雲南省 麗江から世界有数の虎跳渓 茶馬古道トレッキング

雲南省 麗江 虎跳渓トレッキング(9月13~19日)

9月13日台風被害の有った関空から韓国インチョン経由で中国重慶を経て麗江市でシャングリラ県にある虎跳渓観光、茶馬古道トレッキング2日間合計12時間ほど断崖絶壁の道をトレッキングしたり、日本の倉敷美観地区の20倍ほどの規模の大変美しい古城地区などを19日までの旅行記。

まず最初は麗江市内から公園というか中国国立の観光施設「玉龍雪山」の屋外シーン「麗江印象」の動画を載せます。入場料は一人US$60.00であまり安くないとは最初思った。しかし鑑賞後それ相応の価値が有った。

中国では有名な映画監督 張藝謀氏(北京オリンピックの脚色で有名)によるもので総勢500名の男女が織りなすオペラと言ったほうが良いかもしれない。多人数が参加し織りなすシーンは見ごたえがあった。出演者が振り回している物は、馬の鞍。

見ている最中雨に見舞われた。名の如く雲南省は雲の多い地方で施設側には雨合羽が用意されており支障なく観劇できた。

アイフォンの電池の加減ですべてを録画できなかったのが残念で悔やまれる。

9月13日 出発

強烈な台風22号の被害により関空への連絡橋が一時通行止めになったのは広く知られている通りだが対面通行が開始されなんとか第二ターミナルへ予定変更しソウル・インチョン空港便を運行するというメールがありバスに乗り出発した。

↓ 以下それぞれの写真はダブルクリックすると写真を拡大して見れます。

海底の砂地にアンカーで係留されていたタンカーが流され連絡橋にぶつかり連絡橋が不通になっていた。マイカー以外のバスなどが通行できるようになって幸いであった。

第二ターミナルを初めて利用した。LCC(ローコストキャリアー)専用のため立て付けや構造を極力安価に作ったというだけあって天井はむき出し、出発待合ロビーから搭乗口はただの出口という次第であった。どう考えるかはおまかせするが、小生が考えるにはここまでやるか?と言う印象であった。20年ほど昔のミャンマーの空港みたいな感じが否めず、長期使用する空港も普通の家も同じ、長い目で見れば安普請も普通の家もさほどコストの違いは無いものでここまで日本の玄関を貧相にする必要がどこにあるのだろうかと疑問を感じた。

搭乗は、昔のタラップ階段で効率などを考えた場合どちらがよいか言うまでもなく、長期使用でかかる設備費は当初多少高くついても結果的には大差ない。出口も数字が書かれてていくつもあると思ったら2つしか出口がなかった。

 

ソウル・インチョン国際空港

ハブ空港競争の折、関空とインチョン空港がしのぎを削った経緯がある。しかし立地条件に置いて建設コストの差で高くついた関空は斬新なデザインと構造で勝っていても結局規模と滑走路の本数で当初から負けておりアジアの玄関口ハブ空港にはなりきれなかった。現在は旧羽田空港を改善し世界第5位の日本のハブ空港になっている。

沖合まで結構距離があり、そこに至る陸から海にかけて埋め立てれば世界一の空港も夢では無いと思うが、既に外国航空会社の航空路線が出来上がっており、ハブ化は出遅れた感じがする。

韓国インチョン空港もその後改善を加えかなりの規模になっており、関西方面からであれば羽田・成田より発着本数や諸外国の航空会社の乗り入れが多く、よく知らないが自分の理解する限りここへ来れば世界中行きたい場所に行けるという印象があり、今回のツアーで中国雲南省へ重慶経由麗江空港までAir China(China Airは先発の台湾の航空会社名)で利用できた。

インチョン空港は関空に比べかなり大きく受付カウンターは比較にならないほどたくさんあり発着便表示を眺めているだけで夢が膨らむ感じであった。ただしこれは経由空港の重慶国際空港を見るまでの話であった。香港の空港もかなりでかいと知っていたがおそらくそれを上回る同時発着滑走路を何本も持っていると思われる。

重慶到着

重慶国際空港は、中国三大都市の一つでガイドから昨年開港したと聞いたが規模がインチョンよりまだ大きかった。

 

 

 

 

 

 

 

国際線乗り場から出てきたところ、どの程度の大きさかはこの段階ではあまり分からなかったし写真からでもわからないが、歩いてみてかなり大きそうな感じであった。

国内線へ移動したとこである。中国少数民族の反政府活動に対しかなりセキュリティーチェックが厳しくいたるところでチェックが有るとともにカバンに電池などないかチェックしている風景。チェックインと同時にカバンの内部におかしなものがあるかどうかベルトコンベアーの端にある機械ではなく、チェックする機械が各カウンターごとについていた。

西は新疆ウイグル自治区につながる空港であることもその理由であろう。警備会社が調べるのでなく、中国軍が直接関与しており態度も横柄だった。二重三重に検査する厳重さが何があるのか物語っていた。

真新しい国内線チェックインロビーの風景

 

 

 

麗江空港から虎跳渓

麗江空港からバスで約1時間半ほど北に位置するシャングリラ県(香格里拉県)の南端に位置する虎跳渓へ向かった。チベットタンラ山脈の氷河を端を発し長江源流の金沙江と呼ばれる川を渡り更に下流へ行き虎跳渓に行く。金紗江とは名の通り砂金が採れることを意味しているとのことであった。

シャングリラ についてはウィキペディアリンク参照。昔からその噂を聞きとても関心の有った場所であった。

 

 

 

 

 

 
 
金沙江の写真上の方、下流方向へ移動中のバスの中より
 
 
 
 

 

このあたりまで水面はさほど荒れていなかった。

 

向かい側の山腹横に一筋の水平な線は、断崖絶壁の上に作られた茶馬古道、一瞬気を抜けば転落死を免れない。山は急傾斜で落石が多く見られた。

 

 

茶馬古道のトレッキングなどと聞こえは良かったのであるが、この絶壁を見て正直なところこの後と数日間のトレッキングを憂慮し始めていた。本人は高所恐怖症があり、中国の名勝というと必ず絶壁と隣合わせで家内は喜んでも本人は歓迎できないのが本音。何故こうも危ないものを観光するのか・・・安全なスリルと美しい景観は歓迎だが、命の危険と隣り合わせはあまり歓迎できない。

 

 

川幅が狭くなり始め、いよいよ激流が見えた。

 

 

 

激流のそばまで近寄れる観光用の階段と展望台の説明図。

 

 

ようやく虎跳渓のバス駐車場で小休止。

 

 

階段上からの渓流の展望、落差があり波立っているが、轟音が響いている。

 

上流方向の山の風景と金沙江の流れ

 

人がいてるのは中展望台

 

そのさらに下に展望台

 

 

2番めの展望台からの眺め

 

川向うの谷間にコンクリート製の橋がかけられている。激流の流れは、日本で見掛ける規模とスケールではなかった。

漢字を生んだ国の「怒涛」とはこのことではなかろうか、とにかく凄い・・・24時間川にダイナマイトを放り込んでいる状態。

 

 

 

金沙江横まで来て、ようやくその激流の激しさに驚いた。もはやこれは激流でなく、土石流のような状態。24時間絶え間なくダイナマイトを川に投げ込んでいるかのような激しさ、波飛沫は煙のように水面を舞っていた。写真を数枚連続しているのはその波の様を少しでもわかるように並べてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

激流が終わって少し静かになった下流方向の写真

 

 

何を祈願するのかわからないが沢山御札が飾られていた。

 

 

怒涛荒らめく川、虎跳渓とはよくつけたと思った。虎が跳ねているような感がある。

 

 

 

 

 

水が沸騰している感じ、水しぶきでなくダイナマイトを放り込まれた煙と言ったほうが近い表現かもしれない。

中虎挟へトレッキング

虎跳挟観光の後早速、中虎挟へトレッキング開始。大型バスから今度は小型ワゴンで茶馬古道登山口まで移動した。小型ワゴン7台ぐらいに分乗したが日本のような営業車という概念は無いらしく、白タクのようだった。運転は上手だが途中アチラコチラで落石が多く見られた。山は急峻で場所によりほぼ直角の斜面、落石も半端なくかなりでかい岩石が落下によりアスファルトに大きな穴が時々空いていた。直撃喰らえば即死であろう。途中岩石を崩す削岩作業の音が聞こえてきていた。

 

 

登り口に至る途中民家に梨の実がなっていた。日本に輸入される果物や野菜類は農薬が大量に使用されていてしっかり洗わないと食べれないと言われているが、場所によりけりで貧しい地域では農薬が高価な為使用していないことが多いらしい。

 

 

 

下車直後鮮やかな花が咲いていたので写真に撮った。なんの花かは不明。

 

 

小雨の中、中虎挟へ向けてトレッキング開始。大体の地図をもらっていたが分かり難くただついて行っただけであるが昼食を取る宿場まで約4時間歩いた。地図は後日ネットから入手したものである。

 

 

 

 

地図から分かるように金沙江(川)を間に置いて右に玉龍雪山の 最高峰は扇子陡(せんすとう、Shanzidou)標高5,596 m を眺めながら歩くことになる。歩き始めた辺りの標高は3千数百mだろうと思う。山頂には氷河と雪が見えた。以前ネーパールのランタン高原を歩いたときも3千mくらいから3日掛けて4千500mまで体を慣らし最後にカンジンコンパの5千m登頂した。

 

 

 

この辺りは少数民族ナス族のテリトリーと書かれてあった。

途中橋を架ける工事がされていた。山のむこうはおそらく麗江市で山腹にトンネルを空けているのだろうと思われる。中国の建設力はすごいものがある一方、土地はすべて国有で人は借地権で暮らしているので必要とあらば居住権などはさして抵抗力などなく何でも真っ直ぐに作られ、大きく美観など短期間で変化する。

 

 

数時間歩いてやっと昼食のできる宿屋に到着。ここは有名というより、ここしか無いのでよく写真が虎跳挟トレッキングの写真に出てくる場所でもある。

 

 

入ってすぐ真後ろがダイニングになっていた。

宿場の名前は、納西體閣

 

 

花が満開でした。黄色の花の名前は不明、赤はブーゲンビリア

 

 

軒先にとうもろこしが干してある。痩せた地でもよく育ち、主食であろう

 

 

昼食にとうもろこしが出ていました。料理は全般的に辛い四川風でご飯はパラパラ。焼き飯に向いているだろうと思いました。あれこれ注文を出すのも失礼かと、出される料理を食べました。標高3500mなのでいくら加熱しても80℃にしか温度が上がらないせいもあるであろう。

 

 

玉龍雪山への眺め

 

 

どこも壁などは石積みされているのが特徴的。

 

 

宿泊施設が下の方にあります。我々はここでは宿泊をせず次の集落で宿泊。

 

これも宿泊施設。

 

 

 

中国独特の風合いの瓦、上海や北京などの近代的建物より遥かに安らぎを覚える

 

 

親猫と子猫ですが、親並みに大きくなっても乳離れせず飲んでいた。

 

 

どちらが親かわからないぐらい大きな子猫

 

 

 

 

 

 

宿泊施設の案内と思われます。

 

これから登っていく道

 

 

トレッキング再開

 

 

この辺りから、馬糞やヤギの糞が行く手を阻んでくれます。もちろん避けながら歩くが、俊敏な運動神経が必要。

 

 

振り返って、来た道を眺め遠くに来たもんだと・・・

 

 

 

金沙江を眼下に見て

 

 

ようやく山頂近く標高3760m、こんなところにも電線が伸びてきています。携帯などの電波事情は日本以上に良い

 

 

 

 

 

ようやく山の頂上 海抜3760m

 

岩の向こうは断崖絶壁。高所恐怖症の為とても近寄れない。

 

 

ちょっとだけ、携帯を自撮り棒につけて絶壁を覗き見た。自分の目ではとてもとても・・・

 

 

道の先は絶壁怖くてぶれている。

 

 

玉龍雪山です。

 

 

 

 

 

 

 

 

手前の尾根を越えれば今夜の宿

 

宿からの玉龍雪山の眺め


 

 

 

ガードレールか手すりか?工事中

 

 

この辺りで気分は空中を舞っているような気分

 

 

左へ曲がって歩き、正面に見える滝の下をくぐって右方向へ、雨に見舞われいる最中

 

向こうに見える道路の辺りが中虎挟、ここで小型ワゴンに乗り換えて次の「玉龍雪山」の国立イベント公園へ「麗江シーン」を観劇に移動

 

 

麗江市を経由しテーマパーク「玉龍雪山」へ、どこでも玉龍雪山が書かれており、なにがなんだか分からず混同

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ページトップで小生が録画した動画はアイフォンの電池の都合で短かく、U-tubeに幸い全編録画したのが有ったので参考まで掲載。

 

 

翌日ナス族の村を訪問

 

 

 

 

 

贅肉のない飼い犬、エキササイズド・ドッグ

 

 

日本で言う古民家が博物館になっていました。

 

 

 

 

シャングリラ(英語: Shangri-La)は、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトン1933年に出版した小説『失われた地平線』に登場する理想郷(ユートピア)の名称。ただしこの小説は地理学者ジョセフ・フランシス・チャールズ・ロックの寄稿したナショナルジオグラフィックの記事を参考に現地に訪れること無く書かれたと現地で聞いた。

 

出版された当時のナショナルジオグラフィック。

 

 

 

トンパ文字  古代ナシ族の象形文字

 

官吏に連行される犯罪人とされる人たちの写真、後で処刑(死刑)されたと言っていた

 

「失われた地平線」の一場面の写真

 

 

 

当時のナショナルジオグラフィック誌

 

当時のナス族の写真

 

 

 

馬の背に乗せられた子供、母親に引かれて行く姿

 

 

あどけない表情が印象的だった

 

 

ナス族の村の家の門

 

 

老人が馬を引きながら歩く姿、現地で見た馬に乗っていく姿は見なかった、みんな馬を引いていた

 

街角でお孫さんを抱くおばあさん。見かけほどには高齢ではない。しかし海抜3000mで紫外線が強く肌が浅黒くなっていた

 

 

街並みの家々はすべて石積みの家屋だった。地質的に石灰岩が豊富なのであろう

 

 

 

観光客が多いせいか花が多く植えられていた。バラが印象的に目に映った

 

 

 

 

道の側溝。流れる水はとても清らかだった。おそらく石灰質が豊富に含まれている為透明度が高いのだろう。この辺りの池や川はすべて透明度が高かった。

 

 

観光客のため門の戸が空けられていた。

 

 

ダリアとバラが咲いていた

 

石積みの家と植えられた花がよく似合っていた。

 

 

ダリア

 

 

何かの蔵だろう

 

番犬あらぬ番馬

 

 

 

 

街の横丁って感じ

 

雲南省麗江市から西はタイが近いせいだろう、タイで見かけたガルーダのような木彫りがホテル前にあった

 

ホテル内に飾ってあったナス族の写真

 

 

ホテルの建築物の後ろは玉龍雪山

 

 

 

 

 

 

ニジマスが泳いでいた

 

 

 

 

トルコとギリシャの旅

 トルコとギリシャの旅

(2018,9,9~9,18)

なぜトルコとギリシャ

トルコとギリシャのツアーに参加した目的は、一つにはテレビで見たトルコの岩だらけのカッパドキアを見たかったこと、もう一つは世界史で習ったアテネのパルテノン神殿を見たいからであった。

 

エアバスA380で

9月4日に襲来した台風21号で関西空港の国際線滑走路が水を被り閉鎖された。9月9日の出発が危ぶまれたが、7日になり成田、バンコク経由で出発するとの連絡があった。かなり体力的に疲れると思ったが、準備してきたこともあり参加することにした。

新幹線品川駅で下車し、成田エクスプレスに乗り換えた。成田からバンコクまではANA、バンコクからエミレーツ航空である。機種はエアバスA380で、一階はエコノミー席、2階がビジネスクラスであった。二階後方にラウンジもありシャワーの装置もある。ラッキーであった。近く大阪ドバイ間に就航することになっている。

 

トルコ国内はバスで移動した。VIPとフロントに書かれていたが、シートベルトの不具合やトレーが壊れていて、EU基準を満たしているか疑問であった。

カッパドキアでは洞窟内のホテルに宿泊した。

カッパドキアからはかつてのシルクロードを西進した。隊商宿やイスラム色の強いコンヤを経由して次の温泉町までは600キロを超える長旅であった。早朝に出発してホテルには9時に着き、荷物を部屋に置く前に夕食という強行軍であった。

トルコからギリシャはエーゲ海の島々を巡るクルーズ船に乗った。船室は窓側にアップグレードされたが、スーツケースを置くのに一苦労する狭さでエアコンも効かないありさまでとても快適とは言えない。

帰りは関空に到着、回復の速さに感心した。リムジンも運行しており思ったより一時間早く帰宅できた。

強行軍の旅で体力的には疲れたが、気軽に話しかけてくれる人と巡り合い楽しい旅となった。旅は道連れ、世は情け。

 

 

文字

イスタンブールの二日目、文字がすべてアルファベットであることに気付いた。これまでイスラムの国ではアラビア文字が使われていると思い込んでいた。ガイドに質問すると、1923年にアルファベットが採用されたという。目的の一つは識字率の向上であったという。オスマントルコは第一次世界大戦で敗れ、トルコ革命がおこった。指導者のケマルは政教分離、ローマ字採用、女性参政権など近代化政策を進めた。

言葉には英語の影響とみられるものもあった。SIGARAは煙草のことと推測できる。

ギリシャでは勿論古代からのギリシャ文字である。αβγなどの小文字は数学で習うが、大文字はよく分らない。写真はアテネ市内のタクシーの文字である。屋根に「TAΞI」と書かれていた。Ξは「くし」と読む。町中の標識はギリシャ語と英語が併記されていて旅行者には親切である。

 

トイレ

エミレーツのラウンジはバンコク、ドバイ共にTOTOの製品を使っていた。トイレットペーパーの先端を三角に折るのは日本人のおもてなしの現れであると何かで読んだが、このラウンジはじめインスタンブールのホテルでも三角に折られていた。ある日本人の思い込みに違いない。

トルコでは、都市部のトイレは洋式であったが、地方には和式が多かった。どちらを向いて用を足すのか良く分らず手すりもなく不便この上ない。

ギリシャのクレタ島のCaféで、無料で貸してもらったトイレは紙が流れない。よく見ると紙を流さないようにとの英語の注意書きがあった。この点では南米ペルーの首都の一流ホテルと変わらない。

手を洗う蛇口の栓は、日本では上に上げるのと下に下げるのが混在しているが、トルコではすべて上に上げるものであった。

トイレの男女表記では、単数のもの複数のものが混在していた。複数の人が利用するのでMen、Womenが正しい。日本でも誤表記が多い。

 

人人人、車車車

インスタンブールでもアテネでも車が渋滞していた。インスタンブールでは、車道でペットボトルの水を売る少年がいた。まるで20年前のメキシコのようだった。アテネでは車の間をバイクがすり抜けていく。これだけ車が多くても、日本車は少なかった。おそらく高い割には高級感のない中途半端な車と思われているのかもしれない。

人の多さにも閉口した。エーゲ海に浮かぶサントリーニ島は日没がきれいなことで有名で、小さな村にはその光景を見に多くの人が押し寄せた。狭い道は人でごった返し、そのうえ石畳で歩きにくく足の裏が痛くなった。またアテネのパルテノン神殿の見学通路は満員の地下鉄のように身動きが取れないほどであった。

 

日の出と日没

カッパドキアの風景と日の出と日没

 

サントリニーア島(エーゲ海)の風景と日没

キリスト教とイスラム教

この地は、先ずギリシャ文明が栄えたあとローマ帝国が支配する。西ローマ帝国が滅びた後も東ローマ帝国がキリスト教を国教にしてコンスタンチノープルを首都にして栄える。そこにイスラムのオスマントルコが侵入するという歴史をたどった。

インスターブールのアヤソフィアはキリスト教会であった。オスマンが侵攻した後キリスト像を残してイスラム教の寺院になった。今は両者の共存を願って博物館になっている。その隣に立つブルーモスクは、1000年後に建てられたが、規模は大きいがアーチの大きさでアヤソフィアに及ばない。

カッパドキアには、ギョレメ野外博物館があった。所謂隠れキリシタンのいた洞窟である。壁に描かれたキリストの目や顔がえぐり取られていた。見つめるイスラム教徒が見つめると、改宗することを恐れたからとの説明であった。

 

トルコ商人

エジプトバザールをはじめ立ち寄った土産物店では日本語で「二個千円」と何とかの一つ覚えで迫って来る。なによりもカッパドキアの絨毯と最終日のレザーの店の営業マンの巧みな日本語を使っての商魂の逞しさには感心した。その熱意につい買ってしまうことになった。

先日NHKで、絨毯とカーペットは同じか違うかのクイズをしていたが、日本語か英語かの違いに過ぎない。写真ではよく分らないが門のところに「Carpets」と書かれていた。

絨毯を織るのは主婦の仕事で、訪れた洞窟に住む民家に織る器械が置かれていた。最近の若い女性は他の仕事を求めて、絨毯織はしなくなったという。この民家は四代目で先祖伝来の絨毯が敷かれていた。岩の上であったが、足が痛いと感じる事はなかった。洞窟に住む家族は5家族のみで、政府が世界遺産を理由に追い出しにかかっているそうだ。

レザーの店では、ファッションショウの後セールスマンが近寄ってきてコートを買う羽目になった。薄くて軽いのがセールスポイントである。いよいよ20年前に買ったコートとお別れすることにした。

 

 

遺跡と歴史

バムッカレはトルコ南西部の温泉地である。ホテル内に露天風呂があった。中国人女性が写真を撮ってくれた。

近くに石灰棚があり、温泉がローマ時代の療養所になっていた。石灰棚は雪山のようである。

美の女神に由来するアフロディスィアスの遺跡

アフロディシアスは、紀元前2世紀から6世紀まで栄えた古代ギリシャ・ローマ時代において最も壮大な都市のひとつといわれている。トルコ人学者が生涯をかけて発掘した。遺跡内には学者の墓があった。

エフェソス遺跡

エフェソス(ギリシャ語:Έφεσος, ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus)は、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシャ語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシャ人都市であったが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙がある。(ウィキペディア)

ガイドの説明によれば、世界最古の職業の館もあったという。

パルテノン神殿

アテネのペリクレスが建設した。アクロポリスの丘にある。

さいごにトルコ・ギリシャ旅行の注意

トルコでは人通りの多い露店の試食品には絶対手を出さない事、ホテルの生野菜も控えた方が良い。どのような水で洗っているかわからない。

アテネには集団スリが多い。バッグやリュックは前に持ち、財布は人の前では出さず、パスポートは腹巻に巻くなど細心の注意と警戒を怠らないことが大切だ。      

(218,9,20髙田 忍)