抗VEGF薬の注射について

 抗VEGF薬の注射について

抗VEGF薬、なぜ注射?

抗VEGF薬の一つであるバイエル薬品のアイリーアは血管内皮増殖因子との優れた結合親和性を持つ薬剤創出目的に、ヒト免疫黒グリン(Ig)G1のFcドメインにヒトVEGF受容体(VEGFR)の細胞外ドメインを結合した「遺伝子組み換え融合糖タンパク質」から作られています。タンパク質は一般的に分子構造が大きいため、点眼では患部に散布できないので注射による投与がされている。

 専門的なことを知りたい方は下記にアクセスしてください。

https://pharma-navi.bayer.jp/omr/online/product_material/EYL_PUG_201808200_153472

 

眼球注射針穿刺位置

角膜輪部(黒目(角膜)と白目(結膜)の境目)から4mm程度の位置です。 ※虹彩根部と網膜を避けた位置。位置は、青マーク箇所あたりとなります。

注射針穿刺位置 正面

注射針穿刺位置 正面

注射の深さ

注射の深さ

注射の深さ

注射薬剤の量

アイリーア薬剤の量は投与液量0.05ml(アイリーア薬物量2mg

注射針の太さ

注射針は30ゲージの注射針が使われる。太さは0.31±0.02mmである。(大体ハガキの紙厚程度の直径)

参考までに採血に使われる注射針は21Gで太さは0.81±0.02mmである。

 

眼科を受診するときの心得

眼科を受診するときの心得

1. 加齢黄斑変性のチェック

加齢黄斑変性は「失明の怖れ」という言葉が枕詞のようにつく眼の病気です。そのため、早期発見早期治療が大切といわれています。早期に発見する方法は、片目で格子状のものを見ることです。一般にはアムスラーチャートで薦められていますが、一般家庭にあるわけではありません。障子の桟や台所のタイルでもチェックできます。

アムスラーチャート

アムスラーチャート

障子

障子

タイル

タイル

 

中央がかすんで見えるとか、障子の桟が歪んで見える場合は加齢黄斑変性の可能性があります。その場合は、直ちに眼科医の診察を受けましょう。

アムスラーチャート見え方

アムスラーチャート見え方

 

2. 眼科医の選定

どこの眼科医で診察と治療を受けるか。眼科医を選ぶにあたっては、インターネットで「加齢黄斑変性症の治療件数」で検索し、通院に便利な病院を選ぶ方法があります。あるいは、とりあえず近くの眼科医を訪ね、検査設備の整った病院を紹介してもらう方法もあります。ただし、白内障の治療件数などの実績の宣伝をしているところは避けた方がいいと思います。混雑していて待ち時間が長い所があります。

3.眼科医を受診する時

眼科医を訪ねるときは車を避け、公共交通機関を利用しましょう。出来れば家族の付き添いがあると安心です。なぜなら、受診した日に抗VEGF薬の注射をした後、眼帯をしなければならいからです。注射しない場合でも、検査のために瞳孔を開く眼薬を点すからです。

医師には、いつ頃からどのような症状(見え方)であったかをまとめておき的確に伝えることが大切です。

医師の患者に対する持ち時間は限られており、診察の時思い出しながら伝えるのでなく事前に伝えたい現在の症状など整理の上メモ書きしすべて的確に伝える患者側の努力がよりよい治療を受ける手立てになります。

4.検査について

医師が加齢黄斑変性の疑いがあると判断したときは、視力検査と眼圧検査の後に眼底検査、蛍光眼底造影、光干渉断層計検査などを行います。

視力検査は、誰でも経験があります。丸い輪のどの部分が空いているかを見えた通り答える自覚検査です。上下、左右で答えます。判断しにくい場合でも、一瞬目をつぶり開けた時に分かることがあります(涙が不足すると見えにくくなるため涙を補う)。リングがぼやけて見えていても大体空いている方向が分かればそれを答えます。視力検査の後、瞳孔を開く眼薬(散瞳剤)が点眼され、お薬が効くおおよそ20分後に眼底検査が行われます。

ランドルト環

ランドルト環

(1)眼底検査

眼底検査は赤い点を見つめながら行われます。かなりまぶしい検査です。瞬きしないようにと注意をされます。この検査では網膜の状態、特に黄斑を見ます。出血や血液中の水分が漏れて溜まっていないか、網膜がむくんでいないか、それらの原因になっている脈絡膜新生血管がないか、などを調べます。ただし眼底検査だけでは、新生血管の位置、大きさ、活動性を確定することはできません。

(2)蛍光眼底検査

診断確定と治療方針を決めるためには、蛍光眼底造影がとても大切です。造影剤を腕の静脈から注射し、造影剤が血液中を流れて眼内の新生血管に入ったときに写真を撮り、新生血管の位置や大きさ、活動性を調べます。造影剤にアレルギーがあったり、血圧が高いなど、造影剤が好ましくない病気がある場合には、この検査はできません。

そのため、承諾書にサインを求められます。

(3)OCT(光干渉断層計)検査

OCT(光干渉断層計)検査は赤い縦と横の線を見つめます。線は点滅しますが、多少の瞬きは問題ないようです。これは、眼底の断面を調べる断層検査です。新生血管の有無や形、大きさ、新生血管と中心窩との位置関係、網膜のむくみなどもわかります。数分で検査でき、造影剤も使いません。

萎縮型は進行がゆっくりで、治療法がないので、蛍光眼底造影や光干渉断層計を行わないこともあります。

5.治療方法

「萎縮型」の治療

治療は必要ないといわれています。ただし、「滲出型」に移行して急激に視力が低下することがあるので、定期的な検診が必要です。

「滲出型」の治療

抗VEGF療法という新生血管を沈静化させる薬を硝子体内に注射する方法が一般的です。

眼球注射の場面

駐車しているところ

注射針穿刺位置 正面

注射針穿刺位置 正面

注射の深さ

注射の深さ

抗VEGF薬にはノバルティスファーマ社の「ルセンティス」とバイエル薬品の「アイリーア」があります。医療費はアイリーアの方が少し安いようです。医師はいずれかを選択して治療しますが、その理由を聞きましょう。

どんな病気でも、自分の病気の状態をよく知ることが大切です。内科で血液検査を受けたらそのデータをもらいます。それと同じように、眼科で検査を受けたら、眼底写真や断層写真をもらい、アルバムに貼っておくと症状の経過や治療の効果が確認できます。写真は医療機関によって有料のところもありますが。それほど高いものではありません。

カラー写真が眼底写真で、モノクロが断層写真です。眼底写真では、赤い部分が減っていることが一目瞭然で分かります。医師によっては、赤い部分や青い部分の質問をすると親切に説明してくれることがあります。医師とは、対等の立場で積極的に質問し納得した治療を受けたいものです。

OCT(光干渉断層計)検査

OCT(光干渉断層計)検査1

OCT(光干渉断層計)検査2

OCT(光干渉断層計)検査2

その他にも、光に反応する薬剤を体内に注射し、それが新生血管に到達したときに弱いレーザーを照射し新生血管を破壊する「光線力学的療法」、新生血管をレーザーで焼く「光凝固法」などの新生血管を破壊することで黄斑へのダメージを食い止める外科的治療もあります。

光線力学療法の場合は、一泊入院の治療になるようです。抗VEGF薬の注射と光線力学療法が併用される場合もあります。

 

先進的な治療法としてiPS細胞の臨床研究が行われています。2019年4月に、理化学研究所で2017年から行われてきた5人の患者に対する臨床研究で安全性が確認されたとの発表がありました。実用化の日が来ることが期待されています。

iPS細胞治療原理

iPS細胞治療原理

6.診察と治療を終えて

抗VEGF薬の医療費は3割負担の場合、4万数千円、一割負担は一万数千円です。光線力学的療法の場合は十数万円かかります。

ただし高齢者の場合、高額療養費の自己負担限度額が定められています。必ずしも上記の額を窓口で支払うわけではありません。2019年8月の場合、一割負担の一般の人は、個人で18000円、所帯全体で57600円です。

領収書は必ず保管しておきましょう。一年間に支払った医療費が10万円を超える場合、確定申告すれば医療費控除の対象になります。タクシー代も控除対象になる場合があります。

抗VEGF薬の注射をした場合は、眼帯を付けるので足元が見えにくく、家族の付き添いがあると助かります。眼帯は翌日の朝まで着用し、感染予防のため三日間目薬を点します。

7.最後に

タバコは絶対に避けましょう。食べ物は緑黄色野菜を食べるとよいといわれています。これらにはルテインという成分が含まれています。黄斑部にあるルテインは、抗酸化作用やブルーライトの光を吸収するフィルターとなって私たちの目を守っています。

緑黄色野菜

緑黄色野菜

サプリメント(栄養補助食品)も、個人差がありますが効果があるといわれています。食物だけでは十分なルテインを摂取することが出来ません。これを補うために、サプリメントを飲んだ人は、飲んでいない人よりも加齢黄斑変性の発症率が少なく、病気の進行も25%抑えられたという報告があります。

(2019,11,11 髙田 忍)

かいま見た中国

かいま見た中国

8月30日から9月4日まで初めて中国を旅行した。目的地は武陵源と桂林である。5泊6日であったが移動日が3日もある駆け足の旅であった。初日はCathay Pacificで関西空港から香港経由長沙まで飛んだ。直行便であれば4時間で行けるが、経由地での長い待ち時間があり9時間20分かかった。自宅からホテルまでは12時間以上となる。欧米に行くのとあまり変わらない。観光地は2日と3日目が武陵源、5日目が桂林であった。この間、感じたことを写真とともにまとめることにした。

1. 中国という国
人口は14億人、面積は日本の25倍もある。台湾を含む23の省の他に、チベットなど少数民族の自治区が5つある。一番人口が多い都市は重慶市で3050万人、次いで上海が2420万人、首都の北京は2150万人と続く。

2. 武陵源
武陵源は湖南省にある。湖南とは洞庭湖の南にあることから名づけられた。洞庭湖は琵琶湖の4倍程度の大きさで、広い中国の地図では、どこにあるのか見つけにくい。上海の西南西、香港の北を結んだ線が交差した辺りにある。洞庭湖から流れ出た水は長江(揚子江)に流れ出る。長江は北上し、やがて東に向きを変え上海にそそぐ。毛沢東はこの湖南省で生まれた。詩人李白も訪れている。
観光の一日目はテレビでも報じられたこともあるガラスの橋のある天門山である。荷物検査の後、パスポートの名前入りに入場券を照合を受けてロープウェイに乗るまでに約一時間、さらに30分以上もかかる長い(7455m)ロープウェイで山頂付近まで行く。中国の奥地だから標高も高いと思ったが、1000m程度であった。

ガラスの橋を渡る時は、傷がつかないよう靴にカバーをした。

 

ガラスの橋

ガラスの橋

      
下山は何度も長いエスカレーターに乗り換えた。そこには天門洞がある。さらにエスカレーターに乗ることもできたが、景色が見えるとの添乗員とガイドの勧めで、999段の階段を下りた。しかし、階段の幅が狭く足元を見ないで降りることは出来なかった。その上踊り場がないので休むこともできず一苦労であった。途中、振り返ると巨大な洞穴、天門洞が見える。

長いエスカレーター

長いエスカレーター  

999段の階段、後方は天門洞

999段の階段、後方は天門洞

さらにシャトルバスに乗り換え、曲がりくねった道を猛スピードで町に下りた。

翌日は袁家界や天子山風景区をハイキングした。階段の昇り降りが多く疲れた。スティックを持って行けば良かったと悔やまれる。

360メートルの三菱製エレベーターで下山した。観光客を呼び寄せるためとはいえ、世界遺産にこのような人工物を設置するのがいいのか疑問に思った

エレベータ(岩山の四角い物)

エレベータ(岩山の四角い物)

3. 桂林
桂林は広西省チワン自治区にある。湖南省の南西、香港の北西方向にある。ベトナムに近い。
約3時間半の漓江川下りを楽しんだ。沿岸の特徴のある山には名前が付けられている。九頭の馬が見える岩山には「九馬画」と名づけられていた。かなりこじつけであった。似たような景色がどこまでも続いた。途中、水上生活者の村などを通過した。

川下り

川下り

九馬画

九馬画

水上生活者の村

水上生活者の村

                    
4. 鉄道と道路
長沙から桂林迄は中国高速鉄道に乗った。現地ガイドは高速鉄道のことを新幹線と称した。日本の技術によることを認めているようであった。乗車賃は三時間半の距離を二等車で179.5元(約3000円)と極めて安い。
広い待合室には優先座席が置かれている。何本もあるホームへは飛行機と同じように発車時間に近づくまで入れない。飛行機の優先搭乗のように優先改札が認められ、その中には軍人が含まれていた。軍人は災害時などに役に立つ人という説明であった。

広いコンコース

広いコンコース

愛心専座(専用座席)

愛心専座(専用座席)

専用通道(老、幼、病、孕、?、軍人)

専用通道(老、幼、病、孕、?、軍人)

      

座席は1列に5席があり番号は1A、1B、通路を挟んでC,D,Eと新幹線と同じである。最高時速304キロを出していた。広い中国で直線の線路を敷くことが出来るからだと思う。

時速304km

時速304km

 

日本の新幹線と異なるのは、乗車券に旅券番号と氏名が記載されること、改札に先立ちパスポートと荷物検査が行われることである。飛行機に搭乗する場合と同じである。ガイドからハサミや爪切りは車内に持ち込むことが許されず没収されると聞いていた。直ぐに取り出せるようショルダーバッグに入れていたが検出されず通過できた。
乗客の中に召集された兵士が赤い大きなリボンを付けて乗っていた。

名前入り乗車券

名前入り乗車券

             招集さ

招集された兵士

招集された兵士

ガイドの説明によると、少数民族が住む地域を発展させるために今後も建設が進められているという。現在の総延長距離は約8万キロである。乗客数が増加しているため、2階の列車を開発中だそうだ。それにしても、すれ違う列車の本数は少なかった。日本のように4分おきに走らせるシステムは出来ていないようだ。

来年開業予定(長沙―張家界)

来年開業予定(長沙―張家界)

5. 道路
中国の自動車販売台数は最近伸びが鈍っているが、2019年2800万台の販売が予想されている。アメリカより多い世界最大の自動車国である。自動車が多いため高速道路が整備され、分離帯には百日紅などの木が植えられている。

日本車も多く見かけた。故障しないため人気があるそうだ。写真はサービスエーリアの駐車場で撮影した。前の2台、その後方の2台も日本車であった。

高速道路の案内標識は中国語と英語の表記がされていた。英語の場合、日本では固有名詞の後に、例えば「橋」のことを「Hashi」とローマ字で書かれていることが多い。中国では「Bridge」となっていて外国人にとって、親切な表記である。日本と同じように車間を表す0m、50m、100mの標識があった。もしかすると日本の仕組みを採用したのかもしれない。運転マナーはウィンカーを出さないで急に車線変更し、車間距離も短い。その注意の看板が目についた。

短い車間距離 

短い車間距離

追尾危険 保持車間

追尾危険 保持車間

長沙は湖南省の州都で人口は950万人である。経済が豊かな都市であるためかバイクはあまり見かけなかった。
ウィンカーを出さないで頻繁に車線変更する車があり運転マナーは良くない。バスの運転手は追い越しの時、警報音を出して知らせていたが煩く感じた。
しかし広西チワン自治区の少数民族が多く住む桂林では、経済格差がありバイクが群れを成して走っていた。車道は自動車とバイクは分離されている。環境保護のためほとんどが電動バイクだそうだ。中には後ろに子供、前に赤ん坊を抱きかかえて3人乗りのバイクを見かけた。ヘルメットの着用は義務付けられていないようだ。

       

群れをなすバイク

群れをなすバイク

三人乗り(男性、子供、女性)

三人乗り(男性、子供、女性)

6. ホテル
5泊の内、長沙で一泊、武陵源のある張家界と桂林でそれぞれ2泊した。いずれも高級ホテルで快適に過ごすことが出来た。施設は威容を誇るように大きなものであった。

広いロビー

広いロビー         

充電用アダプター

充電用アダプター

外国を旅行して困ることの一つがバッテッリーの充電である。国によってコンセントの形状が異なるので、色々な種類のアダプターを携行する必要がある。しかし、中国ではどのホテルでも複数の種類の差し込み口や写真のような延長コードが置かれていた。
部屋のテレビは、中国製はなく韓国やヨーロッパのPhilip製であった。トイレ、風呂は日本のTOTO製であった。どのホテルにも体重計とペットボトルの水が置かれていた。
普通、机の中には聖書が置かれていることが多いが、張家界のホテルには赤い表紙の中華人民共和国憲法が置かれていた。
桂林のホテルではロビーを会場にして結婚式の披露宴が行われていた。招待客の服装は、親族以外は平服でもよく、中にはTシャツに半ズボンの男性やジーンズ姿の女性がいた。職場から駆け付けるためだとのガイドの説明であった。

結婚式披露宴会場

結婚式披露宴会場

7.食事
ツアーの参加者は60歳以上の8名で、一つのテーブルを囲んで中華料理を食べることが多かった。地域によって料理には特徴があるという。土家族の住む張家界ではお椀にご飯とスープを入れる猫飯であった。桂林では米の粉で作ったビーフンが特徴である。ビーフンは秦の始皇帝の時代からの伝統料理だという。
張家界の少数民族が経営するレストランでは入り口で歓迎を意味する酒がふるまわれた。テーブルに着くと代表者が店から出された酒を飲み干すことが求められた。
正直のところ、連日の中華料理には飽きてくる。鶏肉や魚は骨付きで食べにくい。日本で中華料理というと炒飯、焼きソバであるが、色々なものを混ぜるのは料理とは言えないそうだ。食器の扱いも荒く欠けているものが多かった。添乗員が持参したふりかけは美味しく頂いた。
ビールの価格は銘柄品の青島、地ビールのいずれも中瓶で30元(約500円)とほぼ日本並みの価格である。統制価格かと思うほど、どこでも同じ価格であった。

プラスチックのビール用コップ

プラスチックのビール用コップ

火鍋料理

火鍋料理

7. 文字
中国は建国後、簡体文字を使うになった。日本の当用漢字のように簡略化された。「国」のように同じ文字を使う場合もあれば、「機」が「机」になっていたりする。しかし、おおよその見当がついた。同じ文字でも「小心」は心が小さいではなく、「気を付けよ」の意味である。英語が併記されているので意味が分る。
入口と出口は日本語と同じである。トイレは「洗手間」「公共ヱ生間」となっていた。「ヱ」は「衛」の簡体字である。関空から乗ったリムジンバスは後方にあるトイレのことを「厠所」としていたが、中国でこの言葉を見かけたことはない。
男女別の英語表記は男性がMale,女性Femaleとしているところが多かった。

 

公共ヱ生間(公衆トイレ)

公共ヱ生間(公衆トイレ)

最終日に宝物の博物館を訪れた。二枚の看板が掛かっていた。前には「藝術」、後方には「藝朮」となっている。日本では「藝」を「芸」に簡略化したが、反対に中国では、難しい「藝」を残し「術」を「朮」にしている。

8. お金と支払い
中国のお金の単位は元である。8月30日の関西空港での両替レートは1元が16.43円であった。人民元安と円高の効果であった。100元、50元、10元のお札が渡された。中国国内で買い物した時、お釣に1元、5元のお札が渡された。日本やアメリカ、ヨーロッパのようにコインがあるのかわからない。
しかし、現在の中国では現金が使われることはなく、ほとんどスマホ決済である。およそ7割の人がスマホで支払っているという。関空行きのリムジンバスの切符を買う時現金で支払い、紙の切符を受け取った。長沙の空港の市内行きのバス停には、行先ごとのQRコードの案内板があった。かなり進んでいるようだ。

行先別QRコード

行先別QRコード

9. 発展する中国
至る所で建物や道路が建設されている光景を見た。すでに経済力は米国に次ぐ世界二位である。ますます発展する力強さを感じた。初めて見た長沙の町は高層建物が立ち並び30年以上前に見たアメリカのニューヨークかと思うほどであった。

長沙のホテル客室から 

長沙のホテル客室から

長沙郊外

長沙郊外

今年で建国70周年になる。至る所に政治スローガンが書かれていた。
一番よく目についたのが社会主義価値観である。富強、民主、文明、和諧
など十二の言葉が並ぶ。小学生が覚えるそうだ。右の富強以下の四つは国家、真中の自由以下は社会、最後の愛国以下は公民(国民)の価値観である。国家目標が富強というと明治政府の富国強兵政策を思い出させる。

日本は漢字を中国から学んだが、このポスターにある社会主義、自由、平等、公正、法治などは明治時代に中国の留学生が持ち帰ったものである。

日本は漢字を中国から学んだが、このポスターにある社会主義、自由、平等、公正、法治などは明治時代に中国の留学生が持ち帰ったものである。

日本は漢字を中国から学んだが、このポスターにある社会主義、自由、平等、公正、法治などは明治時代に中国の留学生が持ち帰ったものである。

10. その反面
発展する中で、環境問題が気になった。毎日、曇り空の日が続いたが、同じ曇りでも日本とは違って、どんよりと靄が掛かっていた。高層ビルの写真からも分かる。
人々は親子の会話でも大声でする。店では売り子がマイクを付けて呼び込む。観光地ではガイドがマイクを使って大きな声で説明をする。とにかく、どこへ行っても騒々しい。
タバコの場所は指定されているが守られていない。トイレは煙草の煙で充満し臭い。高速道路のサービスエーリア(服務区)には下の写真の貼り紙があった。バスの運転手はガソリンスタンドでタバコの吸い殻を捨てた。

ガソリンスタンドで喫煙

ガソリンスタンドで喫煙

禁止吸煙、禁止随地吐痰など

禁止吸煙、禁止随地吐痰など

ガイドに「痰、唾を吐くな」の注意書きを見たというと、これはアフリカから来た人に対するものだとムキになって反論した。それでも、ゴミが散らかっているという印象はなかったが、シェア自転車が沢山放置されている印象を受けた。

中国は革命後10数年を経った頃、革命の成果で、「ハエ一匹いなくなった」とのニュースが伝えられた。それから、70年経った今年、クルーズ船の中でも蠅が飛んでいた。
しかし、国が豊かになると清潔で衛生的な国に発展し、人々のマナーも改善されるのではないかと思う。とはいえ、至る所に政治スローガンが溢れ、行く先々でパスポート、名前入り入場券と荷物検査をされると監視社会を旅行しているようで息苦しい。

11. その他ガイドの説明
長沙では65歳以上には無料のバス乗車券が配布される。老人が空調の効いたバスに乗り一日を過ごす。
以前は、役人に賄賂が必要であったが、今は一掃する運動が行われている。

さいごに桂林の女性ガイド李さんが語った言葉が印象的であった。中国は5千年の歴史がある。10数年間の日本との不幸な歴史に拘っていては、国は発展しない。
髙田 忍(2019,9,8)

名称変更について思うこと

名称変更について思うこと

多彩な人材

 2015年10月、主に関西在住の会員20数名で発足した関西黄斑変性友の会は、活動内容の充実が充実し、中でもホームページによる日常的な情報発信を務めてきた結果、グーグル検索のトップに掲載されるようになった。

 特に抗VEGF薬の注射で手術している写真はこれまでに約4万件のアクセスがあった。患者やその家族だけでなく医療関係者も閲覧されているようで、その紹介で入会する人もいる。その結果6月10日現在の会員数は73名となった。「病気は人を選ばず」で全国から多彩な人材を会員に迎えるようになり、当会の貴重な財産となった。(8月26日現在79名)

抗VEGF薬の注射で手術している写真

 このように会員が全国に広がってきた状況を考えると、会の名称の「関西」は地域団体の印象を与える。むしろ、関西ではiPS細胞から作った網膜細胞を移植するなどの先進的な臨床研究が行われている。関西こそ全国の中心ではないかとの思いから、「NPO法人黄斑変性友の会」に変更することに決定した。

 6月10日臨時総会を行った。会員総数の過半数を超える55名(委任状を含む)の出席があり、満場一致で賛同を得た。ただし課題も残った。実際に出席した人数はわずか21名で、過去の出席数と比べると下から二番目に少ない人数であった。また、返信用はがきに切手を貼っていたにも関わらず出欠の回答のない人が11名もいたことであった。定例会をより魅力的にするなどの工夫が必要かもしれない。

 

役所の仕事

 法人名を変更するについて、3月に大阪市役所のNPO法人担当に手続きを聞きに行った。係の人から70ページ(付属ページを含めると82ページ)もある「特定非営利活動法人(NPO法人)運営の手引き」という冊子を手渡された。

 臨時総会の数日前に、用意した申請書類のチェックを受けるためた窓口を訪れ、確認することにした。会の名称は定款の第一条に規定されているので、定款の変更手続きをすればいいと考え、「定款変更届書」(第6号様式)に変更内容と理由を記載し、「議事録」と「変更後の定款」を添えて持参した。

 ところが、「名称変更」の場合は、「定款変更認証申請書」(第5号様式)が正しい手続きであるとの指摘を受けた。どちらも、書類に記入する内容は変更内容と変更理由のみで同じであるにもかかわらず、異なる書類を用いる仕組みになっている。

 総会の翌日、窓口を訪れ書類を提出した。すると、窓口にああ現れた女性係員が開口一番「予約しましたか」との応対である。それならば、事前に「予約をとってから来るように」といえばいいのに、役所とはこんなものか。

 お役所の仕事は事前に丁寧に説明すればいいのに、いつも後から問題を指摘する。

 一応書類を預かってくれたが、代表者の印は個人印ではなく、法人印であるとの指摘を受けた。たしかに70ページに及ぶ説明書には「法務局に届けた印」と書かれていた。しかし、申請する書類にも「法人印」との記載があれば、迷わずに済むではないか。

この法人印も、山梨県の会員の方に無料で作って頂いた。多彩な人材は何物にも代えがたい当会の貴重な財産である。

 もっとも、議事録には署名・押印するようにと注意が書かれていたが、実際は自筆ではなく予め印字したものを提出した所、受理された。規則と異なるではないか!

 翌日、法人印を押印した書類を再提出した。市役所には結局4回も足を運んだ。

 

たのんまっせ、市長さん

 申請書類の選択や記入方法、押印する印鑑の間違いは私だけではあるまいと思う。市役所の係員は、間違いの傾向を把握しているはずである。申請者には、70ページの冊子を渡すときに、注意すべきポイントにマーカーで示して説明するくらいの親切心が欲しいと思う。

 民間会社であれば、事務改善の提案制度があり、優秀な提案には報奨金が支払われ、日夜改善の努力をしている。お役所には改善という意識はないのだろうか。

 大阪府と大阪市の一体化が検討されているが、市民に身近な書類の一体化を提案したい。書類の具体的な一体化の案を示します。参考にしてください。

具体的な一体化の案

具体的な一体化の案

 それにしても気がかりなことが一つある。府と市が一体化された場合、大阪市のNPO法人はどうなるのだろうか。新たに申請が必要になるのだろうか。。。

 

認証から登記変更届まで

 6月11日、臨時総会の翌日に提出した定款変更認証申請書は一か月間の閲覧期間を経て、ほぼ2カ月後の8月19日に認証された。翌20日に市役所で認証書を受け取り、大阪谷町二丁目にある大阪法務局へ変更登記するために訪れたた。相談窓口の女性に、登記変更のために必要な書類は何かと質問した。女性は、そのような相談は予約が必要だという。訪問した時間は午前11時30分で、予約できたのは2時間後の午後1時30分であった。

 質問の内容は簡単であるから、その場で答えられるはずである。2時間も待つわけにはいかない。予約をキャンセルし、自宅に戻り法務省のホームページで調べると「名称変更」の用紙をダウンロードした。添付書類として、市役所の認証書、総会議事録、定款の三つが必要であることが分かった。

 このような基本的な手続きは、窓口で説明できるようにしてほしいし、そうでなければ説明書の閲覧が出来るようにしてほしい。民間がこのような対応をすれば、お客は離れていくと思う。

 翌日、受付窓口に行くと添付書類は全て原本が必要という。一応受理されたが、総会議事録の原本は市役所に提出してある。市役所から原本を借り受け、法務局に再提出した。すべての手続きが終わったのは8月27日である。

 ところがその場で登記事項証明書をもらえるわけではない。翌日の28日であった。結局法務局へは4回も足を運んだ。

 これですべて完了というわけではない。市役所に「登記事項証明書提出書」という書類を市役所に、登記事項証明書とその写しを添えて提出する。これは郵送でもよい。

 とにかくお役所の仕事は手間がかかるものである。

フレイル(健康な状態と要介護の中間)予防のすすめ

フレイル予防のすすめ

- 高齢者の健康維持について -

フレイルという言葉を聞いたことがありますか。これは、健康な状態と要介護の中間を表す言葉です。

フレイル1

フレイル1

先ず次のイラストでチェックしてみましょう。

フレイル2

フレイル2

さらに次の絵を参考に「指輪っかテスト」で自己チェックしてみましょう。

すき間が出来る人は要注意です。

 

指輪っかテスト

指輪っかテスト

いつまでも健康でいるためにはフレイル予防をする必要があります。そのために三つのことが大切です。
すなわち、「栄養」「運動」「社会参加」です。

社会参加

社会参加

先ず、栄養についてはバランスの取れた食事をすることです。特に高齢者はメタボを気にして、動物性蛋白を控える傾向があります。メタボを気にするあまり、低栄養に陥ることがないように気を付けましょう。肉や牛乳などバランスの取れた食事をする必要があります。

栄養バランス

栄養バランス

食事をするときに、気を付けることはよく噛むことです。やわらかい物ばかり食べていると噛む機能が衰えてきます。

次に、体を動かすようにしましょう。何もしないと筋肉が衰えます。
一番手軽な運動は歩くことです。いつもより少し速く歩くように心がけましょう。

今より10分

今より10分

筋トレのコツ

筋トレのコツ

さいごに社会参加です。一人で家に閉じこもらないで、他の人に交わることを考えましょう。友の会では「歩こう会」「二水会」など色々な行事計画しています。これらに積極的に参加することをお勧めします。

ウォーキング 大川沿いウォーキング

ウォーキング 大川沿いウォーキング

黄斑変性友の会 二水会

黄斑変性友の会 二水会

高齢運転者(70歳以上)の免許更新手続き パート2

高齢運転者(70歳以上)の免許更新手続き パート2

 

今年(2017年)3月12日から、高齢者運転者の免許更新手続きが改正されました。下の図は警視庁のホームページからダウンロードしたものです。

改正前と後

改正前と後

 

1.75歳未満

更新期間が満了する日において、75歳未満の人は合理化講習(2時間)の後、免許更新される。

 

2.75歳以上

75歳以上は高齢者講習に先立ち認知機能検査を受けなければならない。

認知機能検査の結果が76点以上は75歳未満と同じ合理化講習を、49点から75点は高度化講習、48点以下は医師の診断を受け高度化講習を受けるか、または認知症と診断された場合は免許取り消しの対象になる。

下の写真は兵庫県公安員会からのお知らせである。右の中央部分に検査の総合点についての説明があるが、真ん中の「49点~75点以上」は明らかに「49点~75点以下」の誤りである。

免許証更新通知はがき

免許証更新通知はがき

3.認知機能検査は記憶力、判断力の検査である。検査時間は約30分である。

5問出題される。問題用紙、回答用紙と鉛筆が配られる。

(第一問)検査日の年月日、曜日、時間を記入する。検査開始前に時計を外すようにいわれる。

 

続いて正面のディスプレイに合計16枚の絵が映し出される。一画面に4つの絵が出され、全部で4つの画面が映される。

例えば、最初の画面では4つの枡の中に大砲、ラジオ、タケノコ、ばらが描かれている。係員が「電気製品は」と聞くので声を出して「ラジオ」と言って覚える。声を出すことは記憶の手助けになる。

実際は写真ではなくイラストの絵である。

大砲 パイプオルガン
耳 ラジオ

 

てんとう虫 ライオン
たけのこ フライパン

 

ものさし バイク
ぶどう スカート

 

ニワトリ バラ
ペンチ ベッド

 

(第2問)回答用紙には、一行に約10個の数字がならび、これが10行ほど書かれている。係員が黒板に例えば「1,3」と書くので、その数字を消し込んでいく。続いて「6,7,9」を消す作業を行う。

黒板

黒板

(第3問)先に示された絵を思い出しながら、回答用紙に言葉で書く。順序不同で、ひらがな、カタカナ、漢字を問わない。

(第4問)回答用紙には「1.武器」「2.電気製品」などと書かれている。「大砲」「ラジオ」などと書き込んでいけばよい。

1.武器

2.楽器

3.体の一部

4.電気製品

5.昆虫

6.野菜

7.動物

8.台所用品

9.文房具

10.乗り物

11.果物

12.衣類

12.鳥

13.花

15.大工道具

16.家具

 

(第5問)白紙の回答用紙に文字盤の入った時計の絵を描く。係員が例えば「11時10分」というので短針と長針の区別が分かるように書き込む。

 

4.認知機能検査の通知は、免許証更新時期の約6か月前に3枚つづりのハガキで送られてくる。ハガキには認知機能検査を受けられる同じ都道府県内の自動車教習所のリストが書かれている。自動車教習所はどこも繁忙である。ハガキを受け取ったら直ちに予約する必要がある。兵庫県西宮市の教習所の場合、4月にハガキが届き認知機能検査を受けたのは8月後半になった。

 

5.認知機能検査は検査当日にはわからない。後日ハガキが届くので、あらためて合理化講習、又は高度化講習の予約をする必要がある。

 

6.公安委員会での運転免許証更新の予約は必要ではない。

名称変更について思うこと

名称変更について思うこと

多彩な人材

2015年10月、主に関西在住の会員20数名で発足した関西黄斑変性友の会は、活動内容の充実が充実し、中でもホームページによる日常的な情報発信を務めてきた結果、グーグル検索のトップに掲載されるようになった。 特に抗VEGF薬の注射で手術しているブログ記事一件だけで2017年6月3日投稿以来これまでに56,660件のアクセスがあった。患者やその家族だけでなく医療関係者も閲覧されているようで、その紹介で入会する人もいる。その結果6月10日現在の会員数は73名となった。「病気は人を選ばず」で全国から多彩な人材を会員に迎えるようになり、当会の貴重な財産となった。

痛みを感じない注射、一瞬

痛みを感じない注射、一瞬

 

今年三月に入会した神奈川県の男性会員から、「会の名称の頭に「関西」がついていると、関東に在住する者は、入会することに心理的抵抗を覚える。「関西」を取ってはどうか」との積極的な意見が寄せられた。たしかに「関西」がつくと、地域団体の印象を与える。むしろ、関西ではiPS細胞から作った網膜細胞を移植するなどの先進的な臨床研究が行われている。関西こそ全国の中心ではないかとの思いから、「NPO法人 黄斑変性友の会」に変更することに決定した。

6月10日臨時総会を行った。会員総数の過半数を超える55名(委任状を含む)の出席があり、満場一致で賛同を得た。ただし課題も残った。実際に出席した人数はわずか21名で、過去の出席数と比べると下から二番目に少ない人数であった。また、返信用はがきに切手を貼っていたにも関わらず出欠の回答のない人が11名もいたことであった。定例会をより魅力的にするなどの工夫が必要かもしれない。

 

役所の仕事

法人名を変更するについて、3月に大阪市役所のNPO法人担当に手続きを聞きに行った。係の人から70ページ(付属ページを含めると82ページ)もある「特定非営利活動法人(NPO法人)運営の手引き」という冊子を手渡された。

臨時総会の数日前に、用意した申請書類のチェックを受けるためた窓口を訪れ、確認することにした。会の名称は定款の第一条に規定されているので、定款の変更手続きをすればいいと考え、「定款変更届書」(第6号様式)に変更内容と理由を記載し、「議事録」と「変更後の定款」を添えて持参した。

ところが、「名称変更」の場合は、「定款変更認証申請書」(第5号様式)が正しい手続きであるとの指摘を受けた。どちらも、書類に記入する内容は変更内容と変更理由のみで同じであるにもかかわらず、異なる書類を用いる仕組みになっている。

総会の翌日、窓口を訪れ書類を提出した。すると、窓口にああ現れた女性係員が開口一番「予約しましたか」との応対である。それならば、事前に「予約をとってから来るように」といえばいいのに、役所とはこんなものか。

お役所の仕事は事前に丁寧に説明すればいいのに、いつも後から問題を指摘する。

一応書類を預かってくれたが、代表者の印は個人印ではなく、法人印であるとの指摘を受けた。たしかに70ページに及ぶ説明書には「法務局に届けた印」と書かれていた。しかし、申請する書類にも「法人印」との記載があれば、迷わずに済むではないか。

この法人印も、山梨県の会員に無料で作って頂いた。多彩な人材は何物にも代えがたい当会の貴重な財産である。

もっとも、議事録には署名・押印するようにと注意が書かれていたが、実際は自筆ではなく予め印字したものを提出した所、受理された。規則と異なるではないか!

翌日、法人印を押印した書類を再提出した。市役所には結局4回も足を運んだ。

 

たのんまっせ、市長さん

申請書類の選択や記入方法、押印する印鑑の間違いは私だけではあるまいと思う。市役所の係員は、間違いの傾向を把握しているはずである。申請者には、70ページの冊子を渡すときに、注意すべきポイントにマーカーで示して説明するくらいの親切心が欲しいと思う。

民間会社であれば、事務改善の提案制度があり、優秀な提案には報奨金が支払われ、日夜改善の努力をしている。お役所には改善という意識はないのだろうか。

大阪府と大阪市の一体化が検討されているが、市民に身近な書類の一体化を提案したい。書類の具体的な一体化の案を示します。参考にしてください。

大阪府と大阪市の一体化が検討されているが、市民に身近な書類の一体化を提案したい。書類の具体的な一体化の案を示す。

大阪府と大阪市の一体化が検討されているが、市民に身近な書類の一体化を提案したい。書類の具体的な一体化の案を示す。

それにしても気がかりなことが一つある。府と市が一体化された場合、大阪市のNPO法人はどうなるのだろうか。新たに申請が必要になるのだろうか。。。

津軽海峡春景色

津軽海峡春景色

石川さゆりの演歌「津軽海峡冬景色」に出て来る竜飛岬を是非見たいと思い、5月13日から4日間、青森、秋田の三大半島を巡る旅行に参加した。青森の太平洋側が下北半島、日本海側が津軽半島、南に下って秋田には男鹿半島がある。津軽海峡は青森と北海道の間の海峡で、潮は日本海側から太平洋側に向かって流れているが、月に一回は逆に流れることがあるそうだ。

津軽海峡冬景色の歌碑

津軽海峡冬景色の歌碑

1.岬
下北半島、本州最北端にある岬が大間崎である。本マグロのセリで全国的に知られている。灯台の向こうにうっすらと見えるのは北海道函館である。

 

大間崎灯台

大間崎灯台

本州最北端の碑

本州最北端の碑

 

津軽半島の最北端にあるのが竜飛岬である。北海道新幹線は竜飛岬の下を通っている。断崖絶壁の岬である。

竜飛岬

竜飛岬

入道崎は男鹿半島の西端にあり北緯40度の線が走っている。北緯40度には北京やスペインのマドリードがある。

大間崎       

大間崎

北緯40度

北緯40度

              

2.あの世
恐山
恐山は下北半島の中央部にある。赤い橋は三途の川にかかった橋で、左がこの世である。恐山の歴史は古く1200年前、比叡山延暦寺の僧が開山した寺である。現在は、福井永平寺の傘下にある。

三途の川

三途の川

恐山山門

恐山山門

火山ガスが噴出する岩肌の一帯が地獄、湖を取り巻く白砂の浜が極楽とされ、「人は死ねば山へ行く」と信じられてきた。テレビで死者との会話の仲立ちをするイタコという老女を見たことがあるが、常駐しているわけではない。

地獄

地獄

極楽浄土

極楽浄土

 

                

仏ケ浦
秘境仏ケ浦は下北半島の西河岸にある。岩々には仏にちなんだ名がつけられ、極楽浄土を思わせる世界が広がっている。パンフレットによると、かつて海底火山活動が盛んな時期があり、噴出物が緑色凝灰岩の層を形成したという。

仏ヶ浦

仏ヶ浦

3.遅い春
大阪空港から青森空港へは日本海沿いに北上した。山形県と秋田県境にある鳥海山は雪を被っていた。

鳥海山

鳥海山

神奈川県の横浜と同じ地名の町には菜の花祭りが行われていた。
桜はソメイヨシノを見かけることは少なく、家の庭に咲いた八重桜が丁度満開の見ごろを迎えていた。

菜の花畑

菜の花畑

八重桜

八重桜

津軽半島を南下する山道から見た新緑の風景はすがすがしかった。

秋田県にはかつて、琵琶湖に次いで大きな湖、八郎潟があった。昭和30年代から干拓が行われ水田に代わった。田植えが始まったばかりで、青空が水面に映って日本の春を思わせた。12キロに及ぶ直線道路の両側には菜の花が咲いていた。

八郎潟の水田

八郎潟の水田

12キロの直線道路

12キロの直線道路

寒風山から見た八郎潟水田

寒風山から見た八郎潟水田

4.空の見張り
青森や秋田は日本海を挟んで外国と接している。ミサイルをキャッチするレーダーが設置されていた。
下は下北半島釜臥山のレーダーである。恐山の山門越しに望遠レンズで撮影した。

レーダーサイト

レーダーサイト

写真は男鹿半島に置かれたレーダーのある山である。

5.鉄道、道路、船
この旅行での移動手段は、鉄道、バスと船であった。
下北半島には戦前、最北端の大間まで鉄道を敷く計画があった。一部では駅や鉄橋が建設されたが戦後資金難で見送られた。下風呂温泉の幻の駅である。   

幻の駅

幻の駅

北海道新幹線の本州側最北の駅は奥津軽いまべつ駅という。ここには在来線の駅と、道の駅がある。いずれも駅名は異なるそうだ。

五能線の鰺ヶ沢から深浦まで約一時間日本海沿いに走った。海岸沿いには岩があり、車窓から見た風景は飽きることがなかった。難読地名の駅があった。馬三つで「とどろき」と読む。普通は車が三つの「轟」だが、理由はよくわからない。

五能線沿いの日本海

五能線沿いの日本海

こんな字がある?

こんな字がある?

道路では車が通れない階段の国道339号が竜飛岬にあった。役人が、現地を見ないで机の上で国道を決めたらしい。秋田県内には「朴瀬」と書いて「ほのきせ」という難読地名があった。

車の通れない階段国道

車の通れない階段国道

これも難読地名?

これも難読地名?

下北半島から津軽半島へはフェリーで渡った。約一時間の途中、イルカが近寄ってくるのが見えた。船室の入り口には「二等旅客室」と書かれていた。かつて国鉄時代には一等車、二等車の区別があったが、いつの頃からか一等車はグリーン車と呼ばれるようになった。何となく違和感を覚えた。

6.祭りと伝統
青森の祭りといえば「ねぶた」である。写真は道の駅に展示されていた大湊の海上自衛隊の作品である。

大湊の海上自衛隊の作品

大湊の海上自衛隊の作品

毎年、年末になると、家にやってくるなまはげを見た子供が泣き叫ぶ姿が放映される。なまはげは男鹿半島に伝わる伝統行事である。角があるが鬼ではなく、神とされている。伝承館があり30分おきにその様子が演じられていた。主人との間に問答が交わされる。パンフレットには問答の例として「親の面倒見ない悪い嫁いねが(いないか)」と書かれているが、果たして今の時代に通用するかと思う。ますます若い人が地方から離れていくのではないかと危惧しつつ旅が終わった。

なまはげ

なまはげ

(髙田 忍 2019,05,18)

写真で辿る「おくのほそ道」

写真で辿る「おくのほそ道」

髙田 忍

 

今年の2月、今冬一番の強烈な寒波が到来するという日に宮城の松島と山形の蔵王を巡るツアーに参加した。その中に山寺という普通名詞のような寺が含まれていた。山門の中に入ると驚いたことに松尾芭蕉の有名な「閑けさや岩にしみいる蝉の声」の句碑があった。

 

近くに芭蕉記念館があり、館内に入ると、芭蕉が歩いた奥の細道の地図が掲げられていた。地図をよく見ると、かつて訪ねたことのある地と重なり合う。そこで、写真で奥の細道を辿ることにした。

江戸

江戸

芭蕉は江戸の上野・谷中に庵を構えていた。

「去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて」旅に出た。

初めて東京という大都会を見たのは1956年春(昭和31年)中学校の修学旅行の時であった。大津から汽車に乗り熱海で一泊し、江の島、鎌倉の大仏と横浜の港を巡り、東京に着いた。国会議事堂を見学し、皇居の二重橋前で記念写真を撮った。

それから60年後再び皇居を訪れた。この時は、二重橋の裏側から丸の内のビルを撮影した。

千住

千住

往春や鳥啼魚の目は泪

 

芭蕉は旅立ちに当たり、奥の細道に「むつましきかぎりは宵より集ひて、舟に乗りて送る。千じゅと云ふ所にて船をあがれば」と書いている。

浅草付近から船に乗り隅田川を上ったのであろうか。それとも、荒川かは奥の細道からは判断できない。

千住付近を初めて通ったのは,日光へ新婚旅行に行く途中である。職場の上司から学生時代の友人の長女を紹介された。何度かデートを重ね、半年後の1967年11月19日大阪のホテルで結婚式を挙げた。行先は行ったことのない日光を選んだ。大阪空港から羽田まで初めて飛行機に乗った。空港へは両家の両親が見送りに来てくれる時代であった。東京モノレールはオリンピックの年に開通していた。浜松町から上野までは山手線、地下鉄銀座線で浅草へ、さらに東武電車に乗り換え日光に向かった。キャリーカートのような便利なものはなく重いスーツケースを手に持った。

2016年5月、全国赤十字大会に出席する予定でJALの格安チケットを予約していた。ところが2月に発生した熊本地震により大会が中止になった。チケットをキャンセルするよりも初めての鬼怒川温泉へ行くことに変更した。

東武電車日光行き特急に乗り浅草駅を発車した直後に撮影した。スカイツリーが背後に見える。芭蕉が千住へ行くために舟に乗ったのはこのあたりではないかと思いつつ川を渡った。

 

日光 

あらたうと青葉若葉の日の光

 

日光へは三度も来ている。最初は新婚旅行の時で、二度目は東京勤務時代に親子三人で、そして昨年ツアーに参加し三度目になった。

 

新婚旅行の時は中禅寺湖畔の宿に泊まり、翌日バスで戦場ヶ原まで足を延ばした。華厳の滝や東照宮を見た後東京に戻った。学生時代の友人O君と3人で品川のプリンスホテルで食事をした。あくる日4年間学んだ大学も案内し帰阪した。

 

まだ駆け出しの会社員でカメラを買う余裕はなかった。この写真は絵ハガキで50年以上たっても色あせていない。ハガキ7円の時代である。

 

芭蕉が東照宮へ来たのか定かではない。奥の細道では二荒山と書かれている。二荒山は男体山のことである。

二荒山

二荒山

 

暫時は滝に籠るや夏の初

奥の細道には「廿余丁山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭に落ちたり。」とある。

華厳の滝

華厳の滝

 

 

那須 

野を横に馬牽むけよほとヽぎす

田一枚植て立去る柳かな

 

東京下町生まれ二人の友人の誘いで那須岳に登ったのは大学二年生の時である。このためにリュックと登山靴を新たに購入した。親からの仕送りとアルバイト、奨学資金で暮らす貧乏学生にとっては大きな出費であった。甲子温泉の山小屋というものに泊まるのは初めての経験であった。その後、自分の足でのぼる登山とは縁遠くなった。毎日残業の会社では、登山が出来る時間はなく、また年齢とともに体力も衰えた。この時の登山靴は足に合わなくなり捨てたが、リュックはまだ残っている。

2015年4月18日那須のリゾートホテルに宿泊し、翌日は三春の滝桜を見に行った。写真はホテルから見た那須岳である。水芭蕉などが芽を出していた。

那須岳

那須岳

 

 

福島 

早苗とる手もとや昔しのぶ摺

筏も太刀も五月にかざれ帋幟

 

昭和39年オリンピックの年を迎え、日本は高度経済成長の時代に差し掛かろうとしていた。労働力が必要になり、地方とりわけ東北の中学生が大挙して東京へ働きに出て来た。終着駅の上野は中学生であふれ、これを集団就職という言葉で表現した。その前年、社会学科に進学していた。社会学といっても焦点の定まらない学問で、頭に「労働」とか「農村」とかを付ければ何でも社会学になる。その中に、社会調査という科目があった。毎年5月に行われる大学祭で、4年生有志が共同で一つのレポートを仕上げることになった。テーマは集団就職を選んだ。但し、もったいぶって小難しく「都市流入若年労働者」と名づけ、社会調査をすることになった。

3年の終り頃から準備が始まる。多くの中学生を送り出す福島市郊外の中学校へ意識調査に行った。福島駅からローカル線で西の方へ向かったように思う。具体的な地名は勿論のこと、調査の内容は今ではもう思い出すことができない。

この時、福島大学の学生寮に泊めてもらった。大学の寮の間でお互いに宿泊を認め合うような慣習があったようだ。3月とはいえ東北は寒くて、よく眠れなかったことだけは思い出す。

その当時の学生はカメラを持っていない。写真もない。最近訪れた福島の写真に替える。

       

三春の滝桜

三春の滝桜

 

              

只見湖

只見湖

 

名取

笠島はいづこ五月のぬかり道

 

今回の松島・蔵王の旅を終え仙台空港へ向かう途中通過した。車窓から撮った写真は名取川である。

名取川

名取川

 

 

 

仙台

あやめ草足に結ばん草鞋の

 

ぼくにとって仙台は東北旅行の時に空港を利用するだけの通過都市である。東北一の大都市でありながら市内に入ったことは一度もない。空港の写真だけがある。8年前の津波で松が流され空港も大きな被害を受けた。

仙台空港からみた風景:松林の先に海

仙台空港からみた風景:松林の先に海

 

 

松島

 

芭蕉は松島では句を作っていない。旅立ちの文を抜粋する。

「白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、もヽ引の破れをつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかヽりて、住むる方は人に譲り」

松島の光景を見るのが大きな目的であったようだ。奥の細道の後の方でも「松島」と「象・潟」が旅の目的として登場する。松島を次のように表現している。

「抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」

から始めて、湾内の光景を描写している。その部分を記した碑がある。

 

松島には人の住む4つの島を含めて260の島がある。その一部の写真である。

 

 

松島や鶴に身を枯れほとヽぎす  曾良

 

瑞巌寺

芭蕉は松島の後、近くの瑞巌寺を詣でている。句はなく文を残している。引用する。

 

十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依りて、七堂の甍改まりて、紺碧荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。

 

地元の観光案内書によれば,瑞巌寺は天長5年(828年)慈覚大師の創建と伝えられ奥州随一の禅寺で仙台藩主伊達政宗の菩提寺である。伊達政宗は独眼竜政宗ともいわれる。バスガイドは天然痘に罹ったと説明した。映画では大柄の俳優が演じているが実際は小柄であったそうだ。

 

平泉

夏草や兵どもが夢の跡

五月雨を降りのこしてや光堂

 

2016年4月東北の桜を見るツアーには、最終日に中尊寺が含まれていた。日記にはただ一行「中尊寺金堂を見学して仙台空港から戻った」と記されているだけである。写真も撮っていない。このツアーに参加した主な目的は弘前城の桜と太宰治の生誕地金木町近くの枝垂桜を見ることであった。写真がないのはバッテリーが切れたためではないかと思う。

 

尾花沢

涼しさを我宿にしてねまる也

這出よかひやが下のひきの声

まゆはきを俤にして紅花の花

 

尾花沢の銀山温泉は今回の蔵王、松島のツアーの二日目に組み込まれていた。地元の観光案内には「1741年に温泉地として盛んになる」と記されている。芭蕉が銀山温泉を訪れたかは定かでないが、この記述からすると芭蕉の時代には温泉はなかったと思われる。かつて銀山があったことから銀山温泉と名づけられた。昔の風情のある温泉街で観光案内には「大正ロマンあふれる」と宣伝している。この宣伝文句から、もう一度来るとすれば紅葉の美しい秋に星空が見える時期が一番いいのではないかと思う。冬の季節にあえて泊まるのはいかにも侘しい。冬の雪景色が珍しい中国人観光客で賑わい写真撮影に余念がなかった。

銀山温泉

銀山温泉

銀山温泉は間欠泉が出る温泉だという。短時間で各地を駆け足で回るツアーでは、蒸気が噴き出す瞬間まで待つ余裕はない。かつて、アメリカで見たイエローストーンの間歇泉は巨大であった。

 

山寺(立石寺)

閑かさや岩にしみ入蝉の声

 

この句は高校時代に覚えた句で、芭蕉の句の中では最もなじみのある句である。

山寺に来て、頭の中で描いていた情景と実際に見る景色とは大きく違っていた。芭蕉は奥の細道を歩く時に蝉の声を聞いたのであるから、森の中の平坦な道を歩く姿を思い描いていた。小川が流れ、意識するほどもない程度の岩がある。森の中の木にとまった蝉が静かに鳴き始め、辺りにこだまする。その音が岩に溶け込んでいく。暑い夏も涼しく感じるような句であると。

実際に山寺に来てみると、そこにある岩は思い描いたよりはるかに大きかった。むき出しの岩を見ると、静けさとは程遠いうるさいほどの蝉の声がしたのではなかろうか。山寺ははるか上に建っていた。

実は、この山寺には2015年8月出羽三山に来た時に立ち寄っていることが分かった。まったく記憶から抜けていた。この時、他の人たち山寺のある所まで登って行ったが、その高さに気おくれがして、下で待っていた。もしお寺のある所まで登っていれば、八月の終わりではあったが、夏の最後の蝉の声が聞こえたのかもしれない。

 

2015年8月撮影    

2015年8月撮影

        

2019年2月撮影

2019年2月撮影

岩

 

 

 

大石田 

五月雨をあつめて早し最上川

 

大石田は山寺から尾花沢(銀山温泉)に向かう際に通過しただけの所である。芭蕉の通ったルートと反対とは反対であった。東北は幾度も旅行地に選んでいるが、残念ながらこれが最上川だという記憶はない。

最上川は富士川と九州の球磨川と並んで三大急流のひとつといわれている。写真は最上川に替えて富士川の急流下りである。

 

富士川急流下り

富士川急流下り

 

出羽三山

 

2015年8月末、3泊4日で猪苗代湖、裏磐梯など福島県、出羽三山など山形県を巡る旅に参加した。サンダーバードと開通したばかりの北陸新幹線を乗り継いで上越妙高駅でバスに乗った。三日目に出羽三山を訪れた。

 

羽黒

有難や雪をかほらす南谷

涼しさやほの三日月の羽黒山

 

羽黒山には見上げるほど高い五重塔があった。芭蕉は「有難や」で始まる句に続いて、地名の由来を紹介している。

延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写。「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍るとやらん。月山、湯殿を合て三山とす。

五重塔

五重塔

月山

雪の山幾つ崩て月の山

 

ハイキングコースから見た鳥海山である。

鳥海山

鳥海山

 

 

湯殿山 

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 

神社の中は撮影禁止で写真はない。神社の中に滝が流れていて裸足になって歩いた記憶がある。身を清める儀式のひとつであったようだ。写真の山が湯殿山かどうか確信はない。この写真は写りが悪いが。良く見ると赤い鳥居が写っているから間違いない。湯殿山に向かうバスから撮影したものと思う。

 

酒田

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

暑き日を海にいれたり最上川

 

出羽三山を訪れた日は温海温泉に泊まった。翌日、鳥海山に向かう途中酒田を通過した。再び、上越妙高へ戻るときにも通過した。

写真は鳥海山から酒田方面を撮影したものではないかと思う。前後の写真から間違いない。

 

               

鳥海山から酒田方面を望む

鳥海山から酒田方面を望む

 

二つ目の句に登場する最上川は酒田を経由して鳥海山に向かう途中に渡っている。一瞬のことだし、写真もなければ記憶にもない。

 

 

象潟

象潟や雨に西施がねぶの花

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

鳥海山から望む

鳥海山から望む

写真は鳥海山5合目から象潟方面を撮影したものである。象潟は秋田県「にかほ市」にある。「にかほ」は漢字で仁賀保と書く。ぼくの旧姓仁賀(にが)を含む地名が秋田県にあることは、地理の時間に気付いていた。どのような土地か興味を抱き続けてきた。とはいえ、奥の細道の象潟に関係するとはつゆ知らずにいた。鳥海山から見下ろすと随分景色のいい所であった。

仁賀は全国でも数少ない名字である。琵琶湖の西岸、白髭神社を挟んで南と北にある二つの在所、打下(うちおろし)と鵜川(うかわ)にしか存在しないとされている。

子供の頃、父は明治になって百姓も名字が許されたと教えてくれた。仁賀の名字は、昔この地を治めた戦国武将、仁賀五郎左衛門からもらったのだという。この武将の名は溝口譲二監督の映画「雨月物語」にも出て来るともいう。そういわれると信じるしかない。

父が亡くなった後に、「雨月物語」が大阪梅田の映画館で上映されていることを知り確かめにいった。舞台は賤ケ岳の合戦があった戦国時代の近江である。たしかに二回も「にが」の名を耳にした。

目でも確認しておこうと、キネマ旬報社の映画のシナリオをアマゾンから取りよせた。ところが、仁賀の文字はなく、あったのは丹羽であった。丹羽五郎左衛門のことである。丹羽長秀五郎左衛門は信長に仕えた実在の人物である。戦国の時代に大溝城を治めたという史実がある。キネマ旬報は昭和31年12月10日の発行で150円であった。

 

それでは、この名字は一体どこから来たのか。興味がふくらむ。インターネットで調べると広島県の三次市とNHK朝ドラ「マッサン」の舞台になった竹原市にその地名の在所があることが分かった。仁賀小学校が三次市にも竹原市にもある。

2014年7月、早速現地を訪ねることにした。三次市では図書館に立ち寄り、郷土史のような本を見せてもらったが、地名以外には何もなかった名字はない。竹原市では郷土史研究家の方にお会いした。「マッサン」の造り酒屋など市内の観光案内をしていただいた後、仁賀という在所にある延命寺というお寺に案内していただいた。女性住職の話によると、昔仁賀藤右衛門という人がいた記録があるという。しかし、現在仁賀姓を名乗ってといういる人はいない。念のため電話帳を調べたがなかった。

もしかすると、戦国に時代に山陽道を通って近江に来た侍がいたのかもしれない。たしかなことは言えない。未だに謎である。

三次市

三次市

竹原市

竹原市

                  

 

出雲崎 

荒波や佐渡によこたふ天河

 

出雲崎は出羽三山への旅で、山形から妙高駅に向かう途中通過したはずである。佐渡の島へ渡ったことはないが、見たことはある。日本酒の名前にもなっている八海山に登った時にはるか遠くに見えた。登ったといってもロープウェイだが、好天に恵まれかすかに佐渡島が見えた。上の方にうっすらと黒っぽく見えるのが佐渡である。

その後2017年秋、金沢港からクルーズ船に乗り北海道の苫小牧へ向かう途中、朝の5時半頃佐渡の横を通過した。

 

      

八海山から見た佐渡

八海山から見た佐渡

クルーズ船飛鳥から見た佐渡

クルーズ船飛鳥から見た佐渡

        

金沢 

わせの香や分入右は有磯海

塚も動け我涙声は秋の風

秋涼し手毎にむけや瓜茄子

あかあかと日は難面もあきの風

 

金沢へ初めて来たのは学生時代、三年生の時である。目的はゼミの社会調査のために富山のベアリングを製造する会社を訪れることであった。調査に参加した4人が兼六公園に立ち寄り記念写真を撮った。

50年後、再び同じ場所に立った。

何時来たか分る。昭話38年11月8日であった。翌日、東京へ戻る時にニュースで三池炭鉱の爆発事故と鶴見駅列車事故が起こったことを知った。

かねてより、金沢のある加賀藩が何故百万石もの経済力があるのか疑問に思っていた。その後、何度か訪れる内にその理由が分かったように思う。領内には砺波平野の米、五箇山の硝煙、城端の絹、奥能登の塩と炭があった。塩を松前藩に売り昆布を仕入れた。

加賀藩は米を始めとするこれらの産物を上方の京・大坂で売りさばいた。その物流ルートは若狭湾から琵琶湖を経るものであった。

 

永平寺

五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避けて、かかる山陰に跡を残し給ふも、貴きゆへ有とかや。(奥の細道)

 

2017年12月11日、東尋坊を訪ねる。嵐のような天気で早々に引き上げた。東尋坊とは恨みを買ってここから突き落とされた坊さんに由来があると説明を受けた。岩は柱状節理で構成され規模は大きいといわれる。

東尋坊の後、永平寺を参拝した。山門をくぐると、階段の多いお寺であった。お寺の中に掲示してある「人生に定年はない」の文句が気に入った。早速、写真に撮った。この気持ちを持ち続けよう。

人生に定年はない

人生に定年はない

大広間でビデオを流していたので少し時間もあったので見ることにした。三徳六味という精進料理の解説であった。六味とは苦、辛、甘、鹹、酸、淡のことである。

 

小松

しほらしき名や小松吹萩すゝき

むざんやな甲のしたのきりぎりす

その後金沢の兼六園へ向かう。三度目である。途中「小松」付近で見えた日本海は大荒れであった。

 

小松付近 : 冬の日本海

小松付近 : 冬の日本海

 

敦賀 

月清し遊行のもてる砂の上

名月や北国日和定なき

 

敦賀は特急サンダーバードで金沢や上信越地方へ行く時に通過することの多い駅である。敦賀駅に降りたのはたったの二回しかない。最近では昨年2月ひと筆書きの冬の旅を試みた時である。古くは10年以上前にかつてヨーロッパの玄関口であった港を見に行った時である。そこには、新橋ー伯林間の切符が展示されていた。

敦賀駅から小浜線の方を望む

敦賀駅から小浜線の方を望む

 

 

大垣

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

 

芭蕉は敦賀から大垣へは北国街道を歩いた。福井県から現在の滋賀県長浜市、米原市を経て岐阜県に入った。途中、戦国時代に織田軍と浅井・朝倉軍の戦いの舞台となった姉川を渡り、近江の最高峰伊吹山を左に眺めながら南へ歩んだ。奥の細道は大垣で終わる。

姉川        

姉川

伊吹山

伊吹山

                  

大垣は2012年3月、東海道線から樽見鉄道線に乗り換え谷汲駅に向かう時に通過した駅である。2010年1月に前立腺癌と診断され、京大病院でIMRTという放射線治療を受けた。神にすがる思いで西国三十三札所巡りを思い立った。早速、京大病院近くの行願寺から始めた。旅行会社のツアーではなく、電車やバスの公共交通を利用し自分の足で巡ることにした。例外は日本海側の舞鶴や宮津のお寺で、そこへは車を運転して行った。

岐阜の谷汲山華厳寺は三十三番目、最後の参拝となった。満願成就した。しかし目的を遂げたというような達成感はなかった。治療はすでに終わっていたからだと思う。途中から「神にもすがる」気持ちが次第に薄れ、御朱印帳に判を押してもらうことだけが目的になってしまった。まるでスタンプラリーをしているようであった。

谷汲山華厳寺

谷汲山華厳寺

樽見鉄道

樽見鉄道

      

 

石山 幻住庵

芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えた翌年大津石山の幻住庵という草庵で暮らしたことがある。幻住庵の存在については、高校の教材に幻住庵記があり覚えていた。

石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。・・・・

蓬、根笹軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。

今年3月5日、天気も良く春めいてきたので、幻住庵を訪れることにした。名神高速から京滋バイパスに入り石山で出ると案内標識が目の前にある。右へ行くと石山寺、左が幻住庵である。10分ほど走ると到着し無料駐車場に停めた。木々に囲まれた階段を上がっていくと、そこに幻住庵がある。

番をしている人が愛想よく「どこから来たのか」と話しかけノート差し出された。住所と名前を記帳した。この人の説明によると、芭蕉は元禄三年(1690年)四十七歳の時、四月六日から七月二十三日まで三カ月半、静養のため幻住庵に入った。

庵は大津市が1991年復元したもので、実際は幻住庵記にあるように「屋根は雨漏りし、壁は落ちて、狐や狸の格好の寝床になっていた」といって、絵を見せてくれた。

今の幻住庵(1991年復元)

今の幻住庵(1991年復元)

雨漏りした幻住庵の絵

雨漏りした幻住庵の絵

 

伊賀上野

幻住庵を出ると旧東海道の狭い道を通り抜け瀬田の唐橋を渡った。芭蕉の生家は名神高速を経由してほぼ1時間のところにあった。上野赤坂町である。大通りに面していたが、ナビがなければ見つけにくい。喫茶店の駐車場に停めさせていただいた。生家は補修中の貼り紙があり中を見ることはできなかった。土塀は江戸時代からのものに見えたが、建物は昭和時代のようだった。

伊賀上野赤坂町の生誕地

伊賀上野赤坂町の生誕地

伊賀上野赤坂町の生誕地

伊賀上野赤坂町の生誕地

 

 

大坂

大坂滞在中の句

秋深き隣は何をする人ぞ

 

芭蕉は最期を大坂で迎えた。元禄七年(1694年)十月十二日、御堂筋の旅館「花谷仁左衛門」の離れで永眠した。五十一歳であった。ネットで調べると、大坂に来た理由は弟子の酒堂と之道の争いを調停するためであった。

生誕地伊賀上野を訪れた翌日、3月6日に芭蕉終焉の地を訪ねた。交通の激しい御堂筋の側道と本堂の間にひっそりとあった。大阪市中央区久太郎町3丁目である。地下鉄御堂筋線本町駅で下車、南の方へ歩く。高層道路の下を通り抜け、次の信号との間にある。

気の付く人もなく、花束も置かれてはいない。

芭蕉終焉の地

芭蕉終焉の地

 

膳所(ぜぜ

芭蕉の遺骸は、その日のうちに淀川を船で伏見まで運ばれ陸路、膳所義仲寺・木曽義仲の隣に葬られた。

「旅に病んで・・・」の碑

「旅に病んで・・・」の碑

芭蕉の墓

芭蕉の墓

            

 

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 

この句は芭蕉が亡くなる前に病中吟と前置きして作った句である。その碑は墓とともに義仲寺の中にある。

芭蕉は生前、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言していた。木曽塚とは膳所(ぜぜ)にある木曽義仲の墓のことである。木曽義仲は源範頼・義経の軍勢と戦い惨敗、膳所の近くの粟津で1184年に討ち死にした。義仲の亡骸は当地に葬られた。その後変遷があり、義仲寺と呼ばれるようになった。

幻住庵でいただいた資料によると、芭蕉は遺言に「ここは東西のちまた、さざ波きよき渚なれば、契り深かりし所也」と記している。近江では、琵琶湖のことを単に「うみ」という。水は人の心を和ませてくれる。今では、膳所のこの辺りは「うみ」が埋め立てられホテルや百貨店がある。昔は芭蕉が眠るこのあたりまで、渚があったのである。東の方には近江富士といわれる三上山、西には雪を被った比良山系の山が見える。このような地で安らかに眠りたいと思ったに違いない。

うみと近江富士

うみと近江富士

うみと比良山系の山

うみと比良山系の山

 

膳所は3年間の高校生活を送った所である。膳所は芭蕉とのつながり近い土地であることが背景にあったのかもしれない。古文の授業では奥の細道が教材のひとつになっていた。この一文を書くにあたり、すぐに幻住庵のことが頭に浮かんだ。幻住庵記の一部も習ったからである。幻住庵のある石山国分も膳所からさほど遠くはない。

 

母校の前で

母校の前で

 

アメリカ人の親切

アメリカ人の親切

ワシントンの桜

アメリカ生活2年目、1994年4月のことであった。バージニア州にある会社と技術提携の話を進めていた。その会社はWinchesterという南北戦争の激戦地にあった。北軍と南軍が毎日のように入れ替わった所である。首都ワシントンから車で北西に約80キロメートルの所にある。その会社で打ち合わせのために金曜日に訪問することにした。

週末はワシントンで過ごし、ポトマック川の桜を撮る計画である。そのため少しばかり高級なカメラを買った。ワシントンの空港に着いたのはお昼時であった。軽食の店の前でカメラの入ったショルダーバッグを椅子の上に置き、何を食べようかとショーウィンドーのメニュウを見ていた。一瞬の出来事だった。気の付いた時にはショルダーバッグが消えていた。ワシントンはアメリカの首都である。世界の首都といってもよい。世界で最も安全な都市と思い込んでいた。置き引きに遭うとは夢にも思わなかった。

訪問先に着くと、真っ先に被害に遭ったことを話した。それを聞いた社長が「アメリカ人として大変申し訳ないことをした」と犯人でもないのに謝ってくれた。その上、打合せが終わり帰る時に、「お詫びのしるしに」と新品のカメラを渡してくれた。

写真はそのカメラで撮ったワシントンの桜である。やや色あせているが、フィルム写真だから仕方がない。ぼくにとっては貴重な写真で、額に入れて書斎に飾っている。これを見ると、いつもアメリカ人の親切を思い出す。

 

 

 

 

Wonderful

デトロイトに赴任して3年目、1995年4月阪神淡路大地震の年のことである。自動車用電子部品を製造する工場の予定地ミネソタ州に出張する日々が続いた。ミネソタ州はカナダと接し、ミシシッピ河が流れ出す源でもある。古い世代であれば「ミネソタの卵売り」という歌謡曲で知られた馴染みのある州である。

ミシシッピ川の洪水

ミシシッピ川の洪水

 

週末を利用してカナダ国境までレンタかカーでドライブすることを思い立った。土曜日の朝、州都セントポールを出発し途中鉱山跡に立ち寄り北上した。その夜は国境近くの湖畔のホテルに泊まった。

翌日曜日、国境沿いに針葉樹林の森の中を東へ走り南下することにした。国土の広いアメリカはどこまでも同じ景色が続く。やがて薄暗い森の中を抜けると、一面菜の花畑が広がった。そして、その前方に突然湖が現れた。五大湖の一つスペリオル湖である。向こう岸は見えない。まるで海のようであった。景色の単調な森を走り続けてきた者にとっては、水のある風景は心を和ませてくれる。この光景を是非写真に撮っておきたい。思い出として残しておきたい。車を停めるとカメラを持って飛び出した。ワシントンの桜を写したカメラである。何枚かフィルムに収めた後、車に戻った。ドアが開かない。キーを差し込んだままロックしてしまったのだ。窓ガラスを壊すわけにもいかない。携帯電話も中に置いたままで、知人に連絡する術もない。半ばパニック状態に陥った。

治安の悪いデトロイトでは、車が故障し路上に停止した場合、車外に出てはいけないというのが鉄則だ。強盗の被害に遇う危険が高まる。暫くの間、車の陰で身を隠していた。しかし身を隠したところで事態は解決しない。行動が先だ。人の助けを借りる他には解決する道はないと意を決した。

車の陰から恐る恐る出て、手を振って助けを求める合図を送ることにした。片田舎のことで、通る自動車はそれほど多くない。気付かないのか、トラブルに巻き込まれたくないのか、手を振っても通り過ぎて行く。やがて通り過ぎて行った車が引き返してきて停まってくれた。事情を話すと、次の町で警察に連絡すると言ってくれた。救われた気持ちになった。パトカー(英語ではpolice car)を待つ間も、手を振っていないのに、何台かの車が止まり「May I help you?」と聞いてくれた。

ミネソタにはノルウェーやスウェーデンなど北欧から移り住んだ人が多い。湖や森が多く気候風土が似ているため住むのに適したに違いない。寒い土地で農業や林業で暮らす人々は困っている人を見かけた時は、自然と助ける習慣が身に着いたのではないかと思う。

ほどなくパトカーが2台も到着した。薄い鉄板をガラスとドアの隙間に差し込んで開けてくれた。車を停めて助けてくれた人や警察官に何度もお礼を言った。翌日、地元の新聞社に感謝の気持ちを認めた手紙を出した。

この地方の人々は日常会話で「Thank you」というと、{Wonderful}の言葉で返す。何と素晴らしい表現ではないか。言葉だけではない。この地の人々の人情もWonderfulである。

その時写した写真である。日本であればこのような風景はどこにでも見られる。陸ばかりのアメリカでは、湖や川の水のある風景を見るとホッとする。4月も終わりに近いというのに湖はまだ氷で覆われていた。ワシントンの桜の写真とともにぼくにとっては大切な写真である。