近江商人の町を訪ねて

近江商人の町を訪ねて

日野祭

 

 日野は、近江八幡、五個荘と並ぶ近江商人を輩出した町である。現在も商社や百貨店はじめ多くの企業が活躍している。

 5月3日は日野祭の日である。午前11時に馬見岡綿向神社に16基の曳山が集まった。日野町は滋賀県で唯一残る町で人口22000人である。これだけの人口で16基の曳山を維持する地元の人たちの苦労は並大抵ではないと思った。いずれも1700年代から1800年代に作られた。


 曳山には、かつてこの地を治めた蒲生氏郷公や井伊直政、直虎など地元にゆかりのある人の像が掲げられていた。中には天秤棒を担いで行商をした近江商人の姿もある。

 近江商人の考え方は三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)といわれ、現代に通じる経営理念である。近江に本宅を置いて関東や東北で商売をしていた。

 曳山が神社から御旅所まで向かう本通りに面する家々では「桟敷窓」があった。板塀を一部切り取り、中に桟敷を作って曳山を見る。この土地ならではの光景である。

 

ある家の中を覗き込むと屏風が飾られ、その前で伝統料理を味わいながら祭りを楽しむようであった。

 

 

五箇荘

 

 ある商家には天秤棒が置かれていた。近江商人が天秤棒で運んだものは、麻などの商品ではなく商品カタログだという。近江商人は富山の薬売りの様な小売商ではなく、卸商であった。その頃から総合商社の役割を果たしていたという。

 近江商人の研究家、小倉栄一郎氏によると、地場産業が早くから発達していた。近江八幡の蚊帳、畳表、日野の塗椀、売薬、五個荘の麻布である。いずれも原料は他国産で、これを調達して農家に内職に出した。内職は分業で行われ、これを製品に仕上げ、問屋が販売するという仕組みが出来た。

 

 

 私小説家として知られる外村繁は五箇荘の呉服木綿問屋の商家の生まれである。生家には、家訓が展示されていた。

第一条 業務に勉励し、商店の利益増進を図るべし(売り手よし)

第二条 得意先は勿論、取引先下職に対しても言語動作を慎み大切に応接すべし

 

 外村繁は高校の大先輩である。その作品に昭和31年の真文学賞を受賞した「筏」がある。このほか「草筏」「花筏」がある。生家の門前に花筏が植えられていた。

 

 古い町並みが残され、街の中を流れる川には鯉が泳いでいた。また川には花壇が置かれ、季節の花が咲いていた。