコースである。途中阪急電車で移動したが、歩行距離は約9キロ、12000歩であった。


 山崎といえば天王山の近くで、天下分け目の合戦があった土地である。

 

 山崎は水が豊富な土地でサントリーの工場がある。


 水無瀬川という川がある。普段は水が流れず伏流水になっているが、この日は水が流れていた。この川にとっては珍しい光景であるという。


 都の京に近いためであろう。離宮がいくつかあった。後鳥羽上皇の離宮もある。


 天皇家の菊の御紋は、ここに由来があるという。この日はお宮参りの家族が参拝し、お爺さんが自動シャッターで撮影していた。


 京都と大阪を結ぶ地点にあるため、街道は敵に攻め込まれないよう、直線を避け、ところどころ鍵型に曲がるように作られている。また病気を防ぐ意味でもあるという。


 途中、島本という大阪府では唯一の町がある。そこの歴史資料館には昔懐かしい農機具がおかれていた。唐箕というもので、滋賀の生家にもあった。インターネットには次のような説明がある。

風力を利用し穀物[コクモツ]を精選[セイセン]する農具。もみすりをしたあと、玄米といっしょになって混ざっているもみがらや、わらくずを選別するのに用いる農具。


 阪急電車高槻駅で下車した。京都と大阪への通勤に便利な町である。今はその面影は一切ないが、かつては高槻城があった。その城主の一人が高山右近でキリシタン大名といわれている。織田信長や豊臣秀吉に仕え、資料館の案内書によると20を超える教会を建設し、当時25千人の人口のうち7割がキリスト教信者であったといわれる。


 城郭は石垣も含め明治時代に壊され、一切城の痕跡を見ることはできない。石垣の石は鉄道線路の敷石に使われたりした。


とはいえ、城郭の外に築かれた寺町は残っていて、浄土宗などのお寺が三つ軒を連ねていた。


 さらに、寺町から北へ歩き城郭を離れると、住宅街がある。かつての侍屋敷かと思われる。そこにも、細い道路が鍵型に作られていた。鍵型の角には櫓があった。


 今回の西国街道を歩く会では窪田純子さんと一緒であった。10年前の9月に同じ歴史街道クラブの若狭小浜一日バス旅行で、隣の席に座った。それ以来、年賀状を交換する間柄になり、今では友の会の監事(会計監査)をしていただいている。


 歩く会は高槻駅で解散し、そのあと駅前の喫茶店に入った。今年はコロナとインフルエンザの同時流行の兆しが見えるので、インフルエンザのワクチン接種をするようにとのアドバイスをいただいた。友の会ニュース24号のプリントを渡し、誤字脱字のチェックをお願いした。


2022年10月23日

高齢者を狙う「仕組み債」に注意

高齢者を狙う「仕組み債」に注意

 日本経済新聞は最近、「仕組み債」の記事を掲載し、その危険性について警告している。「高リスク仕組み債重点検査へ 金融庁・監視委」(8月24日)、「仕組み債、投資初心者は販売対象外 日証協がルール強化」(9月5日)などの見出しで問題商品であると伝え、社説でも「問題多い個人向け仕組み債」(2月4日)と注意を呼び掛けている。

 同紙によれば、仕組み債とは国債より利回りが高く、複数の参照銘柄を組み込んだ一種のデリバティブ(金融派生商品)のことである。専門用語が並び内容を正しく理解するのは専門家でも難しいとされている。

 売り手は、大手の銀行、地方銀行、証券会社で、個人投資家との間でトラブルが目立つという。仕組み債は株式や為替が一定以上値下がりすると、償還金額が大幅に減るものが多い。売り手の銀行や証券会社は通常の金融商品では金利、手数料が低いことから利益を得ることができない。そこで、高齢者の退職金や老後資金を狙ってくる。金融機関のドル箱商品とされている。償還時に8割も減り、老後の生活が成り立たない高齢者がおおいため、監督官庁が規制に動きはじめた。

 もし被害にあったら弁護士に相談を・・・