津軽海峡春景色

津軽海峡春景色

石川さゆりの演歌「津軽海峡冬景色」に出て来る竜飛岬を是非見たいと思い、5月13日から4日間、青森、秋田の三大半島を巡る旅行に参加した。青森の太平洋側が下北半島、日本海側が津軽半島、南に下って秋田には男鹿半島がある。津軽海峡は青森と北海道の間の海峡で、潮は日本海側から太平洋側に向かって流れているが、月に一回は逆に流れることがあるそうだ。

津軽海峡冬景色の歌碑

津軽海峡冬景色の歌碑

1.岬
下北半島、本州最北端にある岬が大間崎である。本マグロのセリで全国的に知られている。灯台の向こうにうっすらと見えるのは北海道函館である。

 

大間崎灯台

大間崎灯台

本州最北端の碑

本州最北端の碑

 

津軽半島の最北端にあるのが竜飛岬である。北海道新幹線は竜飛岬の下を通っている。断崖絶壁の岬である。

竜飛岬

竜飛岬

入道崎は男鹿半島の西端にあり北緯40度の線が走っている。北緯40度には北京やスペインのマドリードがある。

大間崎       

大間崎

北緯40度

北緯40度

              

2.あの世
恐山
恐山は下北半島の中央部にある。赤い橋は三途の川にかかった橋で、左がこの世である。恐山の歴史は古く1200年前、比叡山延暦寺の僧が開山した寺である。現在は、福井永平寺の傘下にある。

三途の川

三途の川

恐山山門

恐山山門

火山ガスが噴出する岩肌の一帯が地獄、湖を取り巻く白砂の浜が極楽とされ、「人は死ねば山へ行く」と信じられてきた。テレビで死者との会話の仲立ちをするイタコという老女を見たことがあるが、常駐しているわけではない。

地獄

地獄

極楽浄土

極楽浄土

 

                

仏ケ浦
秘境仏ケ浦は下北半島の西河岸にある。岩々には仏にちなんだ名がつけられ、極楽浄土を思わせる世界が広がっている。パンフレットによると、かつて海底火山活動が盛んな時期があり、噴出物が緑色凝灰岩の層を形成したという。

仏ヶ浦

仏ヶ浦

3.遅い春
大阪空港から青森空港へは日本海沿いに北上した。山形県と秋田県境にある鳥海山は雪を被っていた。

鳥海山

鳥海山

神奈川県の横浜と同じ地名の町には菜の花祭りが行われていた。
桜はソメイヨシノを見かけることは少なく、家の庭に咲いた八重桜が丁度満開の見ごろを迎えていた。

菜の花畑

菜の花畑

八重桜

八重桜

津軽半島を南下する山道から見た新緑の風景はすがすがしかった。

秋田県にはかつて、琵琶湖に次いで大きな湖、八郎潟があった。昭和30年代から干拓が行われ水田に代わった。田植えが始まったばかりで、青空が水面に映って日本の春を思わせた。12キロに及ぶ直線道路の両側には菜の花が咲いていた。

八郎潟の水田

八郎潟の水田

12キロの直線道路

12キロの直線道路

寒風山から見た八郎潟水田

寒風山から見た八郎潟水田

4.空の見張り
青森や秋田は日本海を挟んで外国と接している。ミサイルをキャッチするレーダーが設置されていた。
下は下北半島釜臥山のレーダーである。恐山の山門越しに望遠レンズで撮影した。

レーダーサイト

レーダーサイト

写真は男鹿半島に置かれたレーダーのある山である。

5.鉄道、道路、船
この旅行での移動手段は、鉄道、バスと船であった。
下北半島には戦前、最北端の大間まで鉄道を敷く計画があった。一部では駅や鉄橋が建設されたが戦後資金難で見送られた。下風呂温泉の幻の駅である。   

幻の駅

幻の駅

北海道新幹線の本州側最北の駅は奥津軽いまべつ駅という。ここには在来線の駅と、道の駅がある。いずれも駅名は異なるそうだ。

五能線の鰺ヶ沢から深浦まで約一時間日本海沿いに走った。海岸沿いには岩があり、車窓から見た風景は飽きることがなかった。難読地名の駅があった。馬三つで「とどろき」と読む。普通は車が三つの「轟」だが、理由はよくわからない。

五能線沿いの日本海

五能線沿いの日本海

こんな字がある?

こんな字がある?

道路では車が通れない階段の国道339号が竜飛岬にあった。役人が、現地を見ないで机の上で国道を決めたらしい。秋田県内には「朴瀬」と書いて「ほのきせ」という難読地名があった。

車の通れない階段国道

車の通れない階段国道

これも難読地名?

これも難読地名?

下北半島から津軽半島へはフェリーで渡った。約一時間の途中、イルカが近寄ってくるのが見えた。船室の入り口には「二等旅客室」と書かれていた。かつて国鉄時代には一等車、二等車の区別があったが、いつの頃からか一等車はグリーン車と呼ばれるようになった。何となく違和感を覚えた。

6.祭りと伝統
青森の祭りといえば「ねぶた」である。写真は道の駅に展示されていた大湊の海上自衛隊の作品である。

大湊の海上自衛隊の作品

大湊の海上自衛隊の作品

毎年、年末になると、家にやってくるなまはげを見た子供が泣き叫ぶ姿が放映される。なまはげは男鹿半島に伝わる伝統行事である。角があるが鬼ではなく、神とされている。伝承館があり30分おきにその様子が演じられていた。主人との間に問答が交わされる。パンフレットには問答の例として「親の面倒見ない悪い嫁いねが(いないか)」と書かれているが、果たして今の時代に通用するかと思う。ますます若い人が地方から離れていくのではないかと危惧しつつ旅が終わった。

なまはげ

なまはげ

(髙田 忍 2019,05,18)

ヨーロッパの交通システム

ヨーロッパの交通システム

ヨーロッパの玄関口

今年放送されてるNHK大河ドラマ「いだてん」。オリンピックのマラソン選手は東京の新橋から福井県の敦賀を経て日本海を渡り、シベリア鉄道でストックホルムへ向かった。

敦賀はかつてヨーロッパ大陸への玄関口であった。10年ほど前にそれを確かめるために敦賀へ来た。リトアニア駐在の外交官杉浦千畝氏が発行した命のビザで多くのユダヤ人がこの港に上陸した。敦賀から神戸や横浜に行き太平洋を渡った。またシベリアに抑留されていたポーランドの子供たちも逃れてきた。

鉄道資料館には新橋発伯林行きの切符が展示されていた。敦賀はヨーロッパへの玄関口であったことがわかる。

 

ヨーロッパの交通システム

敦賀とつながっていたヨーロッパの交通システムは国によってさまざまである。三つの類型がある。仮にイギリス方式、ドイツ方式、フランス方式と名づける。

イギリス式

日本の交通システムは、明治時代にイギリスから鉄道技術を取り入れたためイギリス方式が採用されている。すなわち複線の鉄道線路では、列車は左側を通る。自動車も同じで左側である。運転席は右にあり右ハンドルだ。

地中海に浮かぶ島、かつてはイギリスの植民地であったマルタは当然のことながら、イギリス方式である。赤いポストはその名残である。同じ右ハンドルということで、日本車が多かった。驚いたことに日本では生産されなくなったいすゞ自動車の乗用車が駐車していた。

この島は1989年 12月2~3日に冷戦を終わらせるため米ソ首脳会談が行われた歴史的な島である。

  

赤いポスト

赤いポスト

左側通行

左側通行

いすゞの乗用車

いすゞの乗用車

                 

ドイツ式

イギリスとは正反対のドイツ方式がある。自動車も鉄道も右側通行である。

ドイツのアウトバーン

ドイツのアウトバーン

ノルウェーの高速道路 

ノルウェーの高速道路

ノルウェーの鉄道

ノルウェーの鉄道

   

      

アメリカもドイツと同じである。

ヨセミテ方面へ向かう車列

ヨセミテ方面へ向かう車列

アメリカの貨物列車、とにかく長い

アメリカの貨物列車、とにかく長い

 

ところが、この中間にフランス方式がある。自動車はドイツと同じ右側を走るが、鉄道はイギリス方式である。ナポレオン時代に、イギリスに対抗して馬車は右側通行にした。その結果、ヨーロッパ大陸では自動車も右側を走るようになった。鉄道については、蒸気機関車を発明したイギリスから技術を学んだため左側になっている。もっとも地下鉄は路面電車の延長という考えから右側になっていて複雑だ。

このフランス方式を採用している国がドイツの周辺にある。スイスやチェコである。ドイツからICE(Inter City Express)という特急に乗ってスイスに向かうと、国境の小さな駅でしばらくの間停車する。走る鉄道線路を右から左に切り替える必要があるからだ。

左の写真はフランスの鉄道でテレビから撮影したものである。日本と同じ左側を走っている。右の写真はスイスに旅行した時、列車の中から撮影したものである。窓の外に線路が見えるからフランスと同じ左側であることがわかる。向かってくる自動車は右側を走っている。

フランスの鉄道(テレビから)

フランスの鉄道(テレビから)

スイス(鉄道:左、 車:右)

スイス(鉄道:左、 車:右)

  

定年後、関西や名古屋の大学で学生を前に会社員時代の経験を話す機会があった。90分授業で年に一回か多くても二回の授業であった。この時話した内容の一部である。

世の中には、選択の余地がないルールと、選択の余地はあるがどちらかに決めないと世の中が機能しないことがある。「人を傷つけてはいけない。人の物を盗んではいけない」などは前者の例である。後者の例として、「生ごみは月曜と木曜」というゴミ出しのルールや、交通システムがある。そのため、ヨーロッパの交通システムは国によって異なるのである。  

ヨーロッパの鉄道の思い出

幼児専用コンパートメント

20年ほど前、オーストリアのブリゲンツで開かれた音楽祭に行った。舞台は湖の上につくられ、オペラ仮面舞踏会が上演された。終わりには花火が打ち上げられ、劇場の舞台では見られない迫力があった。

帰りはボーデン湖畔のリンダウからローカル線に乗り、ウルムからフランクフルトまでのICE(特急のこと)のコンパートメントの指定席をとっておいた。入口の扉に「Klein Kind Abteil」と書かれた貼り紙がしてある。ぼくらの席には幼児連れの二組が占有している。何かの間違いではないか。押し問答するも席を譲ろうとはしない。仕方なく、空いた席を探したが車内は込み合っていて座れない。車掌を探したが、近くにはいない。よく考えると、「幼児用コンパートメント」という意味だ。

シュツットガルトに停車した時ホームでやっと車掌をつかまえた。ぼくらの席は他の一般席の車両に移したといって案内してくれた。ところが、そこにも既に別の乗客が座っていた。ドイツでは指定席と自由席の区別はない。空いている席には誰自由に座ることができる。それが自由席になる。座席を確保したければ指定席券を買えばよい。車掌はその客を立たせた。一息入れてしばらくすると暑さと疲れのせいか、近くの席で幼児が大きな声で泣き出した。それにつられて別のところからも泣き声が上がった。

ようやく扉に貼られていた言葉の理由が分かった。幼児の鳴き声から周りの乗客に迷惑をかけないための工夫である。

それにしても車掌はウルムで乗車した時に指定席が変わったことを知らせる工夫をすべきではないか。幼児を他の客から隔離するとはよく考えている。しかし、はみ出された乗客のサービスにまでは、手と頭が十分に回らないようだ。(2000年9月)

 

イタリアの列車の中で

旅では色々な経験をする。楽しいこともあれば不愉快なこともある。初めてのウィーンでは、すれ違った見知らぬ人から楽友協会のチケットを二枚頂いた。毎年NHKが生中継するニューイヤーコンサートの劇場である。ハンガリー交響楽団の演奏だったと思う。

定年で帰国する直前の休暇を利用してイタリアのヴェローナという町で開かれる夏の音楽祭に行った。この町の円形闘技場では毎年オペラが上演される。あいにく開演間近に夕立が降、開演が10時に延びた。上演されたのは一幕のみであったが、アイーダは迫力があった。

翌日、列車でフィレンツエへ向かった。この時も、コンパートメントの指定席をとっていた。中に入ると6人掛けの席には、すでに夫婦と子供二人の家族の他に老婆の5人が座っていた。明らかに老婆が不法占拠している。切符を見せるように言っても、目をつぶり、横を向いて知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ。

目的地のフィレンツエまでは、わずか30分のことだから通路に立つことにした。すると子供連れの父親がドアを開け、ぼくを招き入れ小学生の子供を立たせ座らせてくれた。お礼を言うと、子供の教育のためだという。スイスから来た大学教授だった。人間の二つの側面を見ることができた。教えられる旅であった。

現存十二天守を訪ねて

現存十二天守を訪ねて

現存天守(げんそんてんしゅ)とは、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことである。このような天守が全国に12ある。2012年から7年の間に、そのすべてを訪ね天守閣に登ることができた。北から順にその姿を周辺の景色とともにアルバムにした。
きっかけは2011年11月に妻が亡くなり、時間の余裕ができたことである。その頃、自分は前立腺癌の治療を終え再発防止を願って西国33札所を参拝していた。それも岐阜県の谷汲山華厳寺を最後にすべて巡り終えていた。新たな目標として100名城を考えたが、名城の選定基準が不明確なこと、100カ所は不可能を思ったことなどから現存十二天守に絞った。

1. 弘前城(青森県)

東北の桜を見るツアーに参加したのは2016年4月のことであった。角館から始まり十和田湖、八幡平を経て弘前の旅であった。弘前城は石垣を修復するため、天守の曳家工事をしているところであった。お堀に散った桜がまるでじゅうたんを敷きつめたようであった。

 

2.松本城(長野県)

2013年9月、名古屋から中央線に乗り継いで上高地へ行った時に立ち寄った。一番よくとれている写真である。姫路城が白いのに対し、松本城の壁は黒く漆で塗られている。
松本には、明治9年に建てられた開智学校が保存されている。

 

3.丸岡城(福井県)

福井県坂井市にある。西宮から片道250キロ、名神高速道路、北陸自動車道で3時間かかった。柴田勝家が築いた城で現存天守の中では一番古い。昭和23年の福井大地震で倒壊したが、昭和30年に修復再建された。城の隣には「一筆啓上 日本一一番短い手紙の館」がある。

4.犬山城(愛知県)

訪れたのは2014年6月2日。その前日、歴史街道倶楽部山城の会で彦根にある石田三成の居城佐和山城跡を登った。米原から名古屋まで新幹線、名鉄犬山線に乗り換えて行った。駅から城下町の風情が残る街並みを歩いた。かなりの距離があった。
天守から見下ろす木曽川の風景が良かった。

 

5.彦根城(滋賀県)

滋賀県に生まれながら、彦根城へ初めて行ったのは最近のことである。2014年6月1日佐和山城跡に登った後、彦根城を見学、翌日犬山城へ向かった。その後、数回訪れている。翌年8月,琵琶湖ウォークに参加した際、お堀の周囲を歩いた。
彦根城は井伊家の城である。1604年初代直政の時普請開始、二代目直孝が完成(1607年)させた。天下普請といって全国の譜代大名に手伝わせた。
NHK大河ドラマは今年で57回、このうち井伊家が14回登場する。大老井伊直弼は8回。5代6度にわたり大老職を出し、譜代大名筆頭の家柄である。
井伊家は30万石で、近江国に28万石、佐野領(群馬県)に1万8千石、世田谷領に江戸賄料として2千石を持っていた。一石とは成人が一年間に消費する米の量である。約150キロ。
井伊家の官職は掃部頭(かもんのかみ)で、平安時代の律令制の官職名からきている。
赤穂事件の浅野内匠頭長矩も同じ律令の官職名がついている。

城の北側に国の名勝玄宮園という日本庭園がある。


遠くに竹生島がかすんで見える。

6.姫路城(兵庫県)

これまでに三回訪れた。修復前に一度、修復中の2013年2月7日、修復後の2018年11月である。前の二回は天守閣に上ったが、2018年は70歳代後半になり、その高さに圧倒され登ろうという気持ちが失せ見るだけとなった。その代わり、隣接の好古園という日本庭園に入った。紅葉が見事であった。

7.松江城(島根県)

2012年10月、玉造温泉に泊まった翌日に訪ねた。駅からバスに乗った。近くには小泉八雲の記念館がある。再び山陰線に乗り米子で下車、足立美術館を見学した。ここは行く価値がある。綺麗な日本庭園がある。


8.備中松山城(岡山県)

JTBの「岡山の城を巡る旅」に参加した。他に岡山城や秀吉の水攻めで知られる備中高松城跡を訪れた。現存天守12城の中で「山城」の形態をとるのは、備中松山城だけである。
シャトルバスが出ている。

9.丸亀城(香川県)

丸亀城は2012年6月12日に訪れた。車で山陽道を走り、倉敷から瀬戸大橋を渡って坂出で出た。その時の写真は残っていたがはっきり映っているのは大手門だけであった。そこで2018年12月2日に再度天守の写真を撮りにいった。今回は淡路島経由であった。紅葉がきれいであった。
丸亀城は石が記の名城として知られているが、今年の台風で崩れ修復工事が行われていた。
1658年京極高和が播州竜野から転封され明治まで続く。

 

 

10.松山城(愛媛県)

四国には前述の丸亀城を含めて四つの現存天守がある。JR四国バースデーチケットを利用して松山城、宇和島城、高知城を巡った。バースデーチケットとは誕生月に1万円で、三日間乗り放題できる便利なチケットである。2012年9月18~20日の二泊三日の旅であった。初日は道後温泉、二日目は高知のビジネスホテルに宿泊した。

予讃線松山駅で降り、坊ちゃん電車で道後温泉に向かう途中にある。

松山は俳人正岡子規の生まれた町である。

翌日、JRの電車で宇和島に向かった。

11.宇和島城(愛媛県)

駅から歩いて15分ほどの高台にある。天守からは宇和海が見える。
藤堂高虎が慶長元年(1596年)から6年かけて築いた城である。

12.高知城(高知県)

関ケ原の戦いの後、山之内一豊が入府した城である。観光案内の人が桂浜まで行って坂本龍馬の像を見ないかと近寄ってきたが、1966年8月に職場の仲間といったことがあるので断った。

帰りは高松まで戻り、岡山行きに乗った。

 

番外編

会津若松城(福島県)

雪化粧の会津若松城である。戊辰戦争の時籠城したと言われている。

熊本城(熊本県)

熊本地震の数カ月前に、長崎や阿蘇を訪れた際に立ち寄った。加藤清正が築城した。

(2019,1,3 髙田)

北の島 南の島

北の島 南の島

70歳までに仕事や観光で47都道府県の内、45の都府県に行った。残っていたのは北海道と沖縄である。北海道には5年前の6月初め、沖縄には今年12月に旅し、目標を達成することができた。北海道では礼文島と利尻島、沖縄では宮古島を訪ねた。この二つの島は約3000キロメートル離れている。

 

礼文島

礼文島の名を知ったのは小学校5年か6年の国語の教科書である。この島で金環日食があったことを知った。調べてみると昭和23年5月9日のことである。それ以来この島の名前を忘れたことがなく、どんなところかと興味を持ち続けてきた。大阪空港家から羽田で乗り換え、稚内まで飛ぶ。稚内から船に乗った。
早朝に稚内港を出港し昼前には島に着いた。昼食は、うに丼ぶりで新鮮で美味しかった。
バスで北の方に進むと、ここが金環日食を観測した場所との説明があった。また島には信号が一つしかないとのことであった。
写真は礼文島の中で絶景ポイントといわれる澄海岬(すかいみさき)である。曇っていたので海の青さが見られないのが残念であった。

 

花の島
名前は調べていないが、6月上旬のことで、高山植物系の花が咲き乱れていた。

 

 

利尻島
礼文島の南に利尻島がある。そこには利尻富士が聳えている。ニシン漁が盛んだったころ、北陸をはじめとして本土から人々が漁師として住みついた。かつては栄えたところである。
利尻昆布でも知られている。

 

 

宮古島

宮古島はサンゴ礁が隆起してできた島で、島全体が珊瑚の石灰岩に覆われていまる。石灰層は水が浸透する速度が早いため宮古島には川がない。ダムも地上にはなく地下ダムである。高い山もない。
台湾まで400キロメートル。樺太まで40キロの礼文島とは異なり緊張感はなかった。

サトウキビ畑

関西空港から直行便があり、約3時間かかった。空港を出ると、一面サトウキビ畑である。穂がまっすぐに伸びると収穫時期だそうだ。苗を植え付けたばかりのものや、収穫間近のものが混在していた、おそらく農作業を分散させるためではないかと思った。
島全体が石灰岩のため、水田でのコメ作りができない。日本酒も本土から運ぶことになるので高価な飲み物であった。

 

 

青い海とサンゴ礁
何といってもすばらしいのは青い海である。。川がないので泥や土が海に流れ込まない。地中海やエーゲ海より青さが澄んでいるように思った。島の周りの黒っぽいのがサンゴ礁。白波が立っているところもサンゴ礁で浅くなっている。防波堤の役目も果たしているそうだ。

 

 

サンゴ礁の魚
水中観光船に乗り45分間、海中の様子を見ることができた。海岸から100メートルもない所にサンゴ礁があり、たくさんの魚が泳いでいた。ウミガメも姿を現した。時々息をするために水面に出て来る。
巨大な鯵が船に近寄ってきた。水深は5メートルから10メートルで、水族館にいるようであった。

 

 

うえのドイツ文化村
この美しい海岸に、ドイツライン川沿いにそびえる城が立っている。名前は「文化村」だが、むしろ「友好村」の方がふさわしい。説明によると明治6年(1873年)7月12日、付近を航行していたドイツ商船が台風に遭遇し座礁難破した。村民が救助、手厚く看護して本国に帰国させた。船長から報告を聞いたドイツ皇帝ウィルヘルム2世が村民の博愛精神を称え「博愛記念碑」を建立した。その友好を記念して、1996年に城の形で記念館が作られた。日曜日というのに訪れる人は少なく、維持費が大変ではないかと心配した。
ドイツに二年間駐在したが、誰も親しく接してくれたのは、この出来事が影響しているのかもしれない。
残念ながら、和歌山沖のトルコ軍艦の救助ほどには知られていない。

 

花や蝶
大阪の温度が2~3度の時、ここでは20度もあった。さすが、セミは鳴いていなかったが、12月というのに草むらから虫の音が聞こえた。植物は大きく成長する。写真の赤い実はヤシの実である。大きな葉のクワズイモも自生していた。
熱帯性の花に蝶が蜜を吸っていた。蝶は飛び回るのでカメラにとらえるのが難しかった。

 

 

 

先祖崇拝
本土とは異なり立派な墓がある。仏教は伝来せず、先祖崇拝がこの地の宗教である。墓は家ごとではなく一族ごとにあるそうだ。骨壺は一つだけあり、次の人がなくなると、前の人は土に帰る。

 

 

(2018,12,20 髙田 忍)

滝にも色々

滝にも色々

濃溝の滝(千葉県)
房総半島のツアーに参加した。羽田空港から東京湾のアクアラインというトンネルを抜けると、そこは千葉県木更津である。千葉県には、全国に知られた名所旧跡があるわけではない。無理に作ったとしか思えない観光地のひとつが濃溝滝(のうみぞのたき)である。落差は殆どない。この洞穴から流れる小さな滝が時間帯によってハート形になるという。インスタ映えで広がり、観光客が訪れるようになったという。季節によっては周辺のホテルは予約でいっぱいになるという。この時は残念ながら、そのような光景は見られず、訪れる人も少なかった。水がきれいなため夏には蛍が飛び交うそうだ。

この機会に今まで、訪れたことのある滝の写真を集め整理することにした。
観光名所がないとはいえ、例外は内房総から見える富士山であった。
左は10月29日午後4時半過ぎ日没前の光景である。南房総の冨浦で撮影した。もう少し時間がたち、日没が過ぎると富士山が黒くかびあがるという。
右は鋸山からの富士山である。

 

 

 

白糸の滝(長野県)
今年8月に、長野と群馬を旅行した。新幹線で岐阜羽島まで行き、バスに乗る。長野県阿智村で星空を見るのが目的であったが、生憎の空模様で、満天の星は見えなかった。雲の間から火星や土星が顔を出していた。
翌日万座温泉(群馬県)に宿泊した後、北軽井沢にある白糸の滝を立ち寄った。ここは涼を感じられるためか、多くの観光客で賑わっていた。浅間山に降った雨が地下にしみこみ6年後に地上に出てきたのがこの滝である。信濃川に注ぐ。濃溝の滝に比べると落差もあり幅も広く滝らしくなる。土産物屋ではイナゴの佃煮が売られていた。

華厳の滝(栃木県)
昨年秋に訪れた華厳の滝は新婚旅行以来の二度目であった。日光にあり、中禅寺湖から流れ出た川が滝になる。有名な滝なので説明はいらないと思う。写真は下から見たものである。

那智の滝(和歌山県)
南紀勝浦の洞窟の温泉へ車で行った後、立ち寄った。熊野神社には参拝せず滝だけを見に行った。帰りは奈良県十津川村を通ったが、道幅が狭いうえカーブが多く緊張の連続であった。

イグアスの滝
数年前、南米ツアーに参加し訪れた。成田からロスアンジェルス経由でペルーのリマで乗り継ぐ長旅であった。自宅を出てイグアスの滝近くのホテルへ着くまで48時間、まさに地球の裏側であった。
この滝はブラジルとアルゼンチンの国境にあり、アマゾン川に注ぐ。日本の滝とはスケールが違う。ヘリコプターで上空から見るオプションツアーが用意されたが、万一の事故を思い参加しなかった。水飛沫がカメラに入り故障してしまった。
上の二枚はブラジル側から、下はアルゼンチン側から撮影した。熱帯性の動物や植物がみられた。

 

 

 

 

 

 

ナイアガラの滝
1997年に家族で旅行した。単身赴任でアメリカのデトロイトに駐在していた頃、妻と娘を呼び寄せた。ボストンの空港で待ち合わせ、レンタカーを走らせた。初日はタングルウッドという町で行なわれる音楽祭で、小澤征爾指揮のコンサートを聴いた。
雨合羽を着てボートに乗り、滝つぼの近くまで行った。ナイアガラはカナダとアメリカの国境にある。上流が五大湖のエリー湖、下流がオンタリオ湖である。アメリカ人によると新婚旅行で行く所だそうだ。世の中にデジカメがない時代の写真で少し色褪せているが、虹がはっきりと見える。
ナイアガラでレンタカーを返し、カナダ側に入った。鉄道で北上、モントリオールで一泊、さらにケベックでは行き英国女王が泊まったという有名ホテルに宿泊した。そのあとは飛行機で「赤毛のアン」で知られるプリンスエドワード島まで行った。これが唯一の家族3人揃っての思い出の旅行である。

髙田忍(2018,11,02)

雲南省 麗江から世界有数の虎跳渓 茶馬古道トレッキング

雲南省 麗江 虎跳渓トレッキング(9月13~19日)

9月13日台風被害の有った関空から韓国インチョン経由で中国重慶を経て麗江市でシャングリラ県にある虎跳渓観光、茶馬古道トレッキング2日間合計12時間ほど断崖絶壁の道をトレッキングしたり、日本の倉敷美観地区の20倍ほどの規模の大変美しい古城地区などを19日までの旅行記。

まず最初は麗江市内から公園というか中国国立の観光施設「玉龍雪山」の屋外シーン「麗江印象」の動画を載せます。入場料は一人US$60.00であまり安くないとは最初思った。しかし鑑賞後それ相応の価値が有った。

中国では有名な映画監督 張藝謀氏(北京オリンピックの脚色で有名)によるもので総勢500名の男女が織りなすオペラと言ったほうが良いかもしれない。多人数が参加し織りなすシーンは見ごたえがあった。出演者が振り回している物は、馬の鞍。

見ている最中雨に見舞われた。名の如く雲南省は雲の多い地方で施設側には雨合羽が用意されており支障なく観劇できた。

アイフォンの電池の加減ですべてを録画できなかったのが残念で悔やまれる。

9月13日 出発

強烈な台風22号の被害により関空への連絡橋が一時通行止めになったのは広く知られている通りだが対面通行が開始されなんとか第二ターミナルへ予定変更しソウル・インチョン空港便を運行するというメールがありバスに乗り出発した。

↓ 以下それぞれの写真はダブルクリックすると写真を拡大して見れます。

海底の砂地にアンカーで係留されていたタンカーが流され連絡橋にぶつかり連絡橋が不通になっていた。マイカー以外のバスなどが通行できるようになって幸いであった。

第二ターミナルを初めて利用した。LCC(ローコストキャリアー)専用のため立て付けや構造を極力安価に作ったというだけあって天井はむき出し、出発待合ロビーから搭乗口はただの出口という次第であった。どう考えるかはおまかせするが、小生が考えるにはここまでやるか?と言う印象であった。20年ほど昔のミャンマーの空港みたいな感じが否めず、長期使用する空港も普通の家も同じ、長い目で見れば安普請も普通の家もさほどコストの違いは無いものでここまで日本の玄関を貧相にする必要がどこにあるのだろうかと疑問を感じた。

搭乗は、昔のタラップ階段で効率などを考えた場合どちらがよいか言うまでもなく、長期使用でかかる設備費は当初多少高くついても結果的には大差ない。出口も数字が書かれてていくつもあると思ったら2つしか出口がなかった。

 

ソウル・インチョン国際空港

ハブ空港競争の折、関空とインチョン空港がしのぎを削った経緯がある。しかし立地条件に置いて建設コストの差で高くついた関空は斬新なデザインと構造で勝っていても結局規模と滑走路の本数で当初から負けておりアジアの玄関口ハブ空港にはなりきれなかった。現在は旧羽田空港を改善し世界第5位の日本のハブ空港になっている。

沖合まで結構距離があり、そこに至る陸から海にかけて埋め立てれば世界一の空港も夢では無いと思うが、既に外国航空会社の航空路線が出来上がっており、ハブ化は出遅れた感じがする。

韓国インチョン空港もその後改善を加えかなりの規模になっており、関西方面からであれば羽田・成田より発着本数や諸外国の航空会社の乗り入れが多く、よく知らないが自分の理解する限りここへ来れば世界中行きたい場所に行けるという印象があり、今回のツアーで中国雲南省へ重慶経由麗江空港までAir China(China Airは先発の台湾の航空会社名)で利用できた。

インチョン空港は関空に比べかなり大きく受付カウンターは比較にならないほどたくさんあり発着便表示を眺めているだけで夢が膨らむ感じであった。ただしこれは経由空港の重慶国際空港を見るまでの話であった。香港の空港もかなりでかいと知っていたがおそらくそれを上回る同時発着滑走路を何本も持っていると思われる。

重慶到着

重慶国際空港は、中国三大都市の一つでガイドから昨年開港したと聞いたが規模がインチョンよりまだ大きかった。

 

 

 

 

 

 

 

国際線乗り場から出てきたところ、どの程度の大きさかはこの段階ではあまり分からなかったし写真からでもわからないが、歩いてみてかなり大きそうな感じであった。

国内線へ移動したとこである。中国少数民族の反政府活動に対しかなりセキュリティーチェックが厳しくいたるところでチェックが有るとともにカバンに電池などないかチェックしている風景。チェックインと同時にカバンの内部におかしなものがあるかどうかベルトコンベアーの端にある機械ではなく、チェックする機械が各カウンターごとについていた。

西は新疆ウイグル自治区につながる空港であることもその理由であろう。警備会社が調べるのでなく、中国軍が直接関与しており態度も横柄だった。二重三重に検査する厳重さが何があるのか物語っていた。

真新しい国内線チェックインロビーの風景

 

 

 

麗江空港から虎跳渓

麗江空港からバスで約1時間半ほど北に位置するシャングリラ県(香格里拉県)の南端に位置する虎跳渓へ向かった。チベットタンラ山脈の氷河を端を発し長江源流の金沙江と呼ばれる川を渡り更に下流へ行き虎跳渓に行く。金紗江とは名の通り砂金が採れることを意味しているとのことであった。

シャングリラ についてはウィキペディアリンク参照。昔からその噂を聞きとても関心の有った場所であった。

 

 

 

 

 

 
 
金沙江の写真上の方、下流方向へ移動中のバスの中より
 
 
 
 

 

このあたりまで水面はさほど荒れていなかった。

 

向かい側の山腹横に一筋の水平な線は、断崖絶壁の上に作られた茶馬古道、一瞬気を抜けば転落死を免れない。山は急傾斜で落石が多く見られた。

 

 

茶馬古道のトレッキングなどと聞こえは良かったのであるが、この絶壁を見て正直なところこの後と数日間のトレッキングを憂慮し始めていた。本人は高所恐怖症があり、中国の名勝というと必ず絶壁と隣合わせで家内は喜んでも本人は歓迎できないのが本音。何故こうも危ないものを観光するのか・・・安全なスリルと美しい景観は歓迎だが、命の危険と隣り合わせはあまり歓迎できない。

 

 

川幅が狭くなり始め、いよいよ激流が見えた。

 

 

 

激流のそばまで近寄れる観光用の階段と展望台の説明図。

 

 

ようやく虎跳渓のバス駐車場で小休止。

 

 

階段上からの渓流の展望、落差があり波立っているが、轟音が響いている。

 

上流方向の山の風景と金沙江の流れ

 

人がいてるのは中展望台

 

そのさらに下に展望台

 

 

2番めの展望台からの眺め

 

川向うの谷間にコンクリート製の橋がかけられている。激流の流れは、日本で見掛ける規模とスケールではなかった。

漢字を生んだ国の「怒涛」とはこのことではなかろうか、とにかく凄い・・・24時間川にダイナマイトを放り込んでいる状態。

 

 

 

金沙江横まで来て、ようやくその激流の激しさに驚いた。もはやこれは激流でなく、土石流のような状態。24時間絶え間なくダイナマイトを川に投げ込んでいるかのような激しさ、波飛沫は煙のように水面を舞っていた。写真を数枚連続しているのはその波の様を少しでもわかるように並べてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

激流が終わって少し静かになった下流方向の写真

 

 

何を祈願するのかわからないが沢山御札が飾られていた。

 

 

怒涛荒らめく川、虎跳渓とはよくつけたと思った。虎が跳ねているような感がある。

 

 

 

 

 

水が沸騰している感じ、水しぶきでなくダイナマイトを放り込まれた煙と言ったほうが近い表現かもしれない。

中虎挟へトレッキング

虎跳挟観光の後早速、中虎挟へトレッキング開始。大型バスから今度は小型ワゴンで茶馬古道登山口まで移動した。小型ワゴン7台ぐらいに分乗したが日本のような営業車という概念は無いらしく、白タクのようだった。運転は上手だが途中アチラコチラで落石が多く見られた。山は急峻で場所によりほぼ直角の斜面、落石も半端なくかなりでかい岩石が落下によりアスファルトに大きな穴が時々空いていた。直撃喰らえば即死であろう。途中岩石を崩す削岩作業の音が聞こえてきていた。

 

 

登り口に至る途中民家に梨の実がなっていた。日本に輸入される果物や野菜類は農薬が大量に使用されていてしっかり洗わないと食べれないと言われているが、場所によりけりで貧しい地域では農薬が高価な為使用していないことが多いらしい。

 

 

 

下車直後鮮やかな花が咲いていたので写真に撮った。なんの花かは不明。

 

 

小雨の中、中虎挟へ向けてトレッキング開始。大体の地図をもらっていたが分かり難くただついて行っただけであるが昼食を取る宿場まで約4時間歩いた。地図は後日ネットから入手したものである。

 

 

 

 

地図から分かるように金沙江(川)を間に置いて右に玉龍雪山の 最高峰は扇子陡(せんすとう、Shanzidou)標高5,596 m を眺めながら歩くことになる。歩き始めた辺りの標高は3千数百mだろうと思う。山頂には氷河と雪が見えた。以前ネーパールのランタン高原を歩いたときも3千mくらいから3日掛けて4千500mまで体を慣らし最後にカンジンコンパの5千m登頂した。

 

 

 

この辺りは少数民族ナス族のテリトリーと書かれてあった。

途中橋を架ける工事がされていた。山のむこうはおそらく麗江市で山腹にトンネルを空けているのだろうと思われる。中国の建設力はすごいものがある一方、土地はすべて国有で人は借地権で暮らしているので必要とあらば居住権などはさして抵抗力などなく何でも真っ直ぐに作られ、大きく美観など短期間で変化する。

 

 

数時間歩いてやっと昼食のできる宿屋に到着。ここは有名というより、ここしか無いのでよく写真が虎跳挟トレッキングの写真に出てくる場所でもある。

 

 

入ってすぐ真後ろがダイニングになっていた。

宿場の名前は、納西體閣

 

 

花が満開でした。黄色の花の名前は不明、赤はブーゲンビリア

 

 

軒先にとうもろこしが干してある。痩せた地でもよく育ち、主食であろう

 

 

昼食にとうもろこしが出ていました。料理は全般的に辛い四川風でご飯はパラパラ。焼き飯に向いているだろうと思いました。あれこれ注文を出すのも失礼かと、出される料理を食べました。標高3500mなのでいくら加熱しても80℃にしか温度が上がらないせいもあるであろう。

 

 

玉龍雪山への眺め

 

 

どこも壁などは石積みされているのが特徴的。

 

 

宿泊施設が下の方にあります。我々はここでは宿泊をせず次の集落で宿泊。

 

これも宿泊施設。

 

 

 

中国独特の風合いの瓦、上海や北京などの近代的建物より遥かに安らぎを覚える

 

 

親猫と子猫ですが、親並みに大きくなっても乳離れせず飲んでいた。

 

 

どちらが親かわからないぐらい大きな子猫

 

 

 

 

 

 

宿泊施設の案内と思われます。

 

これから登っていく道

 

 

トレッキング再開

 

 

この辺りから、馬糞やヤギの糞が行く手を阻んでくれます。もちろん避けながら歩くが、俊敏な運動神経が必要。

 

 

振り返って、来た道を眺め遠くに来たもんだと・・・

 

 

 

金沙江を眼下に見て

 

 

ようやく山頂近く標高3760m、こんなところにも電線が伸びてきています。携帯などの電波事情は日本以上に良い

 

 

 

 

 

ようやく山の頂上 海抜3760m

 

岩の向こうは断崖絶壁。高所恐怖症の為とても近寄れない。

 

 

ちょっとだけ、携帯を自撮り棒につけて絶壁を覗き見た。自分の目ではとてもとても・・・

 

 

道の先は絶壁怖くてぶれている。

 

 

玉龍雪山です。

 

 

 

 

 

 

 

 

手前の尾根を越えれば今夜の宿

 

宿からの玉龍雪山の眺め

 

 

 

ガードレールか手すりか?工事中

 

 

この辺りで気分は空中を舞っているような気分

 

 

左へ曲がって歩き、正面に見える滝の下をくぐって右方向へ、雨に見舞われいる最中

 

向こうに見える道路の辺りが中虎挟、ここで小型ワゴンに乗り換えて次の「玉龍雪山」の国立イベント公園へ「麗江シーン」を観劇に移動

 

 

麗江市を経由しテーマパーク「玉龍雪山」へ、どこでも玉龍雪山が書かれており、なにがなんだか分からず混同

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ページトップで小生が録画した動画はアイフォンの電池の都合で短かく、U-tubeに幸い全編録画したのが有ったので参考まで掲載。

 

 

翌日ナス族の村を訪問

 

 

 

 

 

贅肉のない飼い犬、エキササイズド・ドッグ

 

 

日本で言う古民家が博物館になっていました。

 

 

 

 

シャングリラ(英語: Shangri-La)は、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトン1933年に出版した小説『失われた地平線』に登場する理想郷(ユートピア)の名称。ただしこの小説は地理学者ジョセフ・フランシス・チャールズ・ロックの寄稿したナショナルジオグラフィックの記事を参考に現地に訪れること無く書かれたと現地で聞いた。

 

出版された当時のナショナルジオグラフィック。

 

 

 

トンパ文字  古代ナシ族の象形文字

 

官吏に連行される犯罪人とされる人たちの写真、後で処刑(死刑)されたと言っていた

 

「失われた地平線」の一場面の写真

 

 

 

当時のナショナルジオグラフィック誌

 

当時のナス族の写真

 

 

 

馬の背に乗せられた子供、母親に引かれて行く姿

 

 

あどけない表情が印象的だった

 

 

ナス族の村の家の門

 

 

老人が馬を引きながら歩く姿、現地で見た馬に乗っていく姿は見なかった、みんな馬を引いていた

 

街角でお孫さんを抱くおばあさん。見かけほどには高齢ではない。しかし海抜3000mで紫外線が強く肌が浅黒くなっていた

 

 

街並みの家々はすべて石積みの家屋だった。地質的に石灰岩が豊富なのであろう

 

 

 

観光客が多いせいか花が多く植えられていた。バラが印象的に目に映った

 

 

 

 

道の側溝。流れる水はとても清らかだった。おそらく石灰質が豊富に含まれている為透明度が高いのだろう。この辺りの池や川はすべて透明度が高かった。

 

 

観光客のため門の戸が空けられていた。

 

 

ダリアとバラが咲いていた

 

石積みの家と植えられた花がよく似合っていた。

 

 

ダリア

 

 

何かの蔵だろう

 

番犬あらぬ番馬

 

 

 

 

街の横丁って感じ

 

雲南省麗江市から西はタイが近いせいだろう、タイで見かけたガルーダのような木彫りがホテル前にあった

 

ホテル内に飾ってあったナス族の写真

 

 

ホテルの建築物の後ろは玉龍雪山

 

 

 

 

 

 

ニジマスが泳いでいた

 

 

 

 

トルコとギリシャの旅

 トルコとギリシャの旅

(2018,9,9~9,18)

なぜトルコとギリシャ

トルコとギリシャのツアーに参加した目的は、一つにはテレビで見たトルコの岩だらけのカッパドキアを見たかったこと、もう一つは世界史で習ったアテネのパルテノン神殿を見たいからであった。

 

エアバスA380で

9月4日に襲来した台風21号で関西空港の国際線滑走路が水を被り閉鎖された。9月9日の出発が危ぶまれたが、7日になり成田、バンコク経由で出発するとの連絡があった。かなり体力的に疲れると思ったが、準備してきたこともあり参加することにした。

新幹線品川駅で下車し、成田エクスプレスに乗り換えた。成田からバンコクまではANA、バンコクからエミレーツ航空である。機種はエアバスA380で、一階はエコノミー席、2階がビジネスクラスであった。二階後方にラウンジもありシャワーの装置もある。ラッキーであった。近く大阪ドバイ間に就航することになっている。

 

トルコ国内はバスで移動した。VIPとフロントに書かれていたが、シートベルトの不具合やトレーが壊れていて、EU基準を満たしているか疑問であった。

カッパドキアでは洞窟内のホテルに宿泊した。

カッパドキアからはかつてのシルクロードを西進した。隊商宿やイスラム色の強いコンヤを経由して次の温泉町までは600キロを超える長旅であった。早朝に出発してホテルには9時に着き、荷物を部屋に置く前に夕食という強行軍であった。

トルコからギリシャはエーゲ海の島々を巡るクルーズ船に乗った。船室は窓側にアップグレードされたが、スーツケースを置くのに一苦労する狭さでエアコンも効かないありさまでとても快適とは言えない。

帰りは関空に到着、回復の速さに感心した。リムジンも運行しており思ったより一時間早く帰宅できた。

強行軍の旅で体力的には疲れたが、気軽に話しかけてくれる人と巡り合い楽しい旅となった。旅は道連れ、世は情け。

 

 

文字

イスタンブールの二日目、文字がすべてアルファベットであることに気付いた。これまでイスラムの国ではアラビア文字が使われていると思い込んでいた。ガイドに質問すると、1923年にアルファベットが採用されたという。目的の一つは識字率の向上であったという。オスマントルコは第一次世界大戦で敗れ、トルコ革命がおこった。指導者のケマルは政教分離、ローマ字採用、女性参政権など近代化政策を進めた。

言葉には英語の影響とみられるものもあった。SIGARAは煙草のことと推測できる。

ギリシャでは勿論古代からのギリシャ文字である。αβγなどの小文字は数学で習うが、大文字はよく分らない。写真はアテネ市内のタクシーの文字である。屋根に「TAΞI」と書かれていた。Ξは「くし」と読む。町中の標識はギリシャ語と英語が併記されていて旅行者には親切である。

 

トイレ

エミレーツのラウンジはバンコク、ドバイ共にTOTOの製品を使っていた。トイレットペーパーの先端を三角に折るのは日本人のおもてなしの現れであると何かで読んだが、このラウンジはじめインスタンブールのホテルでも三角に折られていた。ある日本人の思い込みに違いない。

トルコでは、都市部のトイレは洋式であったが、地方には和式が多かった。どちらを向いて用を足すのか良く分らず手すりもなく不便この上ない。

ギリシャのクレタ島のCaféで、無料で貸してもらったトイレは紙が流れない。よく見ると紙を流さないようにとの英語の注意書きがあった。この点では南米ペルーの首都の一流ホテルと変わらない。

手を洗う蛇口の栓は、日本では上に上げるのと下に下げるのが混在しているが、トルコではすべて上に上げるものであった。

トイレの男女表記では、単数のもの複数のものが混在していた。複数の人が利用するのでMen、Womenが正しい。日本でも誤表記が多い。

 

人人人、車車車

インスタンブールでもアテネでも車が渋滞していた。インスタンブールでは、車道でペットボトルの水を売る少年がいた。まるで20年前のメキシコのようだった。アテネでは車の間をバイクがすり抜けていく。これだけ車が多くても、日本車は少なかった。おそらく高い割には高級感のない中途半端な車と思われているのかもしれない。

人の多さにも閉口した。エーゲ海に浮かぶサントリーニ島は日没がきれいなことで有名で、小さな村にはその光景を見に多くの人が押し寄せた。狭い道は人でごった返し、そのうえ石畳で歩きにくく足の裏が痛くなった。またアテネのパルテノン神殿の見学通路は満員の地下鉄のように身動きが取れないほどであった。

 

日の出と日没

カッパドキアの風景と日の出と日没

 

サントリニーア島(エーゲ海)の風景と日没

キリスト教とイスラム教

この地は、先ずギリシャ文明が栄えたあとローマ帝国が支配する。西ローマ帝国が滅びた後も東ローマ帝国がキリスト教を国教にしてコンスタンチノープルを首都にして栄える。そこにイスラムのオスマントルコが侵入するという歴史をたどった。

インスターブールのアヤソフィアはキリスト教会であった。オスマンが侵攻した後キリスト像を残してイスラム教の寺院になった。今は両者の共存を願って博物館になっている。その隣に立つブルーモスクは、1000年後に建てられたが、規模は大きいがアーチの大きさでアヤソフィアに及ばない。

カッパドキアには、ギョレメ野外博物館があった。所謂隠れキリシタンのいた洞窟である。壁に描かれたキリストの目や顔がえぐり取られていた。見つめるイスラム教徒が見つめると、改宗することを恐れたからとの説明であった。

 

トルコ商人

エジプトバザールをはじめ立ち寄った土産物店では日本語で「二個千円」と何とかの一つ覚えで迫って来る。なによりもカッパドキアの絨毯と最終日のレザーの店の営業マンの巧みな日本語を使っての商魂の逞しさには感心した。その熱意につい買ってしまうことになった。

先日NHKで、絨毯とカーペットは同じか違うかのクイズをしていたが、日本語か英語かの違いに過ぎない。写真ではよく分らないが門のところに「Carpets」と書かれていた。

絨毯を織るのは主婦の仕事で、訪れた洞窟に住む民家に織る器械が置かれていた。最近の若い女性は他の仕事を求めて、絨毯織はしなくなったという。この民家は四代目で先祖伝来の絨毯が敷かれていた。岩の上であったが、足が痛いと感じる事はなかった。洞窟に住む家族は5家族のみで、政府が世界遺産を理由に追い出しにかかっているそうだ。

レザーの店では、ファッションショウの後セールスマンが近寄ってきてコートを買う羽目になった。薄くて軽いのがセールスポイントである。いよいよ20年前に買ったコートとお別れすることにした。

 

 

遺跡と歴史

バムッカレはトルコ南西部の温泉地である。ホテル内に露天風呂があった。中国人女性が写真を撮ってくれた。

近くに石灰棚があり、温泉がローマ時代の療養所になっていた。石灰棚は雪山のようである。

美の女神に由来するアフロディスィアスの遺跡

アフロディシアスは、紀元前2世紀から6世紀まで栄えた古代ギリシャ・ローマ時代において最も壮大な都市のひとつといわれている。トルコ人学者が生涯をかけて発掘した。遺跡内には学者の墓があった。

エフェソス遺跡

エフェソス(ギリシャ語:Έφεσος, ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus)は、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシャ語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシャ人都市であったが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙がある。(ウィキペディア)

ガイドの説明によれば、世界最古の職業の館もあったという。

パルテノン神殿

アテネのペリクレスが建設した。アクロポリスの丘にある。

さいごにトルコ・ギリシャ旅行の注意

トルコでは人通りの多い露店の試食品には絶対手を出さない事、ホテルの生野菜も控えた方が良い。どのような水で洗っているかわからない。

アテネには集団スリが多い。バッグやリュックは前に持ち、財布は人の前では出さず、パスポートは腹巻に巻くなど細心の注意と警戒を怠らないことが大切だ。      

(218,9,20髙田 忍)

 

岬と思い出

岬と思い出

足摺岬(四国最南端)

 7月2日から4日の三日間、台風が接近する中、四国の最南端の足摺岬まで車を走らせた。明石海峡を渡り淡路島を通り、鳴門で出て徳島自動車道を走った。一般道に出て渓谷美で知られる大歩危・小歩危に立ち寄った後、高知自動車道経由で目的地に向かった。約500キロの道のりであった。

 足摺岬のある土佐清水市の中浜は、ジョン万次郎の生誕地である。道端には、NHK大河ドラマ決定の看板が目立った。万次郎は1827年貧しい漁師の家に生まれた。14歳の時、足摺岬沖で漁をする漁船の雑用係をしている時に遭難、アメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡った。船長の養子となり教育を受け、1851年購入したアドベンチャー号で帰国した。

 1853年、黒船来航でアメリカの知識と語学力を認められ幕府に招聘された。維新後は東京大学の英語教師になった。

足摺岬灯台

足摺岬灯台

右の後方はジョン万次郎の像

右の後方はジョン万次郎の像

 

 翌日、四万十川沿いに愛媛県大洲に向かった。国道というのにすれ違うのに苦労するほどのくねくねした狭い道が続いた。中江藤樹邸跡を訪れるのが目的であった。県立大洲高校の敷地内にある。近江聖人といわれる中江藤樹は、1608年私の出身地の隣村である小川村に生まれた。9歳の時、米子藩の武士である祖父の養子となった。12歳の時、米子藩主が大洲範囲国替えとなり祖父母とともに移住した。27歳、母への孝行のため小川村に戻った。

 藤樹書院という私塾を開き、朱子学に傾倒し後に陽明学の影響を受けた。

中江藤樹邸跡

中江藤樹邸跡

邸内の額(私の出身中学校にも同じ額があった)

邸内の額(私の出身中学校にも同じ額があった)

 

 四国の最南端である足摺岬のことを書いたので、これまで行ったことのある最北端、最西端など日本や世界の「端っこ」を思い出し記録に残すことにした。

 

平戸(最西端の町)

 平戸という地名は中学生の頃から知っていた。同級生が転校していった先が平戸で、暫くは文通をしていたことがある。平戸は島であるが、九州と橋で結ばれているので九州最西端の町である。

 室町時代の1550年、松浦隆信が南蛮貿易に進出、平戸港にポルトガルの貿易船が初めて入港したといわれる。その年の九月にはフランシスコ・ザビエルが来航しキリスト教の布教を始めた。

 特に鎖国が行われる前の江戸時代初期まで対外貿易の中心として栄えていた。その後、対外貿易の窓口は長崎の出島になり平戸での南蛮貿易は終わった。

 三年前に娘と長崎を旅行した時、平戸を訪れた。

 平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺が交差して見える平戸を代表する風景である。日本と西洋の文化を感じさせる景観である。

平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺

平戸ザビエル記念教会と、光明寺、瑞雲寺

平戸ザビエル記念教会

平戸ザビエル記念教会

宗谷岬(最北端)

 北海道に初めて行ったのは5年前、70歳を過ぎてからである。礼文島、利尻島を巡るツアーに参加した。羽田空港を経由して稚内空港に到着し、先ずバスで向かったのが宗谷岬であった。宗谷岬はわが国最北端の地である。

 「流氷とけて春風吹いて」で始まる歌謡曲で知られている。6月3日であったが寒々としていた。曇っていてロシア領サハリンは見えなかった。

宗谷岬からサハリン方面

宗谷岬からサハリン方面

 

 

 五年経った今でも記憶に残っているのは終戦直後に起こった悲劇である。昭和20年8月20日、「真岡郵便電子局事件」のことである。

 広島・長崎への原爆投下を知ったソ連軍が8月9日に日本に参戦を表明し、当時日本領であった樺太に侵攻してきた。ソ連兵の略奪、殺害、性的暴行を怖れた真岡郵便電信局の電話交換手をしていた若い女性12名の内9名が青酸カリなどで自決した。最果ての地の出来事で、本州ではあまり知られていない。

 

潮岬(本州最南端)

 潮岬は本州最南端の岬である。潮岬は和歌山県串本にある。「ここは串本、向かいは大島、仲を取り持つ巡航船」の串本節を思い出す。祖母が祝い事や宴会などがあると、伊勢音頭とともに串本節をよく歌った。明治生まれの祖母の世代にとっては、白浜や潮岬が観光地であったようだ。

潮岬(本州最南端)

潮岬(本州最南端)

 

 

知床岬(二番目の東)

 森繫久彌作詞作曲の「知床旅情」で知られる知床岬は、昨年9月に訪れた。金沢からクルーズ船に乗り船中で二泊、苫小牧港に着き阿寒湖で一泊、バスで長い距離を走った。知床五湖を散策の後、船で知床半島を巡った。

 

知床五湖

知床五湖

知床半島

知床半島

 

 この時乗った船に、かつて勤務した会社の製品が備え付けられているのに気づき驚いた。救命ボートである。遭難すると自然に膨らむゴムボートである。

住友電工製救命ボート

住友電工製救命ボート

 

 

ロカ岬(最西端)

 ユーラシア大陸最西端にある岬である。ポルトガルの首都リスボンから、程遠くないところにある。今年3月に訪れた。ロカ岬へ来たことの証明書を有料でもらえるとの添乗員の説明であったが、確かなのは自分の目だと言い聞かせ、岬に先端に立った。強風が吹きすさび、吹き飛ばされそうであった。

 岬には碑が立っている。案内書によると「ここに地終わり海始まる」の意味だそうである。ポルトガルは、日本に鉄砲やキリスト教をはじめヨーロッパ文化を伝えた国である。同じ海洋国家である点が共通している。

ロカ岬から大西洋を望む

ロカ岬から大西洋を望む

碑

寒風の中であったが、既に花が咲いていた。

寒風の中であったが、既に花が咲いていた。

 

 これらの岬は、何らかの形で外の世界とつながりがあることがわかった。それぞれ物語がある。決して日本や世界の「端っこ」ではない。

 

 最後に鉄道の駅と関連する施設を紹介して締めくくることにする。

 

稚内駅(最北端の駅)と幌延深地層研究センター(最も深い施設)

 

 稚内駅はJR最北端の駅である。サハリンと地下トンネルでつなぎ、ロシア大陸と直結するアイデアがあるが、当面実現の可能性はない。初めての北海道旅行の時のことである。稚内駅を出発し、宗谷本線を南下し幌延駅で下車した。

稚内駅

稚内駅

 

 稚内駅を出発し、宗谷本線を南下し幌延駅で下車した。ここから東北東3キロのところに、幌延深地層研究センターがある。日本原子力研究開発機構が管理する施設で、地下350メートル以上深さへの放射性廃棄物の地層処分に関する研究をしている。地下350メートルは経験した最も深い地点だと思う。

 

宗谷本線を走るジーゼルカー

宗谷本線を走るジーゼルカー

幌延深地層研究センター全景

幌延深地層研究センター全景

地下内部

地下内部

信濃川上駅(標高一の隣の駅)

 一番標高の高い所にある駅は長野県の野辺山駅である。信越線小諸駅と中央線小淵沢駅を結ぶ小海線の長野県の南端に位置する駅である。 駅の標高は1,345.67m。野辺山の小諸寄りの隣の駅が信濃川上駅である。川上村はレタスなどの高原野菜で知られる村である

 大学に入学した年の夏休みにほぼ一か月すごしたことがある。材木業のお宅で、三食付きの家庭教師のアルバイトであった。東京の音楽大学を目指していたお嬢さんの勉強の手助けをした。大学に入学したばかりで、向学心に燃えていたのか、ドイツ語で書かれた「DAS KAPITAL」3巻を持参し読破しようと考えた。歯が立たず、中学生の弟と近くを流れる千曲川で魚を釣ったり水浴びをしたりする毎日であった。

 二年前の秋、軽井沢での大学クラス会に参加する途中に立ち寄った。50数年ぶりのことであった。その頃と変わらないひっそりとした駅であった。(髙田 忍)

信濃川上駅駅舎

信濃川上駅駅舎

富士山十二景

富士山十二景

5月17日から19日の三日間、富士山を各方面から見るツアーに参加した。富士山を目的にしたツアーに参加したのは初めてである。静岡駅でバスに乗り箱根を経由して富士五湖を巡るツアーである。箱根、富士五湖、日本平など見所スポットから富士山を見ようという趣旨である。
ここ数年の間に各地で撮影した富士山の姿とあわせて記録に残すことにした。富士山から遠い順に十二枚の写真を選んだ。題して富士山十二景である。

1. 岐阜上空から(2015年10月、約200Km西)
2015年10月、東北の栗駒山の紅葉を見るため大阪空港から花巻空港行きの飛行機乗った。離陸してほどなく木曽川上空に差し掛かると進路を北に変えた。ある人から乗鞍岳からも富士山が見えることがあると聞いていた。念のため、右の窓から東の方を見ると雲の上に富士山が浮かんでいた。

栗駒山は岩手、秋田、宮城の県境にまたがる山で紅葉を楽しめるところである。山頂には温泉があり日帰り入浴をした思い出がある。

2. 長野県千畳敷カールから(2016年10月、約100キロ北西)
2016年10月、車で学生時代のクラス会に軽井沢まで行った帰りに駒ケ根市のホテルに宿泊した。翌日、バスとロープウェイを乗り継いで千畳敷カールを訪れた。赤石山脈など南アルプスの山々の向こうに富士山が頭を出しているのが見えた。

千畳敷カールは中央アルプスにある氷河地形である。高山植物の宝庫として知られている。

3. 羽田空港から(2012年10月、約100Km東)
2012年10月東京へ行く機会があった。羽田空港の第一ターミナルビルの出発ゲートを離れ、離陸前の滑走を始めた時、遥か彼方に富士山を見ることが出来た。ターミナルビルの右側にかすかに見える。昭和49年(1974)から昭和52年(1977)まで、東京の郊外日野市に住んでいた頃、冬になると間近に富士山を見ることが出来たが、羽田空港から見ることが出来るとは驚きであった、

4. 静岡県、日本平展望台(2018年5月19日、40Km南東)
日本平は今回の富士観望の目的地のひとつで最後に訪れたところである。前日の天気予報では雨で雨具を用意していたが、幸運にも予報が外れた。画面左の、ふたこぶらくだの形をした山がある。その向こうの雲の上に山頂が見える。一時間の滞在時間の間、このチャンスを待っていた。5月になると見えない日が多いとの事であるには。右は駿河湾で次郎長やサッカーで有名な清水港がある。更にその右に世界自然遺産に認められた三保の松原が伸びる。

日本平は2回目である。2016年6月に来たが、その時、富士山は見えなかったので三保の松原を記念に写した。

5. 神奈川県、箱根(2016年6月、約30Km何東)
箱根は正月の大学駅伝でも知られる観光地である。芦ノ湖の周囲には美術館や別荘もあり、東京からも近いため、多くの観光客が訪れる。
二年前に中学校の修学旅行に続いて訪れ今回は三度目であった。生憎、今回は雲に覆われ、写すことはできなかった。
写真は二年前のもので、ホテルの庭から写した。露天風呂からも見え、朝風呂につかりながら富士山を眺めると疲れが取れゆったりとした気分になった。

下の写真はロープウェーで昇った駒ヶ岳山頂からみた芦ノ湖である。

6. 静岡県三島(2017年4月、約30Km南東)
昨年春、東京と伊豆の花見を見るツアーに参加した。伊豆から三嶋大社に向かうバスの中から撮影した。三島には富士山からの湧き水が出ているところがある。

下の写真は三嶋大社の枝垂れ桜である。

7. 静岡県由比付近(2018年5月19日、約30Km南西)
静岡県の太平洋岸には、東名高速道路、国道一号線と東海道線が並行して走っている。東名高速が国道一号線と交差する由比の付近で、バスの車内から撮影した。

 

8. 新幹線富士川鉄橋から(2018年1月、27Km南南東)
1月25日、伊豆の早咲きの桜を見に行く途中、新幹線で富士川を渡るとき撮影した。途中の関ヶ原付近は雪で覆われていたが、太平洋に面する静岡県一帯は好天で雲一つなかった。冬の日本列島はこんなにも違うのかと改めて認識した。雪に覆われた姿は美しい。

 

その日、熱海では1月というのに桜祭りが行われていた。熱海桜は河津桜より早く開花する。

9.山梨県、富士五湖(2018年5月17日~18日)
富士五湖とは、富士山の北山麓、山梨県側にある五つの湖のことである。東から順に山中湖、河口湖、西湖(せいこ)、精進湖(しょうじこ)、本栖湖(もとすこ)がある。
初日に宿泊した山中湖の近くのホテルの庭から撮影した。

次の写真は17日の夕方は曇り空の富士山を写したものである。

山中湖から

二日目、予報では雨であったが、夜が明けると雲一つない青空であった。
午前6時頃、朝風呂にも入らず同じ庭から撮影した。

時間が経つにつれ雲が広がってきた。富士のすそ野に広がる樹海が見える。

本栖湖から
ツアーの目的は、芝桜と富士山の光景を見るのが一番の目的であった。今年は桜に限らず、季節の訪れが早く、芝桜はあまり残っていなかった。霧が出て富士山は見えなかった。

下は旅行社がお詫びにくれた絵葉書の富士と芝桜である。

今年の桜

今年の桜

今年は例年より桜の開花が早く、あっという間に春が過ぎてしまった。今年、訪れた各地の桜の写真集である。

伊豆半島

今年一番早く桜を見たのは一月のことであった。伊豆半島の付け根にある温泉町熱海の桜である。1月25日のことで日本列島が寒さに震える中。ここでは桜祭りが行われていた。

 

 

翌日、早咲きで全国的に知られる河津桜を見に行った、少し時期が早く、それでも蕾みが開き始めていた。

 

四国高松 栗林公園

4月1日、天気が良かったのでドライブを思い立った。山陽道から瀬戸内大橋を渡り、四国高松の栗林公園へいった。かねてから一度は行ってみたいと思っていた庭園である。満開で多くの家族連れは職場の仲間で賑わっていた。大きな松も見事であった。帰りは淡路島を経由して戻った。

大阪 大川桜並木

4月2日、大阪法務局へNPO法人の登記申請へ行った際、天満橋の八軒屋浜から対岸の桜並木を撮った。満開であった。

 

宝塚、逆瀬川沿い

4月3日、宝塚市の逆瀬川沿いの桜である。根元から咲いていたので生命力の強さに感心し撮影した。

 

日光東照宮

4月8日から10日まで草津温泉、日光、鬼怒川温泉のバスツアーに参加した。関西より北に位置するため、まだ見頃であった。

群馬あしかがフラワーパーク

このフラワーパークは藤で有名なパークである。藤の花はようやく咲き始めたばかりであった。桜を背景に撮影した。

奈良吉野

4月12日、学生時代の友人、その家族12名で奈良県吉野の桜を見に行った。例年であれば見頃なのだが、早すぎた春の到来で葉桜ばかりであった。それでも新緑の美しさを楽しむことができた。夜はあべのハルカスで大阪の夜景を見ながら懇親を深めた。

 

滋賀県 海津大崎

4月17日、友の会の行事「歩こう会」で琵琶湖畔の海津大崎の花見ヲークが企画され参加した。近畿各地から家族を含めて14名が参加した。例年なら一番いいタイミングであったが、土地の人によると一週間来るのが遅かったという。それでも、葉桜の中にわずかに花が残っていた。去り行く春を惜しみながら懇親を深めた。

曇り空で墨絵のような琵琶湖の風景が印象に残った。