ぼくの寄り道 【長編・読み応えあります】
髙田 忍
旅の始まり
平成も最後という年の二月、冬の東北、宮城の松島と山形の蔵王を巡るツアーに参加した。出発前の予報では今冬一番の強烈な寒波が到来するということだった。無理に行かなくてもと心が揺らいだが、来年になれば天気が良くなるという保証はない。日本三景の厳島と天橋立は何度かその景色を見ているが、松島へは一度も行ったことがない。「松島やああ松島や松島や」とうたわれる景色を是非見ておきたい。冬ならではの光景を見せる蔵王の樹氷も興味がある。せっかく予約していることでもあり出発することにした。
空港に雪が積もり飛行機は飛ばないのではと思ったが、杞憂に終わった。仙台空港に着陸すると東北の冬とは思えない程の快晴で青空が広がっていた。やはり太平洋側は東北といえども晴れた日が多いと納得した。松島は風も穏やかで湾内を遊覧した船もさほど揺れなかった。翌日の蔵王はロープウェイで山頂近くまで行った。体感温度は氷点下十度を下回り、さすがに寒かったが、吹雪で見えないということはなく、珍しい樹氷の光景を見ることができた。案ずるより産むがやすしとはこのことであろうか。
蔵王を下山してバスに乗ると、添乗員が次の行きは山寺だと案内した。この時まで山寺が目的地になっていることに、頭にはなかった。何故このようなありきたりの普通名詞のような名前の寺に行くのだろうか。今夜宿泊する温泉までの時間調整ではないか。童謡「山寺の和尚さん」の山寺だろうか。そんな疑問を持ちつつ現地に行ってみると、天台宗のれっきとしたお寺であった。別の名を立石寺ともいい比叡山延暦寺とつながりのある寺である。中には根本中堂もあった。
山門の中に入ると、驚いたことに芭蕉の有名な「閑けさや岩にしみいる蝉の声」の句碑ある。有名な句だ。この句にある「岩」はどのようなものか想像したことがある。そこには想像と異なり巨大な岩があった。これまで頭に描いた岩とは異なる姿であった。
川を渡り対岸から山寺を一望した。山寺は岩山のはるか上に立っていた。近くに芭蕉記念館があった。館内に入ると、芭蕉が歩いた奥の細道の地図が掲げられていた。地図をよく見ると、かつてぼくが訪ねたことのある地と重なり合うところが多い。単に三日間の旅日記を書くよりも、芭蕉の歩んだ道と重ね合わせながら紀行文を書いてみよう。早速、スマホからアマゾンで岩波文庫の「おくのほそ道」を注文した。
タイトルを決めた。題して「ぼくのほそ道」。芭蕉の「おくのほそみち」を縦糸にして、これまでの人生を振り返り見たこと、聞いたことを横糸にして「ぼくのほそ道」を織り上げてみよう。旅日記もあれば、紀行文もある。これまで歩んできた人生も織り込もう。折に触れ書き残した駄文も入れておこう。写真も付ければアルバムにもなるような構成にしよう。
まずは芭蕉の歩いた江戸から始めよう。
江戸
芭蕉は江戸の上野・谷中に庵を構えていた。「去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて」旅に出た。
夢にまで見た東京
ぼくが初めて東京という大都会を見たのは一九五六年春(昭和三一年)中学校の修学旅行の時であった。夢にまで見た東京である。東京が日本の中心であると教えてくれたのは母である。小学校三、四年生の頃、母が柴刈りをするのを手伝いに裏の山に登った。天気の良い日には、東の方を見ると湖の向こうに汽車が煙をたなびかせて走っていた。琵琶湖の対岸には東海道線があった。母は「あの汽車に乗ると東京まで行くことが出来る」と説明してくれた。母は幼い十代の頃、東京高円寺にある政治家の家に預けられ、今では死語となった女中奉公をしていたことがある。汽車の煙を見て懐かしさからつい出た言葉であったのかもしれない。同じ在所の七軒南の半兵衛という家に生まれた母は、奉公から戻ると程なく父と結婚し久左という家に来た。二十歳になる前であった.
丸太に鎹(かすがい)を打ち込み,綱を括り付け肩から引っ張って山から家まで運び下した。もらった駄賃で「子供の科学」を買い、天の川や北斗七星、カシオペア座など星空を眺めて子供時代を送った。
四年前の三月、ほぼ六十年ぶりにこの山に登った。中学時代の旧友Y君から誘いがあり、平安時代に建てられた長法寺跡や戦国時代の打下城跡に登る会に参加した。その昔、母と登った道をたどった。山裾から七曲りというくねくねとした道を上がって行くと、登り切った所に湧き水の水飲み場があり、そこでしばらく休んだ。さらに、はす池や馬の足と呼ぶ岩の横を通り過ぎると柴刈り場にようやく着いた。村の者なら誰でも入れる入会地であった。残念なことに、この日はかすかに沖島の島影が見えるだけで、春霞で対岸の湖東平野は見えなかった。
六十年の歳月が過ぎるのは早い。この間、人々の生活スタイルが大きく変わった。燃料は柴からガスに変わり、人手が入らない山は荒れ放題であった。
昭和三一年春、待ちに待った東京への修学旅行の日が来た。大津から汽車に乗り熱海で一泊し、江の島、鎌倉の大仏と横浜の港を巡り、東京に着いた。皇居の二重橋前で記念写真を撮り、国会議事堂も見学した。議事堂を見学できたのは、当時の衆議院議長が滋賀県の出身で便宜を図ってくれたと聞いた。お土産に名前入りの下敷きをもらった。
修学旅行から四年の日が過ぎ高校を卒業した年に再び上京することになった。京都の国立一期校を受験するため北野天満宮に合格祈願をしたが、不合格になり東京の二期校を受験するためであった。渋谷で玉川電車に乗り桜新町で下車、世田谷新町二丁目住む母の叔母の家に泊めてもらった。受験会場は東京大学本郷の法文系教室であった。残念ながらこれも不合格。その後しばらくは家の二階で増進会の通信添削などで受験勉強をしていたが、姉妹弟など周囲の目が気になり勉強に集中できない。小学校の卒業式で校長先生が話した「琵琶湖の鮎は全国の河川に放流すると大きく成長する」との言葉が心の片隅に残っていた。
七月の初め頃であったと思う。父に東京の予備校に行かせてほしいと頼みこむと認めてくれた。とりあえずの落ち着くところがない。県の職員であった父が奔走してくれ武蔵野市にある県の学生寮・湖国寮に入ることができた。夏休みで帰郷した学生の空き部屋を使わせてもらうことになった。夏休みが終わり大学生が東京に戻る前に、文京区金富町の下宿に移った。引っ越し荷物は自分で運んだ。中央線を二~三回往復したと思う。国電の飯田橋駅から下宿まで少なくとも一キロの距離はあった。特に布団袋が重く汗をかきながら、ようやく運び終えた。勉強机と本棚は日本橋の三越で買った。この机は、その後の度重なる引っ越しにも耐え抜き今でも健在である。パソコンを置く台として活躍している。
下宿は地下鉄丸の内線の後楽園駅と茗荷谷駅の間にあった。後楽園を池袋方面に進むと間もなくトンネルに入る。そのトンネルを出た所にあった。三畳一間で朝夕二食の賄付であった。食事は一汁一菜で物足りなく感じたが、正月には特別に関東風の澄まし汁の雑煮が出された。一階と二階に夫々二部屋ありトイレは共用であった。洗濯は大きめの金盥を使った。ある日金盥にカッターシャツを付けたまま予備校へ行ったことがある。帰ってみると、白いシャツが鉄さびで汚れ茶色くなっていたことがある。飯田橋駅まで歩いて四谷の予備校に通った。「テンテンテン、ブルブルブル」といって黒板に書きながら授業をした英語の先生の姿を今でも思い出す。
幸い翌年三月には合格した。父に電報で「サクラサク」と知らせた。当時の全国紙の地方版には大学合格者の名前が掲載された。父は職場の同僚に見せるほど喜んでくれた。ようやく父に報いることができた。
父は明治四十二年の生まれで近衛兵としては召集されたが、農作業で小指を失っていたので戦地に赴かなくて済んだ。県の職員に採用された。学歴が高小卒であったため課長以上には上がれなかった。大学出に追い越されていく屈辱を味わっていたようだ。息子にはそのような思いをさせたくない。浪人をしてでも大学に進学することを許してくれたのである。
安田講堂で行われた入学式には母が付き添ってくれた。その頃、東海道線はすでに全線電化されていた。父が京都駅の助役をしていた親類の人に頼み、運行を始めたばかりのビジネス特急こだま号の切符を手に入れてもらった。この時も、世田谷新町に住む叔母さん夫婦の家に泊めてもらった。母にとっては二十数年ぶりの東京であった。近くに住む従姉妹にも再会し話に花を咲かせていた。
浪人時代を含め四年八カ月の学生生活を東京で送った。下宿も世田谷池尻、豊島区椎名町、世田谷の八幡山、さらに練馬の南大泉と転々と変わった。
昨年、浪人時代を過ごした文京区金富町の下宿付近を訪ねてみることにした。木造の下宿屋は跡形もなく小さなワンルームマンション風に立て替えられていた。
マイホーム
卒業後、大阪に本社のある会社に就職し兵庫県伊丹の工場勤務となった。始業の午前八時になると拡声器から流れる「高い煙突煙を吐いて稲野笹原靡けとばかり」の工場歌を毎日聞きながら八時までに出勤した。公害が未だ問題にならない時代でに作られた歌である。二年後、職場の上司の紹介で結婚した。七年後には営業部に転勤となり再び東京暮らしが始まった。大阪万博の前年に生まれた娘は三歳になっていた。世田谷の農大前の社宅が用意されていた。近くには馬事公苑があり静かで緑が多く環境の良い場所ではあった。しかし戦後間もない家電製品のない時代に建てられた古くて狭いアパート。親子三人が川の字になって寝た。洗濯機を置く場所もなく狭いベランダに置くしかなかった。しかも風呂は木製であった。
いくら周囲の環境がよくても狭くては住むのに適さない。世田谷での生活は二年で打ち切り、日野市南平に建売住宅を買った。頭金は自己資金で、残りは父の援助とローンで賄った。初めてのマイホームである。裏山に多摩動物園があり、夜中になると時々動物の鳴き声が聞こえてくるような所であった。冬の晴れた日には富士山が間近に見えた。五歳になった娘のために妻の両親がピアノを買ってくれ、近くの先生のもとにレッスンに通った。これが、その後の娘の人生を決めることになる。京王線で新宿まで出て、さらに地下鉄で赤坂見附まで通勤する毎日であった。座ることができず、まさに痛勤電車であった。
五年間の東京勤務が終わり、再び伊丹の工場勤務に戻った。日野の家は会社がしばらくの間、借り上げ社宅にしてくれたが、老朽化とともに誰も住む人がいなくなった。
伊丹転勤後の二年間は尼崎にある社宅に住むことになった。社宅は通勤には便利であったが2DKで狭い。その上、前に住んでいた人がヘビースモーカーだったのか、部屋に煙草の臭いが染みついていた。家賃を払ってまで長くいるところではない。二年後には宝塚清荒神の2DKのマンションをローンで買った。近くに宝塚ファミリーランドもあり環境もよかったが、ここも長くはいられなかった。ピアノの音がうるさいとの苦情があり、引っ越しせざるを得なくなったのである。不動産価格が上昇を続けている頃で転売により利益を出すことが出来た。
その転売益をもとに伊丹にマンションを買い替えた。部屋には防音装置を入れた。ようやく落ち着き十年ほど住み続けた。平成に入り、バブル崩壊前後の時に.このマンションを売却し、西宮五月ヶ丘に4DK庭付きのマンションに買いかえた。娘はこの頃、東京の音楽大学付属高校に進んでいた。妻は子供の手が離れパートとして働きに出た。ぼくは一九九二年にアメリカに単身赴任したため、実質的に住む機会は少なかった。
初めてのマイホーム、日野南平の家は長く空き家の状態が続いた。人が住まなくなった家は朽ちるのが早い。十数年前、市役所から電話があり、スズメバチが巣を作っているとの苦情が寄せられているという。早速業者に頼み、駆除に立ち会った。
二〇一二年に更地にしてようやく売却することができた。その時はすでに妻はなくなり娘と上京し売買契約書にサインした。
東京へ来たついでに皇居を見学することにした。全国から奉仕団の人が来て清掃する姿に頭が下がった。二重橋は中学校の修学旅行の時とは異なり裏側から見た。橋は二つかかっていた。新年の一般参賀や内閣の認証式の記念写真が撮影される場も見学した。
千住
往春や鳥啼魚の目は泪
芭蕉は旅立ちに当たり、奥の細道に「むつましきかぎりは宵より集ひて、舟に乗りて送る。千じゅと云ふ所にて船をあがれば」と書いている。浅草付近から船に乗り隅田川を上ったのであろうか。それとも、荒川かは奥の細道からは判断できない。
新婚旅行
千住付近を初めて通ったのは,日光へ新婚旅行に行く途中である。入社して二年目の四月、職場の上司から学生時代の友人の長女を紹介された。何度かデートを重ねた後、その年の一一月一九日大阪のホテルで結婚式を挙げた。新婚旅行は二人とも行ったことのない日光を選んだ。伊丹空港から羽田まで初めて飛行機に乗った。飛行機が未だ珍しい時代のことで、空港へは両家の両親が見送りに来てくれた。東京モノレールはオリンピックの年に開通していた。浜松町から上野までは山手線、地下鉄銀座線で浅草へ、さらに東武電車に乗り換え日光に向かった。キャリーカートのような便利なものはなく重いスーツケースを手に持って運んだ。
最近、といっても三年前の二〇一六年五月、東武電車に乗り千住付近を通過した。全国赤十字大会の兵庫県代表に選ばれた。大会に出席する予定でJALの格安チケットを予約していた。ところが二月に発生した熊本地震により大会が中止になった。格安なのでチケットをキャンセルすることが出来ない。行先を行ったことのない鬼怒川温泉に変更した。湯に入った後、翌日東京に戻り大相撲を観戦する計画を立てた。
浅草駅を発車した直後に振り返るとスカイツリーが背後に見えた。その光景を写真に撮った。芭蕉が千住へ行くために舟に乗ったのはこのあたりではないかと思いつつ川を渡った。
日光
あらたうと青葉若葉の日の光
日光へは三度も来ている。最初は新婚旅行の時で、二度目は東京勤務時代に親子三人で、そして昨年ツアーに参加し三度目になった。
新婚旅行の時は中禅寺湖畔の宿に泊まり、翌日バスで戦場ヶ原まで足を延ばした。華厳の滝や東照宮を見た後東京に戻った。学生時代の友人O君と三人で品川のプリンスホテルで食事をした。あくる日、妻を四年間学んだ大学へ案内した。まだ駆け出しの会社員でカメラを買う余裕はなかった。アルバムに貼られた日光東照宮の絵ハガキは五十年以上たった今も色あせていない。ホテルの絵ハガキとともに収めてある。表には7円と書かれている。郵便料金はほぼ十倍になっている。その当時と比べるハガキの料金は九倍になっている。
O君は大阪での結婚式披露宴にも来てくれた。一年生の時からクラスが同じで、八王子の浅川橋の近くに母親と住んでいた。家業が八百屋さんで日野にいた頃は家族ぐるみの付き合いをしていた。帰りには野菜を持たせてくれ、家計が大いに助かった。O君はNHKに勤務していた。ある年、ニューイヤーオペラコンサートのチケットを手に入れてくれたことがある。会場は渋谷のNHKホールである。テレビでしか見られない番組を生で鑑賞し親子三人大いに感激した。
O君は結婚後、八王子高尾のマンションに居を構えていた。ぼくが定年後、東京へ行く機会がある時は、ピアノの下に布団を敷いて泊めてもらうことが多かった。他の誰よりも勉強家で廊下にも本棚が置かれ、本がところ狭しと並べられていた。勤めの傍ら、こんなにも勉強するのかと感心もし、一方ではお金のことを心配した。
芭蕉は日光の名前の由来を説明している。
卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書きしを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。
のことである。「二荒」を音読みすれば「にっこう」となり「日光」という字を当てたのであろう。
暫時は滝に籠るや夏の初
奥の細道には「廿余丁山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭に落ちたり。」とある。華厳の滝のことだと思う。滝の思い出を書くことにする。
イグアスの滝
新婚旅行の時に見た華厳の滝の大きさと高さには驚いた。それまでは小学校二年生の遠足で行った南隣の村にある楊梅の滝しか知らなかった。落差はわずか数メートルであるが、その頃は大きく感じた。
ところが世界にはもっと大きなスケールの滝がある。南米のイグアスの滝と北米のナイアガラの滝である。イグアスの滝はアルゼンチンとブラジルの国境にある。二〇一五年三月南米のツアーに参加した時に訪れた。その巨大さに圧倒された。日本からはロスアンジェルスとペルーのリマを経由する。経由地での便の接続が悪く、家を出てからホテルに着くまで四十八時間の長旅であった。初日はアルゼンチン側、二日目はブラジル側から見た。日本では華厳の滝や那智の滝のように一筋の水が流れ落ちる滝を想像する。アルゼンチン側は無数の滝からなり、どれが中心の滝かよくわからない。あちこちに幅の広いところを水が流れている。近くから写真を撮ったが、水飛沫がカメラにかからないよう気を使った。ブラジル側は悪魔の喉笛というところがメインであった。
滝の大きさもさることながら、アナグマや巨大なトカゲなど珍しい野生動物が警戒もせず、近づいてくる。人に襲い掛かることはない。五色の蝶にも出会った。一眼レフカメラで何枚も写した。
イグアスの滝が終わると、ペルーの首都リマに戻った。この南米の旅では、ペルーが主な訪問地であった。
三月七日 ナスカの地上絵
深夜の二時起床である。ホテルが用意した弁当を持参してバスは午前三時に出発した。暗闇の中をリマから太平洋に沿って南へ約四時間走ってピスコという町の小さな空港に着いた。空港では、ひとりひとり体重を量りバランスを計算し席を決め小型飛行機に乗り込んだ。乗客は一機当たり五、六人という小型機である。いよいよナスカの地上絵が見られる。天気も良く、また朝が早く他の観光客もいなかったので順調にことが運んだ。地上絵の写真を撮るためにカメラをバッグから取り出した。ところがレンズが出たままで作動しない。滝の水しぶきで故障してしまった。もう一つの一眼レフも昨日自動シャッターになっていたのでバッテッリーが上がってしまった。残念ながら、せっかくの機会を逃す結果になった。現地まで三十分の飛行で上空を三十分ほど旋回してくれた。猿やハチドリなど事前に予習していた地上絵を見て感動した。ナスカはインカより古い文明だそうだ。
三月八日 ウルバンバ
午前中はリマ市内の教会などを観光した。市内では小物の民芸品などを売る物売りが執拗に迫ってくる。次の目的地クスコへは一時間の飛行であった。標高三千メートルのアンデス山中の町である。かつてインカ帝国の都がおかれていた。クスコに着くと、バスで宿泊地ウルバンバに向かった。二時間ほどで着いた。途中、なだらかな山の間を走った。景色がよかった。カメラを使えないのが残念である。ガイドは日本語が流暢である。小中学校を日本で過ごしたという。
山間の村にあるホテルは新しく気持ちがよかった。季節の花が庭に植えられ周囲の山々と調和のとれた光景は素晴らしかった。それでもトイレに紙を流さないようにとの注意が貼られていた。夕食はスープの後、魚料理(ます)が出され、じゃがいも料理が毎日続く中で美味しくいただいた。
三月九日 マチュピチュ
バスで鉄道駅に向かった。バスの中から、屋根の上に十字架と牛の置物があるのに気付いた。ガイドに聞くと、キリスト信仰と土着信仰が混じっているという。牛はエネルギーの源泉だそうだ。列車に乗るときパスポートの提示を求められた。列車が走り出すと雪を被った山が見える。車内では無料で飲み物が出された。乗ってから約二時間でマチュピチュに着く。マチュピチュは一四五〇年代に作られた。スペインに破壊されることはなく、一九〇〇年代になってアメリカ人に発見された。
マチュピチュ観光の間は雨が降らなかった。ホテルを出た時は何枚も着込んだが、標高が高くなるのに暑くなってきた。やはり熱帯であると実感し少しずつ脱いでいった。昼食のためレストラン に入った時、突然熱帯性の激しい雨が降り出した。
三月十日 クスコ
クスコの街を観光しアルパカのマフラーを60USドルで買う。この国では米国同るが通用している。インカを侵略したスペインはその建物の上に宮殿や教会を建てた。インカの建築の特徴は石垣が台形になっていること、石垣の隙間に髪も入らないほど精巧に作られていることである。町の中ではハチドリを見かけた。
標高が高いためか、昼食の食欲はなかった。バスを待つ間、現地ガイドにスペインに対する思いを聞いたが、過去のこと、未来を見て生きていると気にしていない様子だった。長い時の経過が人種間のわだかまりを解決したのかもしれない。町の至るところに物売りが近寄ってくる。中には三歳児が片言の日本語で「三個1ドル」といって携帯のストラップを売りに近寄ってきた。痛ましい。かつては日本もこのような時代があったと思うと、今の時代に生きていることを感謝しなければならいとの思いになる。
帰国前の夜、リマで日本食のオプションツアーを申し込んでいた。出された日本食なるものは、モルモットの肉入りの野菜炒めであった。これが95ドルとはいかにも高い。大阪の地下街なら千円もしない。帰国後、旅行者の社長あてに代金返還を求める内容証明を出した。後日返還された。
(2018,11,2)
ナイアガラの滝
北米にも巨大な滝がある。誰でも知っているナイアガラの滝である。イグアスの滝に比べてナイアガラの滝は大人と子供の差がある。ナイアガラへは二度も行った。最初は一九九二年アメリカデトロイトに単身赴任した年、週末に一人旅で訪れた。カナダのトロントまで飛び、鉄道に乗り換えた。仕事仲間のアメリカ人からナイアガラは新婚旅行の聖地だと皮肉られた。テレビの司会者大橋巨泉が経営する店があり、半そでのカラーシャツを買った。生地が丈夫で今も夏になると着ることにしている。
翌年再び訪れた。その頃、わずか三人の家族はそれぞれ別の国に住んでいた。日本にいる妻と、東京の音楽大学を三年で中退しパリの国立高等音楽院に留学していた娘をアメリカに呼び寄せた時である。ナイアガラとカナダ東部を旅する計画を立てた。家族三人揃っての旅はこれが最初で最後となった。
ボストンの空港で娘と待ち合わせ、レンタカーを借りた。初日はタングルウッド音楽祭へ行き小澤征爾指揮のコンサートを楽しんだ。翌日ナイアガラまで車を走らせた。防水の合羽を着てボートに乗り滝つぼの近くまで行った。思い出として残っている。
ナイアガラでレンタカーを返しアメリカの鉄道AMTRACKに乗りカナダへ向かった。
モントリオールで一泊し植物園を訪ね、翌日再び鉄道に乗りケベックまで行き宿泊。ファーストクラスの車内ではワインサービスがあった。ケベックはフランス人が入植した町だが、後にイギリスとの戦争に敗れた。ケベック要塞ではロンドンのバッキンガム宮殿と同じ服装をした衛兵が一緒に写真を撮らせてくれた。ケベックからハリファックスに飛び、「赤毛のアン」で知られるプリンスエドワード島を観光するためであった。娘は、この物語を読んでいたので感激していた。
二百平米の独り住まい
自動車の町デトロイトに赴任したのは、自動車部品を売り込むことが目的であった。1992年から一九九九年まで七年もの間、単身赴任を続けた。ワンフロア二〇〇平米もあるアパートに落ち着いた。独り住まいには贅沢な部屋で風呂とトイレがそれぞれ二つ、ベッドルームも二部屋あった。このアパートを紹介してくれたのは、かねてより親しく付き合っていたS氏であった。ブレーキの異音を抑える材料を作る会社の営業部長であった。年に一~二回、赴任前に購買課長をしていたぼくを訪ねてきてくれた。一九八五年阪神タイガースが優勝した日には、梅田で喜びに沸くファンに出くわしたことがある。デトロイトを本拠地にするチームもタイガースという。
単身赴任するにあたり、妻は圧力鍋を持たせてくれた。デトロイトには日本人も多く食料品の買い出しには困らなかった。和食のレストランも沢山あり食べ物には困らなかった。ただ問題はボリュームが多い。沢山食べる客に合わせて店は料理を出す。朝食を除いて外食が多くなる。運動不足と食事の量のお蔭で体重が次第に増えて行った。
冬の初め、池が凍り始めるころ白鳥が姿を現した。真冬のデトロイトは氷点下30度にも下がり、屋外では息もできないくらいだ。水蒸気が凍るダイヤモンドダストもよくみられた。フリージングレイン(Freezing Rain)という現象もある。一見した所、雨にしかみえないが、地上に落下した途端、雨が氷になる。過冷却現象という。樹木の枝は霧氷のように氷で覆われる。路面は凍結し、歩くと滑って転倒する。制御を失った車同士が衝突し毎年何人かの犠牲者が出た。風が吹き抜ける橋も運転するのは極めて危険である。アクセルを踏まず、ほとんどニュートラルの状態でそろりそろりと動かないと横滑りする。そういう運転技術は身に付けた。ほかにも、高層道路のジャンクションでは減速すること、運転中は飲み物を飲まないで運転に集中することなどに気を付けた。
長い灰色の冬が終わると、いきなり夏がやってくる。半年冬で半年夏である。赴任した一九九二年一番遅い雪は四月十七日、その年初雪が降ったのは十月十七日であった。夏は日本ほど湿気がないので暮らしやすい。春になると夏時間が始まる。人々は突然半そで半ズボン姿になり活発に動き回る。啓蟄という言葉が人間にも当てはまるようであった。
妻との旅行
毎年夏には妻が休暇を利用して訪ねてきた。アメリカ各地を観光旅行した。サンフランシスコやロスアンジェルスの西海岸を旅行するときは、その空港で待ち合わせた。左はUSJに行った時で、背景にHolly Woodが写っている。サンフランシスコでは、Napa Valleyやヨセミテ公園を訪れた。
ある年、シアトルで待ち合わせ、バンク―バーまで飛びカナダロッキーの氷河を見に行く計画を立てた。半年前から予約したバンクーバーからカナダ鉄道に乗り、ロッキー山脈を越えようと計画した。夜が明け食堂車で朝食を食べようとした矢先である。列車が止まって動かない。この先で事故があり進めないという。かなりの時間が経ってからバスが用意された。
東海岸ではワシントンを訪れた。アーリントン墓地を訪れ、スミソニアン博物館を見学しリンカーン大統領の像の前で撮影した。ニューヨークではリンカーンセンターでオペラを鑑賞したことがある。カーテンコールが終わるまでに多くの観客が家路を急いだ高家を目にしたことがある。ニューヨークとは言え、観客は車で来る。駐車場に急ぐために早めに席を立つのだった。ボストンから海岸沿いにレンタカーを走らせたこともある。途中、日露戦争の講和条約が締結されたポーツマスの先の小さな港町でロブスターを食べた。このように、全米の各地を観光に訪れたが、やはりミシガンでゆっくりと過ごすのがいいと言った。夏は湿気が少なく快適である。旅行で時間に追われるよりのんびりする方がよいというようになった。
一人旅の思い出もある。湾岸戦争が始まった頃のことである。ブラジルの部品会社がバージニア州に工場を建設した。その竣工式に招待されたことがある。その近くにあるイギリスの最初の入植地となったジェームスタウンを訪れた。そこには、最初の入植者の氏名と職業が書かれた看板があった。およそ100名はいただろうか。ほとんどがGentlemanで、10人に一人ぐらいがCarpenterと書かれていた。ほとんどの入植者は食べ物もなく冬を越すすべを知らず、先住民の助けをうけ命を長らえた。入植者の職業構成を見てなるほどと思った。
その時、ノーフォークという軍港のそばを船で通った。港は原子力潜水艦でいっぱいであった。このような国と戦争しても勝てるわけがないとつくづく思った。
通勤電車で磨いた英語力
七年間アメリカで仕事をできた一つの理由は英語の力を磨いてきたことにある。日光への新婚旅行から戻ると新しい生活は尼崎の米屋の二階から始まった。二人が生活するには、2Kの部屋はあまりにも狭かった。そのため箪笥などの嫁入り道具を運び入れることが出来ず、しばらくは実家に残しておいた。公団の賃貸住宅を申込んだ。幸い翌年抽選に当選した。大阪万博の近くの千里ニュータウンの十二階建て高層アパートであった。スーパーマーケットが前にあり、南千里の駅も歩いて二分程度の便利な所であった。その翌年、長女が誕生した。
勤務先の伊丹までは電車の中で過ごす時間が結構長い。この時間を有効に使おうと考えた。将来、到来する国際化時代に備えなければならない。英会話の能力が必要な時代がやってくる。中学校で習った「ジス イズ ア ペン」のようなカタカナ英語の発音では役立たない。読解力を重視する高校や大学の英語教育では聞くことも話すこともできない。
妻に英会話の勉強をしたいと話すと、家計をやりくりしてソニーのカセットレコーダーを買ってくれた。ウォークマンのような小型のものは未だなく、大きなカセットレコーダーを通勤カバンに入れ、リンガフォンのテープを聴きながら声を出して発音練習をしながら通勤した。ある時、隣に座ったサラリーマン風の男から「うるさい」と怒鳴られるほどであった。
ボルボ研修生との出会い
やがて英語が役立つ時がやってきた。入社十四年目の一九七九年には課長になっていた。肩書は生産管理課長である。その頃、日本の自動車産業は力を付け国際競争力を高めていた。海外から「Japan as No.1」といわれる時代であった。日本の企業は品質を向上させ生産コストを改善し競争力をつけ、海外の会社からも注目されるようになった。
1982年、京都大学の先生の依頼で、スウェーデンの自動車会社ボルボ社から三人の研修生を受け入れることになった。目的は日本の生産方式を学ぶためである。受け入れ窓口になり六カ月間、公私にわたり世話をすることになった。三人のうち、一番若い人は奥さんをつれてきていた。いずれも長身の紳士であった。ドイツ風の発音でJapanをヤーパンと発音するなど独特の英語に慣れるのに時間はかかったが、コミュニケーションをするのに大変勉強になった。
来日して間もなくの五月、日本のものづくりの根底にある文化も知る必要があるとの口実をつけて、琵琶湖畔の実家に招いたことがある。風呂を準備したが、寒さには強い北欧人には熱すぎて入れない。まだ肌寒いのに素っ裸になって湖に飛び込んだ。日頃は外国人を見かけることにない土地である。隣近所の人々を驚かせたことがある。その夜は、両親がすき焼きで歓待してくれた。母は夫婦で来ていた女性に土産として浴衣をプレゼントした。喜んでくれた。
実家へは斜めにストライプの入ったボルボ車に同乗した。車を運転するときの注意として大切なことを教えてくれた。車の中にはティッシュペーパーの箱といえども、一切何も置いてはいけない。万一衝突した時に凶器になるからだ。さすがに安全な車を作る会社の人だと感心した。この教訓は今でも肝に銘じ、荷物はトランクに入れるようにしている。
6カ月の研修が終わる時「Good bye」というと、「See you again」と返してきたのが印象的であった。
それが実現した。一〇年ほど後にアメリカに駐在していた頃、ドイツへ出張することがあった。その機会にスウェーデンまで足を延ばすことにした。エーテボリの空港に着きトイレに入ると、足が床に届かない。さすが長身の人たちの国だ。空港にはリムジンが待っていてくれた。ご夫婦が住む岩づくりの家に泊めてもらい、鮭の料理を御馳走になった。翌日、工場を訪れると、日の丸がスウェーデン国旗と並んではためいていた。それまで、国旗というものをあまり意識することはなかった。しかし、外国でしかも自分のために日の丸を掲揚して歓迎してもらうと、日本人として意識しなければならない象徴のように思った。
さらに一〇年ほど経った。定年後のことである。お二人が日本へ観光に来た。その当時、研修に関わったOBが集まり、ご夫婦とともに大阪のホテルで食事をし旧交を温めた。
このような縁もあり現在はボルボの車に乗っている。世界でも定評のある安全設計がなされている。購入してから一年半で一万キロ走った。快調である。
運転免許をとったのは五十歳を過ぎてアメリア赴任が決まった後のことである。教習所には年齢に万円を掛ける金額を支払った。アメリアではFordのLincoln Continentalをリースしていた。二年毎のリースで常に新車のようであった。七年のアメリカ駐在を終え着任したドイツではBMWを購入した。店頭展示品で割引してもらった。さすがにドイツの技術だ。スピードを出すほど、道路を噛みつくように安定した走りをする。時にはアウトバーンを一八〇キロまで出したことがあるが、それでも追い抜いていく車がある。バックミラーに黒い点が見えたかと思うと、またたく間に追いつかれ追い越されていった。
二年後、日本に帰国することになり並行輸入品として持ち帰った。ドイツ車とはいえさすがに十五年も乗ると故障が多くなる。燃費が優れていると評判のトヨタのハイブリッドカー、プリウスに買い替えた。ところが、右ハンドルの車は教習所以外では運転したことがない。慣れないうえに年齢も重なり、二年で三回も左のサイドミラーを壊してしまった。
そこで安全装置の完備したボルボに買い替えたのである。前の車に接近しすぎたり歩行者を検知すると警報音が鳴る。万一、事故で加害者になった場合でも、被害者の身を守るためのエアバッグがついている優れものである。
駐車の時の自損事故はあるが、幸い警察のご厄介になるような大きな事故はなく、GOLD免許を更新し続けている。二年前に受けた高齢者試験も認知機能試験を難なくパスした。
アメリカに工場建設
本格的に英語の力を試す時がやってきた。駆け出し時代に予見した国際化時代が到来した。日本の自動車会社は一九八〇年代半ばから日米貿易摩擦を回避するため北米に工場を作る計画を進めた。多くの部品メーカーもそれに追随した。技術提携関係にあったイギリスに本社のある会社と50対50の合弁会社を設立することに両社が基本合意した。工場の建設予定地は相手方が既に工場を持っているオハイオ州シンシナティ近郊を選んだ。合同で企業化調査をすることになり、事務方の責任者に指名された。英語力も評価された。一九八六年十月 初めて海外、それもアメリカに出張することになった。シンシナティ郊外のHoliday Innの会議室を借りて検討を進めた。その時の建設プロジェクトチーム五人のメンバーとは、クリスマスの季節にお互いカードを交換し健康を確認し合っている。
シンシナティへは日本からの直行便はない。成田発ニューヨーク行きの国際線ビジネスクラスに初めて乗った。アメリカに第一歩を踏み入れると、ニューヨークは落書きだらけの町で、正直のところがっかりした。これではアメリカが築いた産業も衰退するのではないかと思った。日本人が自信を持ち始めた時代であった。
シンシナティのホテルのトイレに用を足しに入ると、扉が日本のように床までなく、20センチほど隙間があることには不安を覚えた。仕事が終わると毎晩一緒に食事をした。この時、初めてアメリカにチップという制度があることを知った。おおよそ食事代金の一五%程度テーブルの上に置く。ある時、イギリス人が間違って一〇〇ドルも置いたことがある。チップはサービスしてくれた人の対する感謝の気持ちであるから、返してくれるわけではない。あるレストランでは、珍しい料理を出していた。ライオンやワニの肉を食べたことである.佃煮のように保存された肉であった。美味しくもまずくもなかった。食べたことの証明書をもらい人に見せていたことが思い出される。
合弁会社を設立することに合意し工場の建設が始まった。土地は地元の市からのリースで十年後に一ドルで所有権が移転する契約であった。基幹要員を採用し、日本で研修を行った。日本の工場食にはなれないようで、ご飯に砂糖をかけて食べていた。
工場は一九九一年に稼働を開始した。翌年、ぼくは新しい会社を営業面で支援するため年デトロイトに着任した。妻が保険関係の仕事を持っていたので単身で赴任した。赴任を前にして、弁護士から事前教育があった。日本とは異なり、アメリカは独禁法が厳しく適用される。ゴルフといえども同業者と一緒にすることは避けるようにとの注意である。違反した場合は刑事罰に処せられることがあるという。七年目の東京時代に営業の仕事をしていた。オイルショックで物不足の時代であった。新橋の居酒屋の二階に同業者が詰まり価格問題について意見交換したことを思い出し、商慣行の違いを認識した。
合弁会社であったので、日本の自動車会社に対する営業を担当した。ビッグスリーはイギリス側の担当で、Mr.Savageが全体を統括した。イギリス、バーミンガムの本社から出向している人で、今はシェークスピアの生誕地 Stratford upon Avonに住んでいる。クリスマスカードが20年以上もの間、毎年届く間柄である。
ビジネスの面では名前の意味する通り「野蛮な、猛烈な、残忍な」で非常にきつい言葉を発する人だった。意見が対立した時「太平洋のかなたに蹴っ飛ばしてやる」とまで言われたことがある。ところが、仕事を離れると優しい人に変身した。ぼくを「Shinobu」と後ろにアクセントをおきファーストネームで呼んだ。ぼくも彼を「野蛮人」と呼ぶことに躊躇し「Derek」と呼んだ。妻や娘がアメリカに来る機会には家に招いて、ご馳走をしてくれた。その後、野外コンサートに誘ってくれた。この時、犬が興奮して吠えていたことを思い出す。スカンクに放屁されたのだそうだ。
デトロイトに赴任して二年経った一九九四年四月、シンシナティの工場の月次会議に出張していた。そこへ父が亡くなったとの知らせが妻から秘書を通じて届いた。翌日、当時運航していたデトロイト大阪直行便に乗った。通夜には間に合った。長男であったぼくが喪主をつとめ、「教育熱心な父でした」と挨拶した。もっとも、母から注意を受けた。通夜の挨拶というものは、低い声でぼそぼそと何を言っているかわからないような話し方をするものだ。
七年間のアメリカ生活について書き残しておきたいことが二つある。「アメリカの商人」と「アメリカ人の親切」である。ニューヨークに第一歩を踏んだ時の悪い印象は消えたように思う。
アメリカの商人(あきんど)
アメリカのトランプ大統領は「日本は自動車を大きな船に乗せてアメリカに持ち込むが、日本は閉鎖市場でアメリカの車を買えないようにしている」と非難する。日本は輸入自動車にかける関税はゼロなので誤認も甚だしいが、たしかにアメリカ、特に西海岸では日本車がよく売れている。二〇一三年春、十五年ぶりにアメリカへ旅行した。ヨセミテ公園(カリフォルニア州)の駐車場で撮影した写真がある。駐車していた八台なかで、アメリカ車はGM一台のみで、他は全て日本車であった。
アメリカの主張に対して、日本政府関係者は一九八〇年代の認識だと反論する。1980年代には日米の間で自動車貿易摩擦が起き、多くの日本の自動車会社が北米に工場を作った。部品を作る会社に勤めていたぼくは、オハイオ州に工場を作る仕事に携わり日本とアメリカの間をたびたび往復した。工場が完成すると自動車の町デトロイトに赴任し営業の仕事に携った。
ある時、日本から上司が出張してきた。靴文化の国アメリカで靴を買いたいという。大きなショッピングモールの中にある老舗の靴屋に案内した。店の主人は足のサイズを測り倉庫に置いているいくつかの靴の中から選んで奨めた。どこの靴屋でもすることである。
一年ほど後、再びアメリカに来た上司がこの前の靴屋に案内せよという。履き心地が良いので、もう一足買い足したいというのだ。主人は一年前と同じようにサイズを測った。ところが前とは微妙にサイズが違うようだった。主人は「昨年は間違ったサイズの靴を売って申し訳なかった」と言って、支払った代金を返してくれた。店の名をJonston Murphyという。
会社は海外駐在員に対しては手厚い待遇をしてくれた。単身赴任の場合は、現地での給与とは別に留守家族に日本での給与の八割を支給してくれた。しかも税抜きの正味であった。余裕のある生活をしていた。日本では、数年に一着しか買えなかった背広を毎年誂えるほどの余裕があった。その頃、支払った年金が今でも毎月アメリカ政府から支給されている。
デトロイト郊外のアパート近くに洋服屋(テイラー)があった。腕がよいという評判のインド人の職人が経営する店だった。この店で毎年背広を仕立ててもらい馴染みの客となっていた。 柄物のシャツを誂えてもらうため店を訪ねた。出来上がったシャツを見ると、色の具合が注文したものと違うように思った。テーラーは自分に非があるといって、料金を頑として取らなかった。実際はぼくの思い違いであった。このシャツは思い出の品で最近まで大事に箪笥の引き出しにしまっていた。もったいないので、ようやく外出時に着るようになった。
アメリカの自動車メーカー、フォードは昨年日本市場から撤退した。それを閉鎖市場だとトランプ大統領は訴えている。フォードは一〇〇年前にT型モデルという単一モデルを大量に作り消費者に売りつけ成長した会社である。時代は変わった。消費者の好みも変わった。消費者のニーズに合わせた車作りが求められている。いくら政治的圧力に頼っても会社は発展しない。是非デトロイトの靴屋や洋服屋から「あきんどの精神」を学んでほしいものだ。靴に足を合わせるのではなく、足に靴を合わせる考え方に変えて欲しいと思う。
(2018,4,19)
アメリカ人の親切
アメリカ生活二年目の四月のことであった。バージニア州にある会社と技術提携の話を進めていた。その会社はWinchesterという南北戦争の激戦地にあった。北軍と南軍が毎日のように入れ替わった町である。首都ワシントンから車で北西に約八〇キロメートルの所にある。その会社と打ち合わせのため、訪問日を金曜日にした。アメリカでは週末をはさんだ往復航空券を予約するとホテル代を入れても安くなる。
週末はワシントンで過ごし、ポトマック川の桜を撮る計画である。そのため少しばかり高級なカメラを買った。ワシントンの空港に着いたのは昼頃であった。軽食の店の前でカメラの入ったショルダーバッグを椅子の上に置き、何を食べようかとショーウィンドーのメニュウを見ていた。一瞬の出来事だった。気の付いた時にはショルダーバッグが消えていた。ワシントンはアメリカの首都である。世界の首都といってもよい。世界で最も安全な都市と思い込んでいた。置き引きに遭うとは夢にも思わなかった。
訪問先に着くと、真っ先に被害に遭ったことを話した。それを聞いた社長が「アメリカ人として大変申し訳ないことをした」と犯人でもないのに謝ってくれた。その上、打合せが終わり会社を出ようとした時に、「お詫びのしるしに」と新品のカメラを渡された。途方に暮れていただけにうれしく、なんとお礼の言いようがなかった。
その頂いたカメラでワシントンの桜である。やや色あせているが、フィルム写真だから仕方がない。ぼくにとっては貴重な写真を何枚も撮った。額に入れて書斎に飾っている。これを見ると、いつもアメリカ人の親切を思い出す。ワシントンの桜は東京市長からの贈り物だが、それを写したカメラはアメリカ市民からぼくに送られたものである。
Wonderful
デトロイトに赴任して三年目の一九九五年四月、阪神淡路大地震の年のことである。自動車用電子部品を製造する工場の予定地ミネソタ州に出張する日々が続いた。ミネソタ州はカナダと接し、ミシシッピ河が流れ出す源でもある。古い世代であれば「ミネソタの卵売り」という歌謡曲で馴染みのある州でもある週末を利用してカナダ国境までレンタかカーでドライブすることを思い立った。土曜日の朝、州都セントポールを出発し途中鉱山跡に立ち寄り北上した。その夜は国境近くの湖畔のホテルに泊まった。
翌日曜日、国境沿いに針葉樹林の森の中を東へ走り南下することにした。国土の広いアメリカはどこまでも同じ景色が続く。やがて薄暗い森の中を抜けると、一面菜の花畑が広がった。そして、その前方に突然湖が現れた。五大湖の一つスペリオル湖である。向こう岸は見えない。まるで海のようであった。景色の単調な森を走り続けてきた者にとっては、水のある風景は心を和ませてくれる。この光景を是非写真に撮っておきたい。思い出として残しておきたい。車を停めカメラを持って飛び出した。ワシントンの桜を写したカメラである。何枚かフィルムに収めた後、車に戻った。ドアが開かない。キーを差し込んだままロックしてしまったのだ。窓ガラスを壊すわけにもいかない。携帯電話も中に置いたままで、知人に連絡する術もない。半ばパニック状態に陥った。
治安の悪いデトロイトでは、車が故障し路上に停止した場合、車外に出てはいけないというのが鉄則だ。強盗の被害に遇う危険が高まる。暫くの間、車の陰で身を隠していた。しかし身を隠したところで事態は解決しない。行動が先だ。人の助けを借りる他には解決する道はないと意を決した。
車の陰から恐る恐る出て、手を振って助けを求める合図を送ることにした。片田舎のことで、通る自動車はそれほど多くない。気付かないのか、トラブルに巻き込まれたくないのか、手を振っても通り過ぎて行く。やがて一台の車が止まってくれた。事情を話すと、次の町で警察に連絡すると言ってくれた。救われた気持ちになった。パトカー(英語ではpolice car)を待つ間も、手を振っていないのに、何台かの車が止まり「May I help you?」と聞いてくれた。中には、通り過ぎてから引き返してきて停まってくれた車もあった。
ミネソタにはノルウェーやスウェーデンなど北欧から移り住んだ人が多い。湖や森が多く気候風土が似ているため住むのに適したに違いない。寒い土地で農業や林業で暮らす人々は困っている人を見かけた時は、自然と助ける習慣が身に着いたのではないかと思う。ほどなくパトカーが二台も到着した。薄い鉄板をガラスとドアの隙間に差し込んで開けてくれた。車を停めて助けてくれた人や警察官に何度もお礼を言った。翌日、地元の新聞社に感謝の気持ちを認めた手紙を出した。
この地方の人々は日常会話で「Thank you」というと、{Wonderful}の言葉で返す。何と素晴らしい表現ではないか。言葉だけではない。この地の人々の人情もWonderfulである。
その時写した写真は小さな半島に湖が映っただけのものである。四月も終わりに近いというのに湖はまだ氷で覆われていた。日本であればこのような風景はどこにでも見られる。陸ばかりのアメリカでは、湖や川の水のある風景を見るとホッとする。ワシントンの桜の写真とともにぼくにとっては大切な写真である。
アメリカの人々は五大湖の名前をHOMESと覚える。Hはヒューロン湖、Oはオンタリオ湖、Mはミシガン湖、Eはエリー湖、そしてSは写真のスペリオル湖である。すべての湖の水に触れた。カナダのヒューロン湖で泳いだことがあるが、冷たくて5分もいることが出来なかった。
那須
野を横に馬牽むけよほとヽぎす
田一枚植て立去る柳かな
那須の地へはこれまでに二度訪れている。最近では二〇一五年四月一八日、那須のリゾートホテルに宿泊する贅沢な旅であった。東京駅から東北新幹線に乗り、那須塩原駅で下車。タクシーが移動手段で、途中、影絵で知られる藤城清治美術館に立ち寄った後、リゾートホテルに宿泊した。翌日は、再びタクシーに乗り、福島三春の滝桜を見に行った。
ホテルの案内書では四万二千平米の広大な敷地に、独立した建物を客室にしていた。室内の設備も優れていたので、あえて外の露天風呂まで行く必要を感じなかった。夕食はフランス料理であった。和食と違って、サービスが遅く手持無沙汰の食事であった。朝食も豪華であった。広大な敷地は、自然公園のようであった。大学の農学科の人が案愛をしてくれた。水芭蕉などが芽を出していた。
その自然公園から、かつて登ったことのある那須岳を遠くに臨むことが出来た。
登山
那須岳に登ったのは大学二年の時であった。東京下町生まれの友人K君とその友人の三人であった。K君とは大学に入学するとすぐに親しくなった。地方出身のぼくにとっては、東京生まれ東京育ちの都会人には近寄りがたい存在であった。彼はあまり言葉や出身地を気にしない人であった。入学して最初の正月を、大阪の玉造に住む叔父さんを訪ねるという。一緒に行かないかと誘われた。冬休みで滋賀の実家に帰省することにしていた。大阪も長い間行っていない。中学生の時、父に大阪城へ連れて行ってもらった以来である。行くことにした。叔父さんは大衆食堂を経営していたが、南の難波か道頓堀辺りにあった末広朝日でステーキを食べさせてくれた。ステーキなるものを口にしたのはこの時が初めてではないかと思う。美味しかった。
翌日、K君と阪急電車に乗って京都嵐山へ向かった。その頃の阪急電車の梅田駅は、今のデパートのある所まで伸びていた。嵐山から嵐電に乗り京都市内に入った。その夜は八坂神社近くの旅館に泊まり、あくる日、三条から浜大津へ出て、江若鉄道に乗り換え琵琶湖畔の我が家に泊まった。田舎の家に泊まることに抵抗はなかったようだ。
K君と鹿児島生まれのT君とはいつも三人で行動を共にすることが多かった。授業に出るのも、さぼるのも一緒、昼食も一緒という仲であった。アルバイトをするのも一緒で工場の天井吹きをしたこともある。
二年生の秋、K君から那須岳に登らないかとの誘いを受けた。子供の頃、母の柴刈りを手伝いに山に登るのは慣れていた。小学校五年生の夏休みには学校行事で滋賀県緒最高峰、標高一三七七メートルの伊吹山に登ったこともある。麓の小学校に泊まり、深夜に登り始めた。いつもは家の正面に見える伊吹山である。頂上に登ると琵琶湖が前面に広がった。その美しい光景に感動した記憶がある。山登りには抵抗はなかった。
このためにリュックと登山靴を新たに購入した。親からの仕送りとアルバイト、奨学資金で暮らす貧乏学生にとっては大きな出費であった。甲子温泉の山小屋というものに泊まるのは初めての経験であった。疲れたという記憶はない。
その後、自分の足でのぼる登山とは縁遠くなった。毎日残業の会社では、登山が出来る時間はなく、また年齢とともに体力も衰えた。この時の登山靴は足に合わなくなり捨てたが、リュックはまだ残っている。
大学卒業後、K君は新聞社の就職しカイロなど海外特派員になり、定年後は系列のプロ野球チームの管理部長をしていた。甲子園球場で阪神タイガースとの試合がある時は、いつも同行するようになった。その機会に、西宮の我が家に尋ねてきてくれたことがある。その後、名古屋で鹿児島生まれのT君と三人で五十年ぶりに再会し、思い出話に花を咲かせたことがある。
スイスの山
まだアメリカの工場が完成する前のことである。相手方の工場があるドイツのKoblenzという町で会議をすることになった。ライン川とモーゼル川が合流する地点にある。八月の盆休みの前で、家族も一緒に行こうという相談がまとまった。妻にとっては初めての海外で大急ぎでパスポートをとった。妻はぼくが仕事をしている間、Savage夫人とライン川下りを楽しんだ様だ。ローレライからライン川を見下ろす写真が残っている。妻は英語を十分には話せなかったが、身振り手振りで楽しい一日を過ごせたといっていた。
乗物を利用すれば、高い山にも上ることができる。この後、オーストリアとスイスをryこうした。オーストリアのザルツブルグを観光、博物館になっているモーツアルトの生家を見学した。チューリッヒからスイス鉄道に乗りアルプスに向かった。麓のインターラーケンに泊まりユングフラウに登った。スイスの伝説の英雄、ウィリアム・テルの物語は、このあたりが舞台になっていると聞いた。
二度目のスイスの登山は一番高い山、スイスのマッターホルンであった。ドイツに着任した年の夏、ツェルマットに宿をとり登った。登山電車に乗りトンネルを出ると展望台があった。青空で、そこから眺めた景色は表現のしようがない。
ツェルマットではジャガイモやソーセージなどを煮立ったチーズにつけるスイス料理、フォンヂデュを食べた。煮詰まってくると、それほどおいしいといえる料理ではなかった。アルプスの高山植物の種や牛の首に付けるベルをいくつか買った。これは、二階にいるぼくに「ご飯ですよ」と呼ぶ合図に用いられている。
スイス国内の移動は鉄道に限る。すばらしい景色を眺めながらのんびりと旅ができる。
何でも自分でするドイツ人
アメリカ七年間の駐在が終わると半年の間、日本で充電した後、ドイツに赴任することになった。アメリカでは、Fordからサプライヤーに認定されるという一定の成果を上げることができた。上司がヨーロッパでも同じことが期待できると判断したのであろう。ヨーロッパの経済の中心、ドイツ駐在を命ぜられた。定年まで二年しかなかったが、嘱託として仕事を続けられると示唆されていた。ところが、ヨーロッパでのビジネスはアメリカほど簡単ではない。アメリカは公正の原理が働くが、ヨーロッパは事情が異なる。同じ大学の卒業生というような不明朗な要素が入り込んでくる。クリスマス時には、購買の部屋の前に贈り物を満載したワゴンが並ぶ。日本人が素手で挑んでもどうにもならない。厚い壁を感じる閉鎖的な社会であった。
着任すると早速フランクフルト駅前の貸し事務所を借りた。日本の銀行に勤務経験のある女性Rさんが経営する事務所であった。日本語が堪能で秘書としても仕事を手伝ってくれた。今でも電子メールではあるが、クリスマスだけでなく誕生日にも挨拶が届く。
ドイツでも当初は単身赴任であったが、いずれ妻を呼び寄せるため広めの家に住みたいと考えた。ドイツの町はアメリカと違って公共交通が発展し駅前には日本のような商店が並ぶ。車の免許がなく手も生活に不自由は感じない。せめて一生に一度は外国生活の良さを味合わせてやりたいと思った。借りたのはタウンハウス風の建物で、三階建て、地下一階、庭付きの広い家であった。二人が住むのに適した家であった。仲介は日本人のN三であった。大学の相撲部の出身でヨーロッパ相撲選手権のアンパイアをする人でもあった。ブルガリア出身の琴欧州関を佐渡ケ嶽部屋にスカウトした人でもある。琴欧州が大関に昇進した時、NHKの朝七時のニュースインタビューを受けていた。
家の持ち主は日本人女性と結婚したドイツ人男性で、仕事で韓国の釜山に赴任することになり、帰国するまでの間賃貸することにしたという。すべて家具は使ってもよいという条件であった。そのためBMWの新車を買っただけで、新たな出費をする必要がなかった。部屋の掃除はきちんとしてほしいといわれたので、ポーランド人女性に掃除を依頼した。
ドイツでは、洗濯物を外の庭に干すことはできないため、地下室干で部屋干しをしていた。ある日、洗濯機のある地下室の水道の蛇口が壊れ水浸しになったことがある。国際電話で相談すると隣の男性が直してくれるという。イギリス人で言葉が通じ、工具が一杯詰まった道具箱を携えてきて修理してくれた。まるで水道工事業者のようだった。人に頼むと人件費が高いので、何でも自分でできるよう日頃から準備しているとのことだった。
ヨーロッパでは英語のApril Rain, May Flowerという言葉を聞いた。四月に恵みの雨が降り、五月に花が開く。菜の花畑は一面に黄色く染まる。春の景色が一番だ。ドイツでもこの言葉が当てはまる。ただ、秋の紅葉は日本ほど鮮やかさがない。茶色に変色するだけである。冬の昼は短い。八時でも薄暗く、懐中電灯を持って駅に向かった。夕方は四時には薄暗くなる。
音楽の旅
妻はアメリカでもそうであったように、夏休みには訪ねてきた。ヨーロッパでは主に音楽の旅を楽しんだ。モーツアルトの生まれ故郷ザルツブルクへは、初めてのヨーロッパ旅行の時に次いで、再び訪れた。最初の時はモーツアルト博物館や旧市街を散策した。二回目は着飾って音楽祭に行った。
オーストリアのボーデン湖畔にあるブリゲンツという町で行われた音楽祭は素晴らしかった。ドイツのリンダウという町から船に乗った。湖に夕陽が沈むと始まった。湖上の舞台で演じられた「仮面舞踏会」は忘れられない。ボートが突然浮かび上がり湖の中からギロチンが現れるなど舞台装置が大掛かりであった。さらにはクライマックスに花火が打ち上げられるなど劇場では味わえない迫力があった。
ブリゲンツからフランクフルトに帰る列車の中で、ドイツならではの経験をした。以下は日本の人向けの新聞に投稿した文の一部を抜粋したものである。
幼児専用コンパートメント
帰りはボーデン湖畔のリンダウからローカル線に乗り、ウルムからフランクフルトまでのICE(特急のこと)のコンパートメントの指定席をとっておいた。入口の扉に「Klein Kind Abteil」と書かれた貼り紙がしてある。ぼくらの席には幼児連れの二組が占有している。何かの間違いではないか。押し問答するも席を譲ろうとはしない。仕方なく、空いた席を探したが車内は込み合っていて座れない。車掌を探したが、近くにはいない。よく考えると、「幼児用コンパートメント」という意味だ。
シュツットガルトに停車した時ホームでやっと車掌をつかまえた。ぼくらの席は他の一般席の車両に移したといって案内してくれた。ところが、そこにも既に別の乗客が座っていた。ヨーロッパでは指定席と自由席の区別はない。空いている席には誰自由に座ることができる。それが自由席になる。座席を確保したければ指定席券を買えばよい。車掌はその客を立たせた。一息入れてしばらくすると暑さと疲れのせいか、近くの席で幼児が大きな声で泣き出した。それにつられて別のところからも泣き声が上がった。ようやく扉に貼られていた言葉の理由が分かった。幼児の泣き声から周りの乗客に迷惑をかけないための工夫である。
それにしても車掌はウルムで乗車した時に指定席が変わったことを知らせる工夫をすべきではないか。幼児を他の客から隔離するとはよく考えたものだ。しかし、はみ出された乗客のサービスにまでは、手と頭が十分に回らないようだ。
(2000年9月)
イタリアの列車の中で
旅では色々な経験をする。楽しいこともあれば不愉快なこともある。初めてのウィーンでは、すれ違った見知らぬ人から楽友協会のチケットを二枚もらったことがある。毎年NHKが生中継するニューイヤーコンサートの劇場である。ハンガリー交響楽団の演奏だったと思う。終わった後、レストランに入りシュニツェルというトンカツのような料理を食べたことを思い出す。
定年後もドイツに残るという空約束は消えた。失われた二〇年が許さなかった。帰国する直前の休暇を利用してイタリアのヴェローナという町で開かれる夏の音楽祭に行った。この町の円形闘技場では毎年オペラが上演される。あいにく開演間近に夕立が降、開演が10時に延びた。上演されたのは一幕のみであったが、アイーダは迫力があった。
翌日、列車でフィレンツエへ向かった。この時も、コンパートメントの指定席をとっていた。中に入ると六人掛けの席には、すでに夫婦と子供二人の家族の他に一人旅の老婆の五人が座っていた。明らかに老婆が不法占拠しているのであった。切符を見せるように言っても、目をつぶり、横を向いて知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ。ぼくたちが乗るまでは自由席である。しかし、乗り込んだ後は指定席に替わる。本来なら明け渡さなければならない。
目的地のフィレンツエまでは、わずか三〇分のことだから通路に立つことにした。すると子供連れの父親がドアを開け、ぼくを招き入れ小学生の子供を立たせ座らせてくれた。お礼を言うと、子供の教育のためだという。父親はアフリカ系スイス人の大学教授だった。人間の二つの側面を見ることができた。教えられる旅であった。
ドイツでの二年間をふりかえると、常に何かに監視されているようで息苦しい思いをすることが多かった。アウトバーンという高速道路は無料で速度制限もないが、市街地ではスピード違反の取り締まりが厳しい。今まで五〇キロだった一般道が市街地に入ると突然三〇キロになり、そこに監視カメラがある。何度か罰金を支払う羽目になった。何でも法律に頼る姿があった。いくつかの実例を挙げておこう。
おじいさんも昼寝
家を借りる時、Nさんが「くれぐれも」と前置きして注意したことがある。午後一時から二時の間は法律で庭の芝刈りが禁じられている。絶対にしないようにと釘を刺された。理由を聞くと,「お婆さんが昼寝をしているからだ」という。たしかに刈り機の音は日本でも大きな音がするので、隣近所に気を遣う。
本当に法律で芝刈り機の時間まで決めているのかと半信半疑であった。念のため、レッスンを受けていたドイツ語の先生に確認すると、平然と「あなたの理解は半分だけ正しい。昼寝をするのはお婆さんだけではない。お爺さんも昼寝する。」と答えた。ドイツ流のジョークである。国の法律か、自治体の条例によるのかはわからない。規則で昼寝の時間を保護するとは驚きであった。近隣同士の思いやりで解決できる問題ではないか。なぜ身近な生活の問題に公の機関が介入するのかいまだに疑問である。
ここでドイツならではのジョークを一つ
写真は第二次大戦後の世界について話し合われたポツダムのレストランのトイレに貼られていたものである。「WEINを飲んだ人はこの下に」の意味である。その左にはBIER(ビール)の表示があった。飲み物によって分別して排尿せよという意味のようだ。ゴミの分別が厳しいドイツを揶揄するジョークである。矢印の右はリサイクルのマークである。尿もリサイクルしてWEINやBIERに戻そうというからかいのようである。
出張手当
出張手当も所得税法で決められている。日本では、それぞれの会社が規則で出張手当を決めている。例えば、日帰りで大阪から名古屋へ行く場合より、東京出張の場合は多めの日当がつく。会社によって違う決め方をしても問題にならない。一般的に商社は製造会社より社員に優しく手当も多い。
ところが、ドイツでは所得税法で一律に決められている。ホテルの宿泊費は実費請求できるが、食事代は朝食、昼食、夕食別に、しかも出張先ごとに細かく決められていた。ドイツから海外出張する場合でも、大阪と東京で違う日当であった。規定以上に食事代を支給すると所得とみなされ課税される。
日本では出張手当をどのように使っても、会社から干渉されることはない。安いホテルに泊まって呑み代に充てる。サラリーマン時代のささやかな楽しみのひとつであった。
法律の陰で
何事も法律で決めるので、ドイツの人々は法律をよく守る。横断歩道では手を上げなくても車は停止してくれる。駅にはフランスと違ってゴミは落ちていない。紙くずを捨てる人を見れば注意して拾わせる。電車の中でヘッドフォンから音が漏れると注意する。飛行機が着陸しても機外に出るまでは携帯電話の電源を入れない。お互いに注意し合って暮らしているようだった。
ところが、その反動であろうか。人が見ていないところでは法律を守らない。法律を破る。町の中で壁に落書きが多いのは、このためではないか。規則、規則の生活は疲れる。息抜きのために法律に逆らって反抗しているように思えた。
目盛入りグラス
驚いたことは他にもある。ワインや生ビールのグラスに目盛り線が入っていることだった。これは度量衡法によるものだ。店が営業としてワインやビールを客に提供する場合は目盛入りグラスで出す必要がある。目盛り線に達していなければ、客は店にその線まで注ぐように要求できる。客との間で注がれた量が多い少ないで、もめないための工夫かも知れない。
これに比べると日本はおおらかだ。居酒屋で枡酒を注文すると、グラスから溢れるほど継いでくれる。溢れ出た酒は枡で受ける。日本酒ファンにとってはささやかな楽しみだ。
この目盛入りグラスはドイツだけではなかった。ドイツから帰国して十数年経って訪れたチェコでも見かけた。おそらくドイツの規則がEUの基準になったようだ。
ところが、ポルトガルのポルトの醸造元では線が入っていなかった。試飲用であるからと納得した。一方で、同じEUでもスペインのサンチャゴではレストランでも線は入っていない。ラテン系の国は法律を重視していないためなのか、理由はよく分らない。
(2017,3,12)
福島
早苗とる手もとや昔しのぶ摺
筏も太刀も五月にかざれ帋幟
福島を初めて訪れたのは昭和三九年の春、大学の四年になる年であった。東京オリンピックの年を迎え、日本は高度経済成長の時代に差し掛かろうとしていた。労働力が必要になり、地方とりわけ東北の中学生が大挙して東京へ働きに出て来た。終着駅の上野は中学生であふれ、これを集団就職という言葉で表現した。その前年、社会学科に進学していた。社会学といっても焦点の定まらない学問で、頭に「労働」とか「農村」「家族」とかを付ければ何でも社会学になる。その中に、社会調査という科目があった。毎年五月に行われる大学祭で、四年生有志が共同で一つのレポートを仕上げることになった。テーマは集団就職を選んだ。但し、もったいぶって小難しく「都市流入若年労働者」と名づけ、集団就職をの中学生を送り出す福島県の中学校で社会調査をすることになった。
三年の終り頃から準備が始まる。福島駅からローカル線で西の方へ向かったように思う。具体的な地名は勿論のこと、調査の内容は今ではもう思い出すことができない。
この時、福島大学の学生寮に泊めてもらった。大学の寮の間でお互いに宿泊を認め合うような慣習があったようだ。三月とはいえ東北は寒くて、よく眠れなかったことは確かだ。
最近、福島県には何度か訪れている。那須に行った後の三春の滝桜、秋には五色沼、冬には雪の会津若松城と猪苗代湖である。
名取
笠島はいづこ五月のぬかり道
今回の松島・蔵王の旅を終え仙台空港へ向かう途中通過した。車窓から撮った写真は名取川である。
ぼくにとって仙台は東北へ旅行する時に空港を利用するだけの通過都市である。東北一の大都市でありながら、残念ながら市内に入ったことは一度もない。空港の写真だけがある。東日本大震災の津波では、海岸の松が流され空港も浸水し大きな被害を受けた。
震災から二カ月たった五月、学生時代の無二の親友O君から電話がかかった。新婚旅行のところで述べたO君である。陸前高田の生まれの奥さんを頼って、親類の女性が八王子に着の身着のままで避難してきたという。早速、妻の母が生前残していた下着やタオルなどを段ボール箱に詰めて送った。
O君の奥さんは翌年がんで亡くなり、O君も後を追うように二〇一五年十二月に旅立った。お別れに訪れた学友はぼくの他には卒業後も勤務先のNHKまで一緒だったT君だけであった。友人が一人減るのは寂しい。
松島
芭蕉は松島では句を作っていない。旅立ちの文を抜粋する。
「白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、もヽ引の破れをつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先 心にかヽりて、住むる方は人に譲り」
松島の光景を見るのが大きな目的であったようだ。奥の細道の後の方でも「松島」と「象・潟」が旅の目的として登場する。松島を次のように表現している。
「抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」から始めて、湾内の光景を描写している。その部分を記した碑がある。
冒頭に記したように、松島は湾内を船で遊覧した。松島には人の住む四つの島を含めて二百六十の島がある。島には学校もあるそうだ。
松島や鶴に身を枯れほとヽぎす 曾良
瑞巌寺
芭蕉は松島の後、近くの瑞巌寺を詣でている。句はなく文を残している。引用する。
十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依りて、七堂の甍改まりて、紺碧荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
地元の観光案内書によれば,瑞巌寺は天長五年(828年)慈覚大師の創建と伝えられ奥州随一の禅寺で仙台藩主伊達政宗の菩提寺である。伊達政宗は独眼竜政宗ともいわれる。バスガイドは独眼は天然痘に罹ったためと説明した。映画では大柄の俳優が演じているが実際は小柄な人であったそうだ。もう少し政宗のことを知りたいと思い歴史書を調べた。
歴史書によれば、政宗は家康の承認を得るとルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行一八〇余人を慶長一八年(一六一三年)スペイン・ローマに派遣した。この一行は慶長遣欧使節といわれている。ルートは現在のアメリカサンフランシスコからメキシコへ南下、陸路を大西洋に出てスペインの艦隊に乗りスペイン南部の港に到達した。
この慶長遣欧使節に先立ち、少年遣欧使節が天正十年(一五八二年)九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された。四名の少年使節はインド洋からアフリカの喜望峰をまわる航海を経てポルトガルのリスボンに上陸した。少年らが上陸したリスボンはポルトガルの首都である。
二〇一八年三月にポルトガルを旅行しこのリスボンの港を訪れた。この時までに仕事の出張を含めて三十数か国を訪れているが、ポルトガルはなぜか後回しになっていた。旅行記にまとめた。
なぜポルトガル?
ポルトガルを訪れようと思った理由は、日本が最初にヨーロッパ文明に接した国であるからだ。ポルトガルは種子島に鉄砲を伝え、キリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの名は誰もが知っている。鹿児島にはザビエル記念聖堂がある。学校ではシャボン、カルタ、カッパ(合羽)はポルトガル語に由来する外来語であると習う。日本人にとっては縁の深い国で、是非行ってこの目で確かめたいと思った。
ポルトガルにとっての日本
このように学校教育の結果、ポルトガルは日本人の胸に深く刻まれている。ところが、その反対にポルトガルから見た日本はあまり存在感がなかった。
リスボンの港の路面には世界地図が描かれている。地図では、ポルトガルと日本はほぼ同じ緯度にあり、日本のところには1541の数字がある。数字は日本に到達した年かと思ったが、歴史の本を調べると日本へ向けて港を出た年であることが分かった。日本に着いたのは1549年である。ポルトガルにとって日本は彼らが到達した多くの国のひとつに過ぎない。
初日に訪れたリスボンのサン・ロケ教会には、天正の少年使節の像が描かれていたほかには、両国の関係を示すようなものは何一つなかった。
その理由を考えると、秀吉より後の時代にキリシタンを迫害し虐殺したことが日本に対するマイナス評価が生まれたのではないか。思い当たる節といえば、最後に訪れた商業都市ポルトのサンフランシスコ教会の壁には、イスラムに虐殺された聖人に並んで日本での殉教者の像があった。
ポルトガルという国
国名のポルトガルは、北部の商業都市ポルトに由来する。英語の港を意味するPortはここからきている。古くから海に目を向けたらしい。1500年代の大航海時代にインドから胡椒を、南米から金や銀の財宝を持ち帰った。これら多くの財宝がイギリスやオランダのように新たな投資に使われていれば、その後の歴史も違ったではないかと思う。多くの金や銀は教会という宗教施設の装飾に富の再生産には使われなかった。そのため観光で訪れる場所といえば、最西端のロカ岬を除けば教会や修道院に限られてしまう。財宝を使い果たしたのであろう。豊かな国という印象は受けなかった。
大学
コインブラ大学は日本の安土桃山時代に創立された古い大学である。30万冊の蔵書が保管され世界でも有数の歴史ある大学であるという。しかし、大学は古いことに価値があるわけではない。その後の歴史にどのような役割を果たしたかが問われる。英国やドイツのような科学上の重要な功績は知られていない。明治時代に開校した日本の大学でさえ、多くのノーベル賞学者を輩出している事実と比べると、大きな開きがある。
「かっぱ」が「がっぱ」に
日本に伝わったポルトガル語を街の中で探すのも興味があった。タバコがその一例である。リスボンの空港に着いて外に出ようとする時、大勢の出迎えの人でごった返していた。突然タバコのにおいがしてバスに乗るまで漂っていた。路上には吸い殻が所かまわず捨てられていた。
コインブラ大学前の路上では学生が合羽を羽織り、物売をしていた。日本語には連濁という特徴がある。例えば「灰(はい)」と「皿(さら)」がつながると、後ろの言葉が濁って「灰皿(はいざら)」になる。しかし外来語の場合は、連濁現象は起こらない。「紙」と「コップ」を繋げても「かみこっぷ」で「かみごっぷ」とはならない。ところが合羽の場合は「雨合羽(あまがっぱ)」のように濁る。ポルトガル語に起源をもつ合羽は日本語化している言葉である。
再会
人と人との間には、不思議な縁というものがあるようだ。このポルトガルの旅では思いがけない人と再会した。旅も残すところ二日という日であった。ホテルのフロントで部屋の鍵を受け取りエレベータに乗り込もうとする時、「髙田さんでしょう」と、ぼくの名前を呼び止める女性がいた。スーツケースの名札を見て、間違いないと思ったようだ。「歴史街道・・・」と言われたが、突然のことで直ぐにはこの人の名前が出てこない。一晩考えた末ようやく思い出した。翌日の朝、顔を合わせた時「K先生ですね、昨日は大変失礼しました」と詫びた。大阪の下町で開業医をしているK先生であった。毎年、年賀状の交換をしている方にもかかわらず忘れてしまっていた。次の目的地に向かうバスの中では近くに座り、少しずつ会話を始めた。スペインの巡礼地サンチャゴを見下ろす丘で記念の写真を撮った。
(2018,3,31)
K先生との初めての出会いは妻が亡くなった翌年二〇一二年の九月であった。寂しさを紛らわそうと一人旅に出ることが多かった。もしかすると出会いがあるかもしれない。ほのかな期待もないわけではなかった。京都から若狭の小浜へ行く歴史街道倶楽部の旅に参加した。大石宿や神宮寺、奈良東大寺のお水取りの水が流れ出すところを巡った。水が流れ出るといっても実際に流れるのではない。地下を流れて奈良で地上に湧き出るという想像の世界であることを現地に行って初めて知った。この旅では、廃藩置県直後の一時期、現在福井県に属する小浜は滋賀県に含まれていたことも知った。
出発の京都駅でバスの窓側の席に座り、何かを期待して通路側をあけた。案の定、「この席空いていますか」と尋ねる女性がいた。単に会釈をして黙っていると、「JRはよく人身事故を起こすので昨晩は駅前のホテルに泊まりました」と話し始めた。道中は話が弾んだ。というのも、往きはぼくの生まれ故郷の琵琶湖の西側の道を走ったので所々でその土地の説明をした。なぜか会話は途切れなかった。帰りは鯖街道を通り大原を抜け京都市内に入った。念のため「おひとりですか」と聞いたところ、「主人がいます。私は大阪で開業しています」との返答である。バスを降りJRに乗り換え新大阪で別れるまで話が続いた。電車の中でも「最近、臨終の近い人に心臓マッサージをしないのはなぜですか」と聞くと「ろっ骨が折れて遺族がクレームをつけるからです」と説明された。
別れ際に名刺をもらい、それ以来毎年、年賀状をやり取りする間柄になった。それでも、顔は忘れてしまっていた。
帰国後、二つのことをK先生にお願いした。一つはぼくが代表をしていた目の難病、加齢黄斑変性の患者会で講演をしていただくことであった。六月大阪で開いた会合では、長年地域医療に携わってこられた経験から高齢者の健康維持について話していただいた。筋力低下を防ぐための無理のない体操をすることが大切であると強調された。ありがたいことに患者会へ多額に寄付まで頂いた。
もう一つのお願いは、娘のリサイタルに来ていただくことであった。快く引き受けていただきお祝いまで頂いた。娘は留学先のパリの大学を卒業した後も、フランスに残り音楽活動を続けていた。ラジオ局の仕事や子供にピアノを教えて生活していた。妻が亡くなると一人暮らしのぼくのことが心配になったのであろう。二〇一五年三月に帰国した。この日に備えて、二〇〇一年には新築した家はグランドピアノが置けるように設計しておいた。
近所の子供たち二〇数人にレッスンをする一方でリサイタルなどを開いている。毎日子供達が学校を終わると習いにきて家は賑やかになる。毎年四月に行う発表会に備えて、どの子も一所懸命練習に励んでいる。
二〇一七年秋には芦屋で、そして二〇一八年十月三十日には西宮の兵庫芸術文化劇場でリサイタルを開いた。三〇〇人の席はほぼ埋まった。
平泉
夏草や兵どもが夢の跡
五月雨を降りのこしてや光堂
平泉の中尊寺を訪れたのは、二〇一六年四月「東北の桜を見る」ツアーの最終日である。日記にはただ一行「中尊寺金堂を見学して仙台空港から戻った」とだけ記されている。写真も撮っていない。今からその理由を考えると、そもそもこのツアーの主な目的は弘前城の桜と太宰治の生誕地金木町近くの枝垂れ桜を見ることであった。二つ目の理由は、出発の時から体調がよくなかったことである。本来なら大阪空港までは電車で行くところ、ぎりぎりまで待って、タクシーを呼んだ。道路が渋滞していて空港に着いたのは集合時間を過ぎていた。帰宅後の日記にも鼻血が出たと書かれている。三つ目の理由は、日本にとっては重要な文化遺産であっても、わび・さびの日本文化とは異なり少し異質のものを感じたからだと思う。
桜は東北まで行かなくても見ることが出来る。まず、桜に拘った理由は美しいものを見ておきたい。二〇一四年九月に加齢黄斑変性にかかった。病名の前には枕詞のように「失明の怖れ」がつく眼の難病である。ならば、見える内に美しいものを見ておこう。「春には桜、秋は紅葉を」と決めた。東北の桜に決めたのは、弘前城が現存十二天守の一つで堀に浮かぶ散った桜の光景が美しいと写真で見ていたからである。
一日目は到着した空港からバスで角館の桜へ。小京都といわれるだけに落ち着いた雰囲気の町であった。盛岡経由で十和田湖畔の宿に宿泊。翌日は奥入瀬渓流、死の行軍で知られる八甲田山を経て金木町、太宰治の生家近くの公園の枝垂れ桜。最後に弘前城の桜という強行軍の日程が組まれていた。
太宰治の小説はいつの頃か思い出せないが、読んだことがある。「人間失格」だったか「斜陽」だったか思い出せないが、「蜆汁の蜆まで口に入れるのは貧乏人」という趣旨のことが書かれていたのを今でも覚えている。琵琶湖で育ったぼくにとってはみそ汁には蜆が欠かせなかった。「そういうものか」と思ったことがある。青森の十三湖は蜆が捕れるみずうみと承知している。太宰がそのように書いた理由がいまだに良く分らない。この日は好天で太宰の小説にも出て来る岩木山がよく見えた。
十二天守
現存する十二天守の一つ弘前城は最も北にある城である。東北は関西からは遠く、そのためにだけ来るのが難しい。最後の訪問になった。二〇一二年六月には、前立腺がんの病気平癒に祈願のため西国三十三札所巡りを岐阜の谷汲山華厳寺で満願成就していた。新たな目標を探して現存十二天守を選んだ。
この時は、改修のため移築が始まった頃で、珍しさから多くの人で賑わっていた。堀に散った桜の花びらの光景はまるでピンクの絨毯のようであった。
十二天守といえば、紅葉の素晴らしい城がある。四国の丸亀城である。丸亀城は二〇一二年六月に十二天守を訪ねようと思い立ち最初に訪れた城である。その時の写真が見当たらず二〇一八年十二月に再び訪れた。二度も訪れたのは、十二天守を巡った記録集をまとめようと思ったからである。丸亀城は石垣が立派なことで知られている。台風で石垣が崩れ修復中であった。あいにく小雨が降っていたが、むしろ雨に映えて紅葉が見事に浮かび上がった。
二〇一二年六月二三日(土)の日記
天気も良いので丸亀城を見に行くことを思い立った。家を出たのは9時前である。山陽自動車道、瀬戸大橋を経由して坂出・丸亀で出た。途中、水島や鷲羽山を通った。丸亀城に着いたのは12時前であった。かつての城主は近江にゆかりのある京極氏であった。大溝城主や近江八幡の城主を勤めたとあり、縁があるように思った。
車は無料の市の生涯センターに停めさせてもらった。帰路は一一号線を走り、途中で高松自動車道に入り淡路島を経て阪神高速を走った。
尾花沢
涼しさを我宿にしてねまる也
這出よかひやが下のひきの声
まゆはきを俤にして紅花の花
尾花沢には銀山温泉がある。この度の蔵王、松島のツアーの二日目に組み込まれていた。地元の観光案内には「一七四一年に温泉地として盛んになる」と記されている。芭蕉が銀山温泉を訪れたかは定かでないが、この記述からすると芭蕉の時代には温泉はなかったと思われる。かつて銀山があったことから銀山温泉と名づけられた。昔の風情のある温泉街で観光案内には「大正ロマンあふれる」と宣伝している。この宣伝文句から、もう一度来るとすれば紅葉の美しい秋に星空が見える時期が一番いいのではないかと思う。冬の季節にあえて泊まるのはいかにも侘しい。銀山温泉は冬の雪景色が珍しい中国人観光客で賑わい写真撮影に余念がなかった。
銀山温泉は間欠泉が出る温泉だという。でも短時間で各地を駆け足で回るツアーでは、蒸気が噴き出す瞬間まで待つ余裕はない。
イエローストーン
間歇泉といえば、世界的に有名なアメリカのイエローストーンがある。デトロイトを金曜日の夕方発ってソルトレークシティーまで飛んだ。レンタカーを借りイエローストーン近くのホテルに泊まることにした。カーナビのような便利なものがない時代のことで、暗闇の中を走り続けた。無事目的地に着くのかと不安を覚えつつ運転し、ようやくホテルに辿り着いたときは緊張が一気に解けた。
翌日イエローストーンに向かう途中、山火事の跡を見つつ運転を続けた。落雷による自然発火によるもので、焼け跡に残った種から再び芽が出、木々に成長しやがて森が復活する。森が焼けては再び生き返るサイクルを繰り返す。
イエローストーンにようやく着いた。三〇分おきに数十メートルもの高さに噴き上げる間歇泉のエネルギーに圧倒された。いったん噴出が収まると他の珍しい光景を見に行き、三〇分後に再び見に戻ることを繰り返した。付近には野生の牛バイソンの群れがいた。
間歇泉だけでなく、火山による珍しい自然の姿を見ることが出来た。石灰分が階段状に蓄積した姿や泥岩、火山岩が温泉に交じり何とも言えない色調を醸し出していた。ここにはバイソンという野牛が群れをなしていた。
その夜は国立公園内にある湖畔のホテルに泊まった。
山寺(立石寺)
閑かさや岩にしみ入蝉の声
「旅の始まり」に書いた山寺である。「ぼくのほそ道」を書くきっかけになった。この句はぼくにとっては、芭蕉の句の中では最もなじみのある句である。山寺に来て、頭の中で描いていた情景と実際に見る景色とは大きく違っていた。芭蕉は蝉の声を聞きながら奥の細道を歩く姿を思い描いた。森の中の平坦な道である。森の中は静かで涼しい。小川が流れ、意識するほどもない程度の岩がある。森の中の木にとまった蝉が静かに鳴き始め、辺りにこだまする。その音が岩に溶け込んでいく。暑い夏も涼しく感じるような句であると。
実際に山寺に来てみると、そこにある岩は思い描いたより大きかった。むき出しの岩を見ると、静けさとは程遠いうるさいほどの蝉の声がしたのではなかろうか。山寺ははるか山の上に建っていた。
実は、この山寺には二〇一五年八月出羽三山に来た時に立ち寄っている。日記を読み直して思い出した。日記を読むまで、まったく記憶から抜けていた。ツアーの他の人たちは山寺のある所まで登って行ったが、一時間ほど下で待っていた。その高さに気おくれがしたのと旅の疲れがでたのであろうか。もし、その時お寺のある所まで登っていれば、八月の終わりではあったが、夏の最後の蝉の声が聞こえたのかもしれない。残念な気がする。
大石田
五月雨をあつめて早し最上川
大石田は山寺から尾花沢(銀山温泉)に向かう時、通過しただけの所である。芭蕉の通ったルートとは反対であった。最近、東北を旅行地に選ぶことが多いが、残念ながらこれが最上川だという記憶はない。最上川は富士川と九州の球磨川と並んで三大急流のひとつといわれている。このうち、富士川の急流下りは体験したことがある。
富士川の急流下りの体験は二〇一八年八月のことである。小さな船には二十名程度が乗ったであろうか。急流に差し掛かると水しぶきがかかる。一斉に船にとりつけられたビニールで防いだ。下流の船着場に到着すると船はトラックに積まれ上流へ運ばれていった。観光業とは言え結構手間のかかる仕事だと思った。
富士川急流下りの船にはは長野県阿智村で星空観察に参加した翌日に乗った。阿智村は星空で売り出した観光の村である。満天の星空、とりわけ子供のころに見た天の川をもう一度見たかった。あいにくこの日は雲が多く写真を撮ることができなかった。
特にマニアというわけではないが、京都大学花山天文台の会員になっている。天体観測会には参加することがある。二〇一五年一〇月、飛騨天文台の観測会に参加した。日程は高山祭に合わせて組まれていた。会誌「あすとろん」に投稿した文を抜粋する。
二三〇万年前の光が見えた
あいにくの曇り空であった。旅程表には「月などの観望」と書かれているが、期待せずにバスに乗り込んだ。65CM望遠鏡を覗いたが、何も見えず暗闇の世界であった。何回かの順番待ちを重ねるうちに、幸運が巡ってきた。レンズの中にうっすらと楕円形の光が見えた。アンドロメダ星雲である。レンズを通してであるが、星雲を見たのは初めてであった。天気がよければ肉眼で見ることが出来るという。大きさは二十万光年で銀河系の倍もある。天文の入門書によると、いずれ衝突する運命にあるという。といっても随分先のことである。
オリオン座と人工衛星が見えた
二日目は雨模様で太陽観測はできず施設の見学になった。三日目の早朝、星空が見えるとの電話連絡で飛び起きた。露天風呂から眺めようと湯に入ったが、周りの木の枝が邪魔をして見えない。すぐに湯から出て飛び出し服に着替えた。ホテル前の道路には既に十数名の人が星空を眺めていた。オリオン座がはっきり見えた。冬の大三角といわれる。こいぬ座のプロキオンとおおいぬ座のシリウスも見えた。
観察者の一人がプロキオンの西に動くものがあるという。人工衛星ではないかとつぶやいた。目を凝らしていると一瞬ピカッと光った。やはり人工衛星だと思った。
それにしても肉眼で星空を見るのは何年ぶりのことか。幼年の頃、「子供の科学」という雑誌を読んで星空に興味を持った。夏には北極星を中心に北斗七星やカシオペア座を眺めた。時には天の川も見ることが出来た。生家のあった琵琶湖西岸の村のことである。それ医らのことであった。
(2015,10,13)
旅先で写真を摂ることもある。デジカメでは難しい。自慢できるものは少ないが、珍しい天体現象をとったことがある。月と木星、金星が一直線に並んだものである。琵琶湖最北端のつづらおで撮影した。比較的鮮明な星座は志賀高原で明け方に撮影した。オリオン座は空気も澄んでいたので、はっきりとその形をとらえることが出来た。
出羽三山
二〇一五年八月の終わりに三泊四日で猪苗代湖、裏磐梯など福島県、出羽三山など山形県を巡る旅に参加した。サンダーバードと開通したばかりの北陸新幹線を乗り継いで上越妙高駅でバスに乗った。三日目の八月二五日に出羽三山を訪れた。
湯殿山には本殿らしきものはない。裸足になって湧き出た湯の中を歩く。強風で寒く合羽を出した。そこから羽黒山に行き昼食、午後は月山のハイキングコース二キロを約一時間歩いた。高山植物があったが歩道の木を見て歩くのが精一杯である。ここから見る鳥海山の景色がよかった。芭蕉が歩いた道順は羽黒山、月山の後に湯殿山であるが、この旅では湯殿山最初が最初になっていた。
その夜は温海温泉に泊まる。
羽黒
有難や雪をかほらす南谷
涼しさやほの三日月の羽黒山
羽黒山には森の中に見上げるほど高い五重塔があった。芭蕉は「有難や」で始まる句に続いて、地名の由来を紹介している。
延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写。「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍るとやらん。月山、湯殿を合て三山とす。
月山
雪の山幾つ崩て月の山
月山にはハイキングコースがあり遠くに鳥海山を見ることが出来た。
湯殿山
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
神社の中は撮影禁止で写真はない。神社の中に滝が流れていて裸足になって歩いた記憶がある。身を清める儀式のひとつであったようだ。写真の山が湯殿山かどうか確信はない。この写真は写りが悪いが。良く見ると赤い鳥居が写っているから間違いない。湯殿山に向かうバスから撮影したものと思う。
酒田
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
暑き日を海にいれたり最上川
この句にある最上川は「五月雨をあつめて早し」の最上川より下流にある。酒田は何秋か通過している。出羽三山を訪れた日に、温海温泉に泊まるために通った。翌日、温海温泉から鳥海山に向かう途中にも通過した。そして、上越妙高へ戻るときにも通過した。町の記憶はないが、日本海から吹き付ける強風を防ぐための松林が続いていたように思う。鳥海山からは南西の方向に酒田の港が見えた。
鳥海山に向かう途中に渡った最上川は一瞬のことだし、写真もなければ記憶にもない。最上川に架かる橋には名前がついているはずだ。グーグルで検索しストリートビューで見ると、七号線には新広田橋、一一二号線には出羽大橋、三八号線には両羽橋との名前が付けられている。
橋の名前の書き方について興味ある話を、房総半島を旅した時のガイドから聞いた。千葉県は観光名所が少ないためか、この時のガイドは雑学を話してくれた。
「橋」と「はし」
ガイドの説明によると、橋の名前は、橋の両端に書かれている。片方には漢字で、もう一方には「ひらがな」で書くように決まっている。漢字、ひらがなの区別は東京の日本橋を起点にして判断する。近い方には漢字で、遠い方にはひらがなで書くルールになっているそうだ。日本橋を基準にするのが難しい場合は、その道路の起点で判断することになっている。
そこで、大阪市内の橋を確認することにした。大阪のビジネスの中心街、御堂筋を横切る土佐堀川に架かる淀屋橋がある。江戸時代の豪商淀屋が架橋したことから名前の由来がある。重要文化財である。橋の西には日銀大阪支店や住友グループのビルが立ち並ぶ。東には大阪市役所や中之島図書館、中央公会堂がある。
御堂筋は一方通行で自動車は北から南に走っている。北詰めと南詰めのいずれが東京の日本橋に近いのか判然としない。いずれにしてもガイドの説明に従えば、北詰めと南詰めはそれぞれ同じ文字でなければならに理屈になる。ところがそうはなっていない。北詰は、東側つまり車の進行方向の左側が「ひらがな」西が「漢字」となっている。南詰めは、東側、車の出口に漢字、西側にひらがなという風に、道路を挟んで、漢字とひらがなが交差する形になっている。要するに、車の進行方向の左側の入り口が「ひらがな」、出口が「漢字」と考えればよさそうだ。
大津の瀬田川に架かる瀬田唐橋も交差する形で表示されていた。日本橋を基準とする説明は無理がある。京都に近い方の左側にひらがなで「せたのからはし」と書かれているはず。
瀬田の唐橋は古くから交通の要衝であった。諺に「急がば回れ」というのがある。急ぐのであれば、回り道ではなく近道の方が早い。意味が理解しがた諺である。調べると、室町時代の連歌師宗長が作った歌に由来する。
「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の唐橋」
東海道と中山道は草津で合流する。そこから京へ向かうには二つのルートがあった。矢橋から船に乗って大津に渡るルート、もう一つは陸路で瀬田の唐橋を渡るルート。矢橋ルートは確かに速いけれど、比叡山から吹き降ろす突風で遭難することが多かった。そこで回り道をしてでも安全な唐橋ルートが勧めらてた。
折角ここまで調べたのだからと、東海道五十三次の終点、京都の鴨川に架かる三条大橋がどうなってるか知りたくなった。なまえを表すようなものは何一つなかった。それでは、下流の四条大橋はどうか。南西角に碑が立っているだけで、淀屋橋や瀬田唐橋のように橋そのものには何もなかった。
象潟
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
ルーツは戦国武将?
鳥海山5合目から北西の方向に象潟方面が見える。象潟は秋田県「にかほ市」にある。「にかほ」は漢字で仁賀保と書く。ぼくの旧姓仁賀(にが)を含む地名が秋田県にあることは、地理の時間に気付いていた。どのような土地か興味を抱き続けてきた。とはいえ、奥の細道の象潟に関係するとはつゆ知らずにいた。鳥海山から見下ろすと随分景色のいい所であった。
仁賀は全国でも数少ない名字である。NHKに番組に呼ばれるのではないかと期待している。琵琶湖の西岸、白髭神社を挟んで南と北にある二つの所、打下(うちおろし)と鵜川(うかわ)にしか存在しないとされている。
子供の頃、父から明治になって百姓も名字が許されることになったと教えてくれた。仁賀の名字は、昔この地を治めた戦国武将、仁賀五郎左衛門からもらったのだという。この武将の名は溝口譲二監督の映画「雨月物語」にも出て来るともいう。そういわれると信じるしかない。
父が亡くなった後に、「雨月物語」が大阪梅田の映画館で上映されていることを知り確かめにいった。物語は賤ケ岳の合戦があった戦国時代の北近江から始まる。たしかに二回も「にが」の名を耳にした。戦乱から免れるため船で「仁賀五郎左衛門の城下、琵琶湖西岸の大溝へ渡り、陶器を売る場面である。
目でも確認しておこうと、キネマ旬報社の映画のシナリオをアマゾンから取りよせた。ところが、仁賀の文字はなく、あったのは丹羽であった。丹羽五郎左衛門のことである。丹羽長秀五郎左衛門は信長に仕えた実在の人物である。戦国の時代に大溝城を治めたという史実がある。キネマ旬報は昭和31年12月10日の発行で150円であった。
それでは、この名字は一体どこから来たのか。興味がふくらむ。インターネットで調べると広島県の三次市とNHK朝ドラ「マッサン」の舞台になった竹原市にその地名の在所があることが分かった。仁賀小学校が三次市にも竹原市にもある。
2014年7月、早速現地を訪ねることにした。三次市では図書館に立ち寄り、郷土史のような本を見せてもらったが、地名以外には何もなく名字はない。竹原市では郷土史研究家の方にお会いした。「マッサン」の造り酒屋など市内の観光案内をしていただいた後、仁賀という在所にある延命寺というお寺に案内していただいた。女性の住職の話によると、昔仁賀藤右衛門という人がいた記録があるという。しかし、現在仁賀姓を名乗っている人はいない。念のため電話帳を調べたがなかった。
もしかすると、戦国に時代に山陽道を通って近江に来た侍がいたのかもしれない。たしかなことは言えない。未だに謎である。
この全国でも少ない姓を持つ人に偶然出会ったことがある。2017年春、大阪港からサンフラワー号に乗り九州の宮崎、鹿児島を旅行した時のことである。到着した志布志港にで待っていた観光バスの乗降口に貼られた座席表を見ると、驚いたことに「仁賀」という文字があった。「「出身地はもしや滋賀県の高島では」と尋ねると、隣の鵜川の生まれだという。学校を卒業すると、すぐに鵜川を出て今は大阪に住んでいると話された。
この人の話では、中国に行った時に大変喜ばれたという。「仁」と言い、「賀」と言い、どちらも縁起のよい意味の漢字だからだ。
ところが七年間暮らしたアメリカでは事情が異なった。名刺に書いた「Niga」をそのままローマ字読みすると、差別用語を連想するようだ。気を使って「naiga」と発音し、空港の空席案内のアナウンスでは「ミスター・ナイジャ」と呼ばれ、すぐには自分のこととは気が付かなかったことがある。
のぶなが
ぼくが生まれた打下という在所は琵琶湖西岸の街道沿いにあった。裏は比良山系の山が迫り、前には琵琶湖が広がった。正面には伊吹山が聳えた。八十軒ばかりの集落で、ほとんどが農業で生計を立てていた。浄土真宗の東本願寺系と西本願寺系の二つのお寺がった。祖母が伊吹山から昇るお日さんに手を合わせることから一日が始まった。
祖母は明治二十年同じ打下の南にある家の次女として生まれた。子供の時に、この家に養女に出され、養子を迎えた。二男二女に恵まれたが、父以外は戦地やスペイン風邪で亡くなった。その上、ぼくから見れば祖父に当たる連れ合いにも先立たれた。一人で切り盛りしてきた自負からか、怒ると怖いお婆さんであった。
母は、大津の県庁へ勤めに出る背広姿の父を送り出すと、脚絆に小手の姿で田へ出て行った。農地改革で残された七反の田を女手一つで守っていた。ある年、草取りをしているとき蛭に足首をかまれ血まみれになって帰ってきたことがある。まさに米は汗と血の結晶であった。米粒を一粒たりとも残すことは許されなかった。
昭和三十二年ぼくの高校入学の年、四つ年上の姉が大津の遠い親類筋に嫁ぐことになった。育てた子供が離れていく寂しさに襲われたのか、「どうしょう、どうしよう」と体を震わせた。その母を祖母がやさしく抱きしめて、気持ちを落ち着かせた。
昭和五十四年、祖母の容体が急変した。病院へ行くタクシーの中、母はその昔抱いてくれた祖母を抱きしめた。祖母は母の胸の中で静かに息を引き取った。九十二歳であった。この頃はまだ土葬の習慣が残っていた。経帷子に身を包み親類の男に交じって村外れの三昧まで担いだ。琵琶湖の見える高台に葬られた。母は祖母の二十三年後、父から八年後に亡くなった。八十四歳であった。
「のぶなが」の名を知ったのは小学校入学前、生家の囲炉裏端であった