「入口」と「でぐち」

「入口」と「でぐち」

この写真は大の御堂筋の堂島川に架かる橋から西の方に向かって撮影したものである。左手前の低いビルは日銀大阪支店である。
この橋の名前は大江橋という。橋の両端にはその名前の銘板が付けられている。よく見ると、南詰には漢字で「大江橋」、北詰めにはひらがなで「おほえはし」と書かれている。

東京日本橋を起点にして、近い方には漢字で、遠い方にはひらがなで書くことになっているそうである。これはトンネルの名称も同じで、日本橋を基準にして近い方が入口で漢字、遠い方が出口でひらがなで書くこと決まりである。

但し、日本橋を基準にするのが難しい場合は、その道路の起点で判断することになっている。

 

堂島川

南詰

 

北詰

 

 

 

この高速道路は横浜市内のバスの中からで撮影したものである。白い線が引かれているが、この長さは8メートルと決められている。バスがすっぽり入る長さである。白線と白線の間は12メートルである。
一般道ではそれぞれ5メートルと決まっている。

岬と思い出

岬と思い出

足摺岬(四国最南端)

 7月2日から4日の三日間、台風が接近する中、四国の最南端の足摺岬まで車を走らせた。明石海峡を渡り淡路島を通り、鳴門で出て徳島自動車道を走った。一般道に出て渓谷美で知られる大歩危・小歩危に立ち寄った後、高知自動車道経由で目的地に向かった。約500キロの道のりであった。

 足摺岬のある土佐清水市の中浜は、ジョン万次郎の生誕地である。道端には、NHK大河ドラマ決定の看板が目立った。万次郎は1827年貧しい漁師の家に生まれた。14歳の時、足摺岬沖で漁をする漁船の雑用係をしている時に遭難、アメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡った。船長の養子となり教育を受け、1851年購入したアドベンチャー号で帰国した。

 1853年、黒船来航でアメリカの知識と語学力を認められ幕府に招聘された。維新後は東京大学の英語教師になった。

足摺岬灯台

足摺岬灯台

右の後方はジョン万次郎の像

右の後方はジョン万次郎の像

 

 翌日、四万十川沿いに愛媛県大洲に向かった。国道というのにすれ違うのに苦労するほどのくねくねした狭い道が続いた。中江藤樹邸跡を訪れるのが目的であった。県立大洲高校の敷地内にある。近江聖人といわれる中江藤樹は、1608年私の出身地の隣村である小川村に生まれた。9歳の時、米子藩の武士である祖父の養子となった。12歳の時、米子藩主が大洲範囲国替えとなり祖父母とともに移住した。27歳、母への孝行のため小川村に戻った。

 藤樹書院という私塾を開き、朱子学に傾倒し後に陽明学の影響を受けた。

中江藤樹邸跡

中江藤樹邸跡

邸内の額(私の出身中学校にも同じ額があった)

邸内の額(私の出身中学校にも同じ額があった)

 

 四国の最南端である足摺岬のことを書いたので、これまで行ったことのある最北端、最西端など日本や世界の「端っこ」を思い出し記録に残すことにした。

 

平戸(最西端の町)

 平戸という地名は中学生の頃から知っていた。同級生が転校していった先が平戸で、暫くは文通をしていたことがある。平戸は島であるが、九州と橋で結ばれているので九州最西端の町である。

 室町時代の1550年、松浦隆信が南蛮貿易に進出、平戸港にポルトガルの貿易船が初めて入港したといわれる。その年の九月にはフランシスコ・ザビエルが来航しキリスト教の布教を始めた。

 特に鎖国が行われる前の江戸時代初期まで対外貿易の中心として栄えていた。その後、対外貿易の窓口は長崎の出島になり平戸での南蛮貿易は終わった。

 三年前に娘と長崎を旅行した時、平戸を訪れた。

 平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺が交差して見える平戸を代表する風景である。日本と西洋の文化を感じさせる景観である。

平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺

平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺

平戸ザビエル記念教会

平戸ザビエル記念教会

宗谷岬(最北端)

 北海道に初めて行ったのは5年前、70歳を過ぎてからである。礼文島、利尻島を巡るツアーに参加した。羽田空港を経由して稚内空港に到着し、先ずバスで向かったのが宗谷岬であった。宗谷岬はわが国最北端の地である。

 「流氷とけて春風吹いて」で始まる歌謡曲で知られている。6月3日であったが寒々としていた。曇っていてロシア領サハリンは見えなかった。

宗谷岬からサハリン方面

宗谷岬からサハリン方面

 

 

 五年経った今でも記憶に残っているのは終戦直後に起こった悲劇である。昭和20年8月20日、「真岡郵便電子局事件」のことである。

 広島・長崎への原爆投下を知ったソ連軍が8月9日に日本に参戦を表明し、当時日本領であった樺太に侵攻してきた。ソ連兵の略奪、殺害、性的暴行を怖れた真岡郵便電信局の電話交換手をしていた若い女性12名の内9名が青酸カリなどで自決した。最果ての地の出来事で、本州ではあまり知られていない。

 

潮岬(本州最南端)

 潮岬は本州最南端の岬である。潮岬は和歌山県串本にある。「ここは串本、向かいは大島、仲を取り持つ巡航船」の串本節を思い出す。祖母が祝い事や宴会などがあると、伊勢音頭とともに串本節をよく歌った。明治生まれの祖母の世代にとっては、白浜や潮岬が観光地であったようだ。

潮岬(本州最南端)

潮岬(本州最南端)

 

 

知床岬(二番目の東)

 森繫久彌作詞作曲の「知床旅情」で知られる知床岬は、昨年9月に訪れた。金沢からクルーズ船に乗り船中で二泊、苫小牧港に着き阿寒湖で一泊、バスで長い距離を走った。知床五湖を散策の後、船で知床半島を巡った。

 

知床五湖

知床五湖

知床半島

知床半島

 

 この時乗った船に、かつて勤務した会社の製品が備え付けられているのに気づき驚いた。救命ボートである。遭難すると自然に膨らむゴムボートである。

住友電工製救命ボート

住友電工製救命ボート

 

 

ロカ岬(最西端)

 ユーラシア大陸最西端にある岬である。ポルトガルの首都リスボンから、程遠くないところにある。今年3月に訪れた。ロカ岬へ来たことの証明書を有料でもらえるとの添乗員の説明であったが、確かなのは自分の目だと言い聞かせ、岬に先端に立った。強風が吹きすさび、吹き飛ばされそうであった。

 岬には碑が立っている。案内書によると「ここに地終わり海始まる」の意味だそうである。ポルトガルは、日本に鉄砲やキリスト教をはじめヨーロッパ文化を伝えた国である。同じ海洋国家である点が共通している。

ロカ岬から大西洋を望む

ロカ岬から大西洋を望む

碑

寒風の中であったが、既に花が咲いていた。

寒風の中であったが、既に花が咲いていた。

 

 これらの岬は、何らかの形で外の世界とつながりがあることがわかった。それぞれ物語がある。決して日本や世界の「端っこ」ではない。

 

 最後に鉄道の駅と関連する施設を紹介して締めくくることにする。

 

稚内駅(最北端の駅)と幌延深地層研究センター(最も深い施設)

 

 稚内駅はJR最北端の駅である。サハリンと地下トンネルでつなぎ、ロシア大陸と直結するアイデアがあるが、当面実現の可能性はない。初めての北海道旅行の時のことである。稚内駅を出発し、宗谷本線を南下し幌延駅で下車した。

稚内駅

稚内駅

 

 稚内駅を出発し、宗谷本線を南下し幌延駅で下車した。ここから東北東3キロのところに、幌延深地層研究センターがある。日本原子力研究開発機構が管理する施設で、地下350メートル以上深さへの放射性廃棄物の地層処分に関する研究をしている。地下350メートルは経験した最も深い地点だと思う。

 

宗谷本線を走るジーゼルカー

宗谷本線を走るジーゼルカー

幌延深地層研究センター全景

幌延深地層研究センター全景

地下内部

地下内部

信濃川上駅(標高一の隣の駅)

 一番標高の高い所にある駅は長野県の野辺山駅である。信越線小諸駅と中央線小淵沢駅を結ぶ小海線の長野県の南端に位置する駅である。 駅の標高は1,345.67m。野辺山の小諸寄りの隣の駅が信濃川上駅である。川上村はレタスなどの高原野菜で知られる村である

 大学に入学した年の夏休みにほぼ一か月すごしたことがある。材木業のお宅で、三食付きの家庭教師のアルバイトであった。東京の音楽大学を目指していたお嬢さんの勉強の手助けをした。大学に入学したばかりで、向学心に燃えていたのか、ドイツ語で書かれた「DAS KAPITAL」3巻を持参し読破しようと考えた。歯が立たず、中学生の弟と近くを流れる千曲川で魚を釣ったり水浴びをしたりする毎日であった。

 二年前の秋、軽井沢での大学クラス会に参加する途中に立ち寄った。50数年ぶりのことであった。その頃と変わらないひっそりとした駅であった。(髙田 忍)

信濃川上駅駅舎

信濃川上駅駅舎

今年の桜

今年の桜

今年は例年より桜の開花が早く、あっという間に春が過ぎてしまった。今年、訪れた各地の桜の写真集である。

伊豆半島

今年一番早く桜を見たのは一月のことであった。伊豆半島の付け根にある温泉町熱海の桜である。1月25日のことで日本列島が寒さに震える中。ここでは桜祭りが行われていた。

 

 

翌日、早咲きで全国的に知られる河津桜を見に行った、少し時期が早く、それでも蕾みが開き始めていた。

 

四国高松 栗林公園

4月1日、天気が良かったのでドライブを思い立った。山陽道から瀬戸内大橋を渡り、四国高松の栗林公園へいった。かねてから一度は行ってみたいと思っていた庭園である。満開で多くの家族連れは職場の仲間で賑わっていた。大きな松も見事であった。帰りは淡路島を経由して戻った。

大阪 大川桜並木

4月2日、大阪法務局へNPO法人の登記申請へ行った際、天満橋の八軒屋浜から対岸の桜並木を撮った。満開であった。

 

宝塚、逆瀬川沿い

4月3日、宝塚市の逆瀬川沿いの桜である。根元から咲いていたので生命力の強さに感心し撮影した。

 

日光東照宮

4月8日から10日まで草津温泉、日光、鬼怒川温泉のバスツアーに参加した。関西より北に位置するため、まだ見頃であった。

群馬あしかがフラワーパーク

このフラワーパークは藤で有名なパークである。藤の花はようやく咲き始めたばかりであった。桜を背景に撮影した。

奈良吉野

4月12日、学生時代の友人、その家族12名で奈良県吉野の桜を見に行った。例年であれば見頃なのだが、早すぎた春の到来で葉桜ばかりであった。それでも新緑の美しさを楽しむことができた。夜はあべのハルカスで大阪の夜景を見ながら懇親を深めた。

 

滋賀県 海津大崎

4月17日、友の会の行事「歩こう会」で琵琶湖畔の海津大崎の花見ヲークが企画され参加した。近畿各地から家族を含めて14名が参加した。例年なら一番いいタイミングであったが、土地の人によると一週間来るのが遅かったという。それでも、葉桜の中にわずかに花が残っていた。去り行く春を惜しみながら懇親を深めた。

曇り空で墨絵のような琵琶湖の風景が印象に残った。

ひと筆書きの冬の旅、北近江から若狭、丹後の宮津へ

ひと筆書きの冬の旅、北近江から若狭、丹後の宮津へ

 2月の3連休を利用して大阪から宝塚まで三日間の旅をした。

 

 大阪から宝塚へは30分330円で行けるところ、時計の反対廻りで北近江の余呉、若狭、丹後の宮津を三日で巡った。

 

 北びわ湖観光協会のボランティアをしている知人から、「ジビエの祭典」に誘われた。ジビエとは狩猟で得た天然の野生鳥獣の食肉を意味する言葉(フランス語)で、ヨーロッパでは貴族の伝統料理として古くから発展してきたが日本では一般的ではない。

 

 会場は滋県賀の湖北地方、雪深い長浜市余呉町であった。折角ここまで行くのであれば、敦賀まで足を延ばし初めて小浜線に乗ることにした。若狭で一泊、さらに丹後の宮津に泊まることに決めた。

 

余呉で地元料理

 余呉は湖北の山に囲まれた小さな村であるが、賤ヶ岳の合戦が行われ歴史の舞台となった地である。

 

 信長が本能寺の変でなくなった後、羽柴秀吉と柴田勝家その後継者を信長の次男にするか三男かを巡って争った。両軍は冬の間、二か月間にらみ合いを続け雪解けを待った。

 

 ボランティアの説明によると、先に動いたのは勝家であった。その時、大垣にいた秀吉が北国街道50キロを5時間という猛スピードで木ノ本まで駆け戻り、勝家軍を破ったという。相撲でも、がっぷり四つに組んだ場合、先に動いた方が負けることが多いと思いながら話を聞いた。相手の力を利用できるからだ。

 合戦の説明が終わると、料理が出された。前菜は地元の主婦が作った蕨などの山菜、小エビと豆、大根の漬物などの伝統料理であった。湖西に生まれた自分にとっては、昔懐かしい「菜」(おかずのこと)が沢山並べられ、母親の味を思い出しながら頂いた。

 メインの料理は熊、鹿、猪であった。

 この地方では猿を含めて害獣の被害が増えている。山に杉や檜を植林した結果ドングリが減り、動物が里に下りてきて、時には家の中に入り込むこともあるという。そこで、害獣の捕獲が許されている。

 熊は澄まし汁、鹿はしゃぶしゃぶ、猪は味噌炊きにしていただいた。熊と鹿は初めての経験であった。

 左が鹿の肉、右が猪の写真で牡丹のように盛り付けられている。

 県の職員の説明では生臭さを抜く秘訣は、全身に血が回らない内に瞬時に息の根を止めることであるという。味は、いずれもさっぱりしていて臭みはなかった。しかし、美味しいというほどでもなかった。

 

 雨模様のこの日は、あたりに靄がかかっていた。かつて何千、何万もの血が流されたところである。まるで墨絵のような世界であった。

 

三方五湖、湖畔の秘湯の宿
 北陸線余呉駅から近江塩津まで行き、敦賀行きに乗り換えた。小浜線は単線、二両編成でほとんどが無人駅であった。無人駅では先頭車両の運転士に切符を手渡して降りる。同じ放送を何度も繰り返すので、少し煩いように思った。

 宿は三方五湖の湖畔にあった。虹岳島(こがしま)温泉という秘湯である。

 宿は古い建物で、広い館内にまで暖房が行き届かず、またスリッパもなく足元が冷え、とても快適とまでは言えなかった。しかし、若狭湾で獲れた鯛や鰆の刺身、フグの天婦羅などの魚料理は新鮮で美味しかった。

 必ずしも交通の便が良いとは言えないのに、宿泊客十数名はいたと思う。会社の同僚と思われるグループ、若い夫婦連れ、年老いた親とその娘、そして自分のような一人旅などさまざまであった。送迎の運転手の話によると、福井の豪雪のニュースが流れ半数近くのキャンセルが出たという。

 

 翌朝、雨が雪に変わり無人駅で電車を待つのは寒かろうと心配したがホームには待合室があった。

宮津湾を臨むホテル
 小浜線の終点は西舞鶴駅であった。そこから東舞鶴駅まで行き、京丹後鉄道に乗り換えた。宮津駅で下車。

 

 ホテルの迎えシャトルバスは満員となり、予備の車が用意された。

 ホテルは宮津湾を臨む高台にあった。写真は8階の部屋から写したものである。

 夕食はバイキングで期待していたカニ料理もなく特徴はなく、大浴場に入り早々寝た。

 目を覚ますと一面銀世界であった。夜の間に降り積もったらしい。

 昨日は、駐車場の車が見みえたが、一晩で雪に覆われた。車の持ち主が苦労して雪を取り除いていた。

 電車の運休を心配して、早めにホテルを出ることにした。しかし、電車は遅れることなく動いていた。

 鬼退治で知られる大江山まで来ると青空がのぞいた。予定より一時間早く帰宅した。

 

 帰宅後、同じルートを一日で回れるか調べた。

 大阪駅7時45分発敦賀行き新快速に乗ると9時50分に着く。

 琵琶湖は東回りより、湖西線経由の方が景色を楽しめる。

 小浜線敦賀10時44分発に乗り、東舞鶴に12時50分に着く。同駅13時20分発福知山駅14時10分着、福知山線に乗り換え15時52分発、宝塚には17時50分に着く。

 普通列車は検札も来ないからといって、330円の切符で乗ることはできない。JRに切符には経由路線、この場合は福知山線と記載されているので、区間外の乗車は無賃乗車となる。

 正規の料金でローカル列車の旅を楽しむ方が良いと思う。

患者会で得たこと

患者会で得たこと

―私たち夫婦の体験から―

高田 忍

妻の場合

1.妻に余命宣告

 妻に病魔が襲ったのは2010年8月のことである。今でも忘れもしない8月6日、広島原爆投下の日の朝いつもより早く起きた妻が大阪の大学病院へ行くと言い残して出て行った。夜中に血を吐いたという。大阪の大学病院へ行選んだのは、10年近く感染性心内膜炎という心臓の病気で通っていたからである。

 

 三日続けて行われた検査の結果、骨髄異形成症候群と診断された。血液癌の一種で骨髄の中にある血液を造る細胞が破壊され、赤血球、白血球、血小板が造れなくなるとい厄介な病気である。大学病院の病室が満室で自宅近くの市民病院に緊急入院することになった。

 

 入院の翌日、医師は私たち二人を前にして「一年後の生存率20%」と余命宣告した。治療法はCAG(キャグ)という抗癌剤治療しかないとの説明である。事態を直ぐには受け入れることが出来ずパニックに陥った。妻はこの日の日記に「どん底」と気持ちを現わした。

 

2.患者会との出会い

 これにさかのぼること8か月、その年の1月に私は前立腺癌と診断され、京都の大学病院へ通っていた。数カ月のホルモン注に続いてIMRTという放射線照射を受けることになっていたその矢先のことである。

 

 京都の大学病院には癌支援センターがあり、そのコーナーに色々な癌患者団体のチラシが置かれていた。血液癌の患者会の集いがあることを知った。和歌山で行われた会合には家族として参加した。何人かの医師が病気や治療法についての講演をし、個別相談会では病気の説明や治療法を聞いた。製薬会社がスポンサーについていて、お土産のトートバッグをもらった記憶がある。その後、大阪本町のビルの一室で行われた患者と家族の懇談会にも参加し、お互いの悩みを語り合ったことがある。

 

3.朝ご飯一緒に食べましょう

 京都の大学病院から戻ると、妻のもとへ洗濯物を届ける日がしばらく続いた。老老介護ならぬ病病介護と自分自身に言い聞かせていた。放射線治療を受けて、さらに妻のもとへ駆けつけるのは正直疲れた。幸い、抗がん剤の効果が出て入院から3カ月後には退院することが出来た。

 

 その翌朝,妻は「これからは一緒に朝ご飯を食べましょう」と言って起きてきた。その日までは長年の生活習慣から、朝食は別々に食べていた。この日から二人で過ごす時間を増やすようにした。

 

 ところが、年が変わると再び病状が悪化し、入院することになった。治療法は同じ抗癌剤治療であるという。

 

4.ある女性のアドバイス

 同じ治療を続けて治るのか確信が持てなかった。そこで、名古屋の国立病院へセカンドオピニオンを聞きに行くことにした。名古屋を選んだのは骨髄移植で実績があり評判が良いと知ったからである。しかし結果は同じで医師の説明は変わらなかった。

 

 この時、名古屋に住む女性が同行してくれた。母親が同じ病気で亡くなったという。医師との面接が終わった後、名古屋城近くの喫茶店で女性から患者である母との接し方についてアドバイスを求めた。

 

 女性は「この病気は治らない。このことを前提に残った人生を楽しく送らせてやることが大切だ。母を温泉につれて行き、好きな刺身は火を通してたべさせるようにした」と反してくれた。この言葉は、それからの妻との接し方を考えるうえで大変参考になった。

 

5.カモミールおいしい

 その後、妻は入退院を繰り返した。治療は輸血しか方法がなくなった。医師から感染症の危険があるので人ごみを避けるように言われていた。一週間に一度の通院は電車を使わず、車で国道二号線を走り神戸の病院へ通った。

 

 輸血もなく早く終わった日にはスーパーに立ちより食材の買い物につき合った。買い物は主婦の楽しみの一つである。妻は鰤の照焼きが得意料理であった。遅くなる時は、近くのホテルに泊まり最上階のレストランで神戸の夜景を見ながらフランス料理を食べたりもした。身だしなみは女性にとって大切である。時には美容院へ送り迎えしたこともある。

 

 そうしたことも手助けになったのかもしれない。心に安らかさが戻った。妻が残したメモがある。メモには「カモミールおいしい」と書かれていた。喉に通るものと言えば、ハーブティーしかなかったのである。一年どころか、17か月、発病から544日も生きてくれた。

 

 それから、一年半後に闘病記「カモミールおいしい」を出した。

 ご希望の方には無料で差し上げます。連絡先090-6905-0872

カモミールおいしい

カモミールおいしい

 

私の場合

6.歪んだパソコンの枠

 妻が亡くなって3年経った2014年8月も終わりの頃である。いつものように早朝パソコンに電源を入れた。パソコンの枠が歪んで見える。疲れのせいかとも思った。たまたまその二日あとに人間ドックで定期検診を受けることになっていた。これが幸いした。

 

 眼科の診察室前に掲げられた医師の名前の札も歪んで見えた。医師にそのことを訴えると、早速翌週の水曜日に検査をすることになった。検査の結果、右眼が加齢黄斑変性であると告げられ、その日のうちにアイリーアの注射がなされた。

 

 白内障、緑内障なら聞いたこともあるが、こんな病気の名前聞いたことがない。一体、どのような病気なのか良く分らなかった。その後一か月おきに合計3回受けた結果、しだいに安定状態を保つことが出来た。早期発見早期治療のお蔭である。

 

7.集いに参加

 二回目の注射を受けに行った時、病院の待合室の掲示板を目が止まった。患者会の集いがあるポスターが貼られていた。早速、メールで世話役をしている東京の神谷さんに参加したい旨伝えた。中之島の大阪市中央公会堂で開かれた集いには多くの人が参加していた。東京の患者が体験を語り、星野さんの眼鏡の話もあった。早速、眼鏡の調整もしてもらった。暫く控えていた車の運転も再開した。

 

 その後、1~2回関西での集いに参加したところ、翌年の2015年5月、神谷さんと星野さんから関西でも患者会を作るので世話人になって一緒に活動しないかと打診を受けた。

 

 一つ返事でお受けすることにした。理由は二つあった。一つは妻の病気を通じて患者会の役割を知っていたからである。患者は、それぞれ医師から聞くことのできない貴重な経験を持っている。患者会を作って経験交流の場を設けることは必要なことだ。もう一つの理由は、定年後大学関係の仕事が少し残っていたが、75歳でこの仕事が終わる。しかし、少しでも世の中とつながりを持っておくことは自分自身のためにもなる。

 

 そういう思いから引き受けることにした。その年の10月に関西黄斑変性友の会が会員数20数名で発足した。

 

 第1回会合は12月に住友病院の講堂で、同病院の五味文先生から講演を聞くことから活動を始めた。

 

8.体験談集など情報発信活動に注力

 右眼は早期治療の効果もあり安定した。左眼は問題がなく、右眼をカバーしてくれるので、日常生活に不自由を感じることはない。積極的に動くことを心に決めた。

 

 患者会は医師から聞くことのできない体験を交流し合うことにあるとの考えから、それぞれの会員から体験を募り冊子を発行した。高齢者の医療制度など一般情報などをまとめた「サードオピニオン」というタイトルで出した。かなり費用が掛かり、年会費だけでは不足したので、会員の皆さんに寄付をお願いした所、多くの方から協力を頂き、大変うれしい思いをした。

 

 iPS細胞の臨床研究に関する情報も精力的に集め、会員に伝えるようにした。NHKの健康番組の情報もいち早くキャッチし、放送予定日を会員に伝えるようにもした。

 

 新聞やテレビなどの報道機関からの取材にも積極的に応じた。ホームページを立ち上げ、広く会員以外への情報発信に努めた。さらに外出を控えがちな会員のためにハイキングを企画し実施した。これには会員の家族のサポートがあった。

 

 これらの活動の成果が実り、会員は関西だけでなく、全国に広がった。そこで、5月にはNPO法人に発展させより充実した活動を目指している。

 

9.飛鳥ハイキングで学んだこと

 こうした中、昨年暮れに左目に異変が起こった。目の真ん中に薄い膜が貼っているようで字が読みにくくなった。先生に診てもらったが、加齢黄斑変性ではなく治療法はないとの診断である。右眼をカバーしていた左眼が役に立たなくなった。紙の新聞は文字が小さくて読めないの。タブレットを購入し大きな字なら読めるようになった。

 

 1月30日、好天の中、奈良県飛鳥地方のハイキングを実施した。参加者は男女各4名ずつの8名であった。古代の都を歩いた。高松塚古墳、石舞台古墳、そして日本で一番古い仏教のお寺飛鳥寺を参拝し、奈良の大仏より古い大仏との説明をお坊さんから聞くこともできた。楽しい一日であった。

 

 なによりも良かったのは、みんなで一緒に食べた昼食の時と帰りの電車に乗る前の喫茶店での懇談であった。大津から参加したFさん(男性)が話した音の出る時計やタブレットの幅広い使い方は大変参考になった。大阪から参加したHさん(女性は)、視力が0.01で杖を突きながら、支援者の助けを借りながら1万8千歩、約8キロを歩いた姿は感動的であった。それ以上にその感想の言葉が励ましになった。

 

 「眼と足が不自由な者にとっては、一番楽なのは家にいる事です。でも外出すれば、足も使えば手も使う。そして不自由な眼も使う。すると脳が刺激され頭も使うことになる。これが元気を保つ秘訣です。」

 

 大変勉強になった有意義な一日でした。

 

 今迄は日常生活に不自由を感じなかったため、主に情報を送る立場のみを患者会の中においてきたが、これからは他の人の経験を積極的に取り入れる立場も考えに入れて、悔いのない人生が送れるようにしたいと考えている。

 

薬の水-巡り合った名医

薬の水-巡り合った名医

 昨年暮れに妻の七回忌を迎えた。2010年は私たち夫婦にとって悪い年であった。1月に私は前立腺癌と診断され、8月には妻が夜中に血を吐いた。大阪の大学病院へ駆け込んだが、病室が満室という理由で、自宅に近い隣町の市民病院に緊急入院することになった。骨髄異形成症候群という病気で、血液癌の一種である。骨髄の中にある造血幹細胞が破壊され、赤血球、白血球、血小板を造れなくなる病気である。医師から根本的に治療法はなく、一年後の生存率は20%と告げられた時は二人ともパニック状態になった。

 入退院を繰り返し、抗がん剤治療を二回受け終わった頃、厚生労働省が皮下注射による薬を近く認可する予定であることを知った。抗がん剤に比べ体への負担が軽く、通院で治療を受けられるという。初めに駆け込んだ大学病院では、倫理委員会の承認が必要との理由で治療を断られた。市民病院の医師は、認可されることすら知らなかった。

 妻には一刻も早く言い治療を受けさせてやりたい。こんな思いから、インターネットで治療経験の多い病院を調べ、神戸の病院でセカンドオピニオンを取ることにした。対面した医師は白髪交じりで経験豊な医師に見えた。医師によると、アメリカではすでに実績がある。認可前であってもアメリカから輸入して治療することが出来るという。病院の組織のことより、患者の身になって考えてくれた。干天に慈雨とはこのことかと思った。

 東日本大震災の後に神戸の病院に転院し、この医師のもとで治療を受けることにした。結果的に新しく認可された治療薬の効果はなく、輸血で延命を図る他に方法はなかった。

 妻は診察を受ける時、必ず何か質問するようにしていた。ある時、薬をのむ時の水はペットボトルが良いかと尋ねたことがある。白血球が少なくなり免疫力が低下していた。不衛生な水を飲んで他の病気に感染することを恐れていたのである。

 多くの患者を抱え多忙な医師は、いやな顔もせず「水道の水が最も安全です、何故なら塩素殺菌されているからです」と親切に教えてくれた。このとき、医師の表情や言葉に温かみを感じた。名医とはこういう医師のことを言うのではないかと思った。

 妻はこの医師のもとで、一年をはるかに超えさらに五か月か月も長く生き延びることが出来た。神戸の病院とは、加齢黄斑変性について、iPS細胞による臨床研究をしている神戸中央市民病院のことである。命日を迎えるたびに思い出している。       (高田 忍)

こんなに違う 冬の日本列島

こんなに違う 冬の日本列島

 東京では48年ぶりの寒波に見舞われた。1月27日、仕事で旅行する機会の少ない長女と伊豆方面へ旅をした。西宮の家を出るころは小雪が舞っていた。彦根、米原から関が原辺りは一面雪で覆われ白銀というより灰色の世界であった。

  ところが名古屋に近づくと雪もやみ青空が広がってきた。浜松を過ぎたあたりから、遥か遠くに富士山が見え始めた。 富士川を渡るとき青空をバックにした富士山を写した。

 

 熱海で下車。あたみ桜祭りが行なわれ、賑わっていた。一月に桜が咲いているのを見たのは初めてである。

 翌日、早咲きで知られる河津桜を見に行った。少し時期が早かったようだ。訪れる人は少なく、伊豆とはいえ肌寒く花見はやはり春に限ると思った。

クリスマスカードと年賀状

クリスマスカードと年賀状

今年もクリスマスカードが届いた。イギリスから二通、アメリカら一通である。いずれも、20数年前アメリカに工場を作る仕事で親しくなった間柄である。

日本でいうクリスマスカードは、アメリカではSeason‘s Greetingsと呼ばれている。文面にもMerry Christmasという挨拶は用いない。アメリカは多民族,多宗教の国である。キリスト教に由来するChristmasという言葉は避け、国民の融和を図っている。

下は、先祖がアイルランドから移民できたTheiserさんからの季節の挨拶状である。Christmsの言葉は見られない。

イギリスからの二通にはいずれもChristmasが入っていた。

Shakespear生誕地のStratford upon AvonにすむSavageさんからのカードにはWith Best Wishes for Christmas and the New Yearとかかれていた。アメリカとイギリスではやはり国民性に違いがあるようだ。

ただ共通していることがある。それは封筒の宛名を手書きで書いていることだ。手書きで書くことによって相手のことを思い出だす。今でも自分のことを思い出してくれる人が世界にいるかと思うと嬉しくなる。

年が明けると年賀状が送られてくる。宛名は殆ど印刷されている。自分は今年も10数痛の年賀状を出したが、毎年宛名だけは手書きにしている。(高田 忍)

Xmas card

Xmas card

プリンター苦闘記

プリンター苦闘記

プリンターにまつわるヘビーユーザーの苦労話の殆どはインクとそのランニングコストにある。古いNECのパソコン発売当時のインパクトドットプリンターから幾多の変遷を経て今日ジェットカラープリンターに至るまでユーザーとして様々な修羅場を経てきた。

 

パソコンやプリンターとのかかわり合いの初めは高校時代家業にまつわる貿易のコレスポンデンスのため英文タイプとの付き合いから始まった。当時機械式のアンダーウッドのタイプライターで覚えたタイプは今でも両手でブラインドタッチである。打ち込みは今でもそこいらの若いものに負けない。

 

コストとプリンター

さて話は現代のカラープリンターのコスト、特にキャノンの戦略で「機械はお安く・消耗品のインクはお高く」の政策には最初から僕の場合おつきあいせず安い(実は化粧品と同じ中身はタダ同然で、安い非純正インク自体かなり割高)詰め替えインクを使用し今日に至っている。

 

2年ほど使ったキャノンのMG6730は目詰りしたので色々手を尽くしクリーニングカートリッジや超音波洗浄機で洗浄したりして直らず、仕方なく新品のプリンターヘッドをAmazonで中国製を購入したりしたが結局直らないので諦めて新しいキャノンのプリンターMG3630をお名前ドットコムで価格比較し最安値、税込み運賃無料¥5,270で購入した。

 

このプリンターを購入した最大の決定要因は、「インクタンクにプリンターヘッド」がついていることだ。

 

使用しているとインクが純正や非純正に拘らず、キャノンのプリンターは必ずプリンターヘッドに目詰まりを生じる。

 

その証拠として、インク業者が目詰まり解消のグッズ類を堂々と販売している。キャッチも奮っており「お客様の声から生まれた」「プリンタの目詰まり解消」等と・・・おまけにプリンターが何をどうチェックするかわからないがICチップ搭載とある。どうやらキャノンはお客様の声を大事にしないようである。

 

高田代表と同じキャノンのMG6730を約1年前、その前のプリンターのプリンターヘッドが赤インクで目詰まりを起こし、又その前のプリンターは黄色で目詰まりを起こした。その都度プリンターヘッドの修理を試みて失敗、都度プリンターヘッドで悩まされてきた。この度はインクタンクにプリンターヘッドのついたものを購入した。これまで大体7台くらいプリンターを駄目にしてきた。その全てがプリンターヘッドの目詰まりが原因であった。

 

キャノンのプリンターが壊れるサイクル、「キャノンタイマー」は、ここ数年非常に短くなってきている感じがする。直近の物は2年でだめになった。

 

キャノン自身この苦情「インクの目詰まり」の多さに悩まされてMG3630は常に新品交換されるプリンターヘッド付きのインクタンクを考案したのであろうか?キャノンは今や考え出した企業の欲望を満たす、企業利益を生み出す政策に自縄自縛になりユーザーにインクタンク交換ごとに新品プリンターヘッドを提供するという解決策、すなわちお客様の声を活かしたのだろうか・・・

 

要するに純正インクを使っても目詰りするので、インク交換ごとに新品のプリンターヘッド提供に解を得た?

 

過去このプリンターヘッドと言う部品を購入したが最低6000円ほどする高価なもので、一方キャノンの修理センター等に修理料金を聞くが、きょうび新品プリンターのほうが彼らの修理代より遥かに安く修理センターと言う言葉自体死語化している。

 

実にもったいない話であるがプリンター本体、長持ちしない消耗品と同じだとも言える。しかし分解してみて分かるのであるがかなりの部品点数があり各部品は高精度に専用の素材を使用して作られたにも関わらず販売者の利益込み5270円を弾き出すためには、相当合理化された最新自動生産ラインを持ち、ペイする販売数がなければ成り立たない。実にご苦労様なことである。長けたベンチャーでも恐ろしくて近寄りもしないアイテムである。

自分の業界にも当てはまるが毎年新型眼鏡を発表しないといけないというトラウマ、プリンターメーカーも毎年新型発表をしている。だが使用する人間に新型などなく昔のままである。ハッキリ言って発展途上で自信がないことの裏返しかもしれない。プリンターを使用していて、5年前も今も目的と方法は殆ど変わっていない。毎年新型が出て、古い機種はたたき売り。

 

消耗品で儲からない時代

では一体誰が一番儲けているのか?今まで恐らくこのインクにまつわる非純正インク供給業者が一番儲けて来たのではないだろうかと思う。しかしこの業界もツワモノが現れてきた。他でない百円ショップ各社がここに目をつけ販売を伸ばしている。老舗非純正インク業者を百円ショップが追撃し始めて、老舗非純正インク業者の儲かる色水商売も儲からなくなってきている。

 

疑いを持つユーザー

最近疑い始めたのは、このインク自体多少の違いは有ってもほとんど同じ色水ではなかろうか?である。以前はプリンターヘッドが高価なため少しは壊れにくいだろう純正に近い非純正インクを使用してきた。上記に伸べたとおりもはや使用方法やインクの質など恐れなくなった。プリンターヘッドが詰まって困らないプリンターヘッド付きのインクタンク+安いプリンター登場である。

 

小生には使い残しのインク=色水がまだ沢山残っており、新規購入したインクを使い切った段階で古いインクを試してみようと虎視眈々と狙っている。無論百円ショップの色水も然りである。

 

プリンターの廃棄処分

さて問題はこれだけに終わらず一番厄介なのが壊れたプリンターの廃棄処分である。確か大阪市の廃品回収手数料が1000円程で、捨てるに手間暇コストのかかる代物である。エコにこだわり始めると何でも安く無料で処分したいのが人情。

 

手元に電動ドライバーが有るので暇な時合間を見て簡単に分解しプラスチックと金属部品に分別しゴミとして捨てて来た。大きなプラスチック容器は足で踏み潰したりして故障のストレス解消には役立つ。容積はかなり小さくなる。無論行政の指導する分別廃棄を履行し適宜無料ゴミとして処分している。

 

インク詰め替え作業

今回買った5270円のプリンター、予備に買ったエコ・カートリッジ・リサイクルインクは純正より安く、現在使用しているインクを消耗した時使用し、詰め替えインクを別途購入してあり、インクに付属するハンドドリルでカートリッジに穴を開けインクを注入するものである。

 

以前インク詰め替え時、キャノンのインクタンクにはプラスチック球がインク充填後詰められておりこれを器用に抜いて再利用していたが、考えてみるとインクタンク内にはフィルターが入っており、ドリル粕など濾過され加えてプリンターヘッドにもフィルターがついているためこれは心配しすぎと言うものだ。プリンターヘッド付きのインクタンクであれば、壊れればリサイクル・インクカートリッジをネットで購入すれば済み、今や無敵恐れるに能わずである。

 

詰替作業の説明書は次の通り、実に懇切丁寧に書かれているものである。インク交換に際しプラスチックの手袋が付属しているが、小生は滑るのがいやで素手でやるため、作業の後派手な各色インキが手について大仕事した、節約したという快い実感が湧く。手に付いたインキは、水性であるが石鹸ぐらいではなかなか落ちず、お湯と石鹸でやっと落ちる。ご褒美は、近くの銭湯に行くことである。

MG3630Ink 注入方法

MG3630Ink 注入方法1

MG3630Ink 注入方法2

MG3630Ink 注入方法2

 

こんな商売ってあるか ― 競争相手の少ないプリンター

こんな商売ってあるか  

競争相手の少ないプリンター

MG6030

MG6030

3年使ったCanonのMG6030というプリンター複合機が、インク吸収体満杯という理由で使えなくなった。インク代が高いので純正品でなく市販品を使った為であるかもしれない。

キャノン pixus TS6030

キャノン pixus TS6030

修理代が高いので、最近発売されたTS6030 という機種をCanonのオンラインショップで10月20日に購入した。価格は24710円であった。その時、セットで購入したインク代は5583円である。本体価格と消耗品の価格を比べると消耗品の価格が高すぎるように思った。単純な比較はできないが、例えば一台200万円の自動車に対して、少なくとも4~5年は持つタイヤの価格が五分の一の40万円もすることはない。4本で10万円程度である。

 

12月に入って新しく購入したTS6030で、友の会ニュースを印刷することにした。それまでにも会員に情報を届けてきた。印刷のページ数はおよそ1000ページになる。この間、購入したインク代が約40000円、すでに本体価格を飛び越えている。

 

ところが、購入してからちょうど二か月、12月20日に故障した。

 

両面印刷をしていた所、紙詰まりが発生した。背面から詰まった紙を取り除いても再び詰まる。この背面のカバーをはめにくいという難点があった。やむを得ず片面印刷にしたところ、紙送りのローラーの大きな音が出始めた。それも我慢しながら続けたが、最終的には紙をセットしているのに「紙がセットされていない」という意味不明のメッセージが出て動かなくなってしまった。

 

やむをえず、大阪フェスティバルタワーにあるサービスセンターに持ち込んだ。修理は年明けになるという。この時点で友の会ニュースの印刷が終わっていたのは40部。残りの30部は予備として持っていた古い機種のプリンターを使って印刷し、年内に発送することが出来た。

 

Canonという世界的なブランドを持つ会社の製品にしては、あまりにもお粗末だ。自動車であれば購入して二か月で故障すればリコールものである。

 

プリンターの場合本体価格を安く設定して顧客をつかむ。安いだけ、品質や耐久性に手を抜いているのではないか。そして、消耗品で稼ぐ商売をしているようだ。自動車のように世界的な競争相手がいないだけに、このような商売が成り立つのかもしれない。

12/24/2017