富士山十二景

富士山十二景

5月17日から19日の三日間、富士山を各方面から見るツアーに参加した。富士山を目的にしたツアーに参加したのは初めてである。静岡駅でバスに乗り箱根を経由して富士五湖を巡るツアーである。箱根、富士五湖、日本平など見所スポットから富士山を見ようという趣旨である。
ここ数年の間に各地で撮影した富士山の姿とあわせて記録に残すことにした。富士山から遠い順に十二枚の写真を選んだ。題して富士山十二景である。

1. 岐阜上空から(2015年10月、約200Km西)
2015年10月、東北の栗駒山の紅葉を見るため大阪空港から花巻空港行きの飛行機乗った。離陸してほどなく木曽川上空に差し掛かると進路を北に変えた。ある人から乗鞍岳からも富士山が見えることがあると聞いていた。念のため、右の窓から東の方を見ると雲の上に富士山が浮かんでいた。

栗駒山は岩手、秋田、宮城の県境にまたがる山で紅葉を楽しめるところである。山頂には温泉があり日帰り入浴をした思い出がある。

2. 長野県千畳敷カールから(2016年10月、約100キロ北西)
2016年10月、車で学生時代のクラス会に軽井沢まで行った帰りに駒ケ根市のホテルに宿泊した。翌日、バスとロープウェイを乗り継いで千畳敷カールを訪れた。赤石山脈など南アルプスの山々の向こうに富士山が頭を出しているのが見えた。

千畳敷カールは中央アルプスにある氷河地形である。高山植物の宝庫として知られている。

3. 羽田空港から(2012年10月、約100Km東)
2012年10月東京へ行く機会があった。羽田空港の第一ターミナルビルの出発ゲートを離れ、離陸前の滑走を始めた時、遥か彼方に富士山を見ることが出来た。ターミナルビルの右側にかすかに見える。昭和49年(1974)から昭和52年(1977)まで、東京の郊外日野市に住んでいた頃、冬になると間近に富士山を見ることが出来たが、羽田空港から見ることが出来るとは驚きであった、

4. 静岡県、日本平展望台(2018年5月19日、40Km南東)
日本平は今回の富士観望の目的地のひとつで最後に訪れたところである。前日の天気予報では雨で雨具を用意していたが、幸運にも予報が外れた。画面左の、ふたこぶらくだの形をした山がある。その向こうの雲の上に山頂が見える。一時間の滞在時間の間、このチャンスを待っていた。5月になると見えない日が多いとの事であるには。右は駿河湾で次郎長やサッカーで有名な清水港がある。更にその右に世界自然遺産に認められた三保の松原が伸びる。

日本平は2回目である。2016年6月に来たが、その時、富士山は見えなかったので三保の松原を記念に写した。

5. 神奈川県、箱根(2016年6月、約30Km何東)
箱根は正月の大学駅伝でも知られる観光地である。芦ノ湖の周囲には美術館や別荘もあり、東京からも近いため、多くの観光客が訪れる。
二年前に中学校の修学旅行に続いて訪れ今回は三度目であった。生憎、今回は雲に覆われ、写すことはできなかった。
写真は二年前のもので、ホテルの庭から写した。露天風呂からも見え、朝風呂につかりながら富士山を眺めると疲れが取れゆったりとした気分になった。

下の写真はロープウェーで昇った駒ヶ岳山頂からみた芦ノ湖である。

6. 静岡県三島(2017年4月、約30Km南東)
昨年春、東京と伊豆の花見を見るツアーに参加した。伊豆から三嶋大社に向かうバスの中から撮影した。三島には富士山からの湧き水が出ているところがある。

下の写真は三嶋大社の枝垂れ桜である。

7. 静岡県由比付近(2018年5月19日、約30Km南西)
静岡県の太平洋岸には、東名高速道路、国道一号線と東海道線が並行して走っている。東名高速が国道一号線と交差する由比の付近で、バスの車内から撮影した。

 

8. 新幹線富士川鉄橋から(2018年1月、27Km南南東)
1月25日、伊豆の早咲きの桜を見に行く途中、新幹線で富士川を渡るとき撮影した。途中の関ヶ原付近は雪で覆われていたが、太平洋に面する静岡県一帯は好天で雲一つなかった。冬の日本列島はこんなにも違うのかと改めて認識した。雪に覆われた姿は美しい。

 

その日、熱海では1月というのに桜祭りが行われていた。熱海桜は河津桜より早く開花する。

9.山梨県、富士五湖(2018年5月17日~18日)
富士五湖とは、富士山の北山麓、山梨県側にある五つの湖のことである。東から順に山中湖、河口湖、西湖(せいこ)、精進湖(しょうじこ)、本栖湖(もとすこ)がある。
初日に宿泊した山中湖の近くのホテルの庭から撮影した。

次の写真は17日の夕方は曇り空の富士山を写したものである。

山中湖から

二日目、予報では雨であったが、夜が明けると雲一つない青空であった。
午前6時頃、朝風呂にも入らず同じ庭から撮影した。

時間が経つにつれ雲が広がってきた。富士のすそ野に広がる樹海が見える。

本栖湖から
ツアーの目的は、芝桜と富士山の光景を見るのが一番の目的であった。今年は桜に限らず、季節の訪れが早く、芝桜はあまり残っていなかった。霧が出て富士山は見えなかった。

下は旅行社がお詫びにくれた絵葉書の富士と芝桜である。

今年の桜

今年の桜

今年は例年より桜の開花が早く、あっという間に春が過ぎてしまった。今年、訪れた各地の桜の写真集である。

伊豆半島

今年一番早く桜を見たのは一月のことであった。伊豆半島の付け根にある温泉町熱海の桜である。1月25日のことで日本列島が寒さに震える中。ここでは桜祭りが行われていた。

 

 

翌日、早咲きで全国的に知られる河津桜を見に行った、少し時期が早く、それでも蕾みが開き始めていた。

 

四国高松 栗林公園

4月1日、天気が良かったのでドライブを思い立った。山陽道から瀬戸内大橋を渡り、四国高松の栗林公園へいった。かねてから一度は行ってみたいと思っていた庭園である。満開で多くの家族連れは職場の仲間で賑わっていた。大きな松も見事であった。帰りは淡路島を経由して戻った。

大阪 大川桜並木

4月2日、大阪法務局へNPO法人の登記申請へ行った際、天満橋の八軒屋浜から対岸の桜並木を撮った。満開であった。

 

宝塚、逆瀬川沿い

4月3日、宝塚市の逆瀬川沿いの桜である。根元から咲いていたので生命力の強さに感心し撮影した。

 

日光東照宮

4月8日から10日まで草津温泉、日光、鬼怒川温泉のバスツアーに参加した。関西より北に位置するため、まだ見頃であった。

群馬あしかがフラワーパーク

このフラワーパークは藤で有名なパークである。藤の花はようやく咲き始めたばかりであった。桜を背景に撮影した。

奈良吉野

4月12日、学生時代の友人、その家族12名で奈良県吉野の桜を見に行った。例年であれば見頃なのだが、早すぎた春の到来で葉桜ばかりであった。それでも新緑の美しさを楽しむことができた。夜はあべのハルカスで大阪の夜景を見ながら懇親を深めた。

 

滋賀県 海津大崎

4月17日、友の会の行事「歩こう会」で琵琶湖畔の海津大崎の花見ヲークが企画され参加した。近畿各地から家族を含めて14名が参加した。例年なら一番いいタイミングであったが、土地の人によると一週間来るのが遅かったという。それでも、葉桜の中にわずかに花が残っていた。去り行く春を惜しみながら懇親を深めた。

曇り空で墨絵のような琵琶湖の風景が印象に残った。

ポルトガルを旅して

ポルトガルを旅して

(2018年3月24日~28日

 

なぜポルトガル?

 3月23日から30日まで、旅行会社のポルトガルツアーに参加した。往復の3日を差引くと、現地滞在は24日から28日までの5日間であった。今日にいたるまで、仕事の出張も含めて30数ヶ国を訪れたが、ポルトガルはなぜか後回しになっていた。この国は日本に鉄砲やキリスト教を伝えた国で、日本にとっては最初にヨーロッパ文明に接した国である。フランシスコザビエルの名前は誰もが知っているし、学校では外来語のシャボン、カルタ、カッパ(合羽)はポルトガル語に由来すること、歴史の時間にはバスコ・ダ・ガマも教えられる。日本人にとっては縁の深い国で、是非訪ねてみたいと思っていた。

日本との関係

 日本人にとっては、このようにポルトガルは心の中に潜んでいるが、この国ではそれほど日本が意識されているようには思えなかった。その理由は秀吉より後の時代に、キリシタンを迫害し虐殺したことが潜在的にあるのかも知れない。最後に訪れた商業都市ポルトのサンフランシスコ教会の壁には、イスラムに虐殺された聖人並んで日本での殉教者の像があった。

 リスボンの川沿いの公園の路面には、世界地図描かれポルトガル人が発見した国の年代が記されている。日本に到達したのは1541年のことである。ポルトガルにとっては、日本は彼らが到達した多くの国の一つにすぎないようだ。

 

日本1541

日本1541

         

ポルトガルと日本は同じ緯度

ポルトガルと日本は同じ緯度

 初日に訪れたリスボンの教会には、天正の少年使節の像が描かれていた他には、関係を示すようなものには接しなかった。

 コインブラという学問都市の郊外、貴族の館というホテルには白い砂の上に石を並べた日本風庭園があり、傍には竹林があり、筍が既に芽を出していた。

 

 葦(よし)の群生が各地にみられ、日本と同じく日よけに利用しているのは興味深かった。

 

 

 

ポルトガルという国

 人口は約1000万人、国土面積は日本の4分の一という小さな国である。そのためかポルトガルがニュースになることは少ない、例えば、国際政治で重要な役割を果たすこともないし、世界経済に大きな影響を与えるような重要な産業があるわけでもない。

 ポルトガルという国名は北部の商業都市Portoに由来する。英語の港を表わすportもここからきているとの現地にガイドの説明であった。そのため、古くから海に目を向けたらしい。1500年代の大航海時代にインドから胡椒を、南米から金や銀の財宝を持ち帰った。おそらく石見銀山の銀も得たに違いない。多くの財宝がイギリスやオランダのように、大西洋三角貿易などの新たな投資に使われていれば違った姿になったかも知れない。多くの金や銀は教会という宗教施設の装飾につぎ込まれた。そのためか観光で訪れる場所といえば、ロカ岬を除けば必然的に教会や修道院に限られてしまう。

ロカ岬

ロカ岬

 

ロカ岬

ロカ岬

 

教会

教会

 

修道院の内部

修道院の内部

 

 

 

 コインブラ大学は日本の安土桃山時代に創立されたという。世界でも有数の歴史のある大学である。30万冊の蔵書が保存されている。

 

 

 しかし、大学は古いことに価値があるわけではない。その後の歴史にどの様な役割を果たしたかが問われる。英国やドイツのような科学上の重要な功績は見られない。江戸時代の藩校に由来する日本の大学さえ、多くのノーベル賞学者を輩出している事実とつい比較してみたくなった。

交通システム

 日本に比べると、自動車の運転手のマナーは良い。横断歩道に人がいると止まってくれる。もっとも赤信号で渡る人が警官に見つかった場合罰金を取られるそうだ。場所によっては片側4車線もある高速道路でも、あおり運転をする姿は見かけなかった。これに比べて街の中は道幅が狭いうえに両側に駐車する。その間をバスが通り抜ける。渋滞も発生する。

4車線の高速道路

4車線の高速道路

両側に駐車

両側に駐車

 リスボンの地下鉄は日本の通勤電車並みの混雑で、スリが多いというので緊張せざるを得なかった。

 世界にはイギリスや日本のように、自動車も鉄道も左側通行の国がある。これとは反対にドイツやアメリカは、いずれも右側通行である。その中間型がフランスで、自動車はドイツと同じ右側、鉄道はイギリスと同じ左側通行である。

 なぜこのようなことになったか。最初に、イギリスが馬車の御者が座る位置が右側で左すれ違い際に左側に寄せたことから自動車も左側通行に決めた。ところがヨーロッパ大陸ではナポレオンが支配していて、イギリスと反対の仕組みにしたという。その後、鉄道の時代になると、蒸気機関車を発明して鉄道網を作ったイギリスが自動車と同じ左側にした。フランスはイギリスから鉄道技術を学んだので鉄道は左側、自動車は右側という折衷型になった。しかし、フランスでは同じ鉄道でも地下鉄は路面電車の延長という考えから右側になっている。世界にはこの三つの型しかないと思っていた。ところがポルトガルは違った。地下鉄も鉄道と同じ左側であった。新たな発見であった。

 

リスボンの地下鉄 

リスボンの地下鉄

         

ポルトの鉄道

ポルトの鉄道

ワイングラス

 春がまだ早いというのに、思いのほか緑が豊かであった。高速道路沿いにはいたるところで葡萄畑を目にすることが出来た。ワインは日常の飲み物のようで、レストランでは、水とともにワインが無料で供された。

 

 これまで訪れたヨーロッパの各国では、ワインのグラスに目盛り線が入っていた。20数年前に駐在したドイツでは、度量衡法という法律で目盛り線が義務付けられ、例えば150mlの線が入っていた。営業としてワインを客に提供する店は、この目盛り線までワインを注がなければ罰せられるし、反対に客はその線まで注ぐことを店に要求できる。日本の枡酒のように溢れるばかりに次いでくれる文化とは違う堅苦しさに感じたことがある。

 4年前に訪れたチェコのプラハ、昨年のクロアチアでも目盛線が入っていた。ドイツの法律がEU法に取り入れられたものと思っていた。

プラハのレストラン(2014)

プラハのレストラン(2014)

 ところが、ポルトガルやスペインのレストラン、ホテルで目盛入りグラスは見かけなかった。謎として残った。

 

スペイン、サンチャゴ

スペイン、サンチャゴ

       

ポルトのワイナリーで試飲

ポルトのワイナリーで試飲

 

ポルトガル語

 日本人が学んだポルトガル語を探すのも目的のひとつであった。タバコがその一つである。リスボンの空港の外に出ようとするとき、大勢の出迎えの人がいた。突然煙草の匂いがしてバスに乗るまで漂っていた。路上には吸い殻が多い。

 

写真はコインブラの町の中で見た煙草の看板

写真はコインブラの町の中で見た煙草の看板

 

 合羽は日本語化している。普通日本語は連濁といって「灰(はい)」と「皿(さら)」がつながると、後ろの言葉が濁って「灰皿(はいざら)」となる。しかし外来語の場合は、例えば「紙」と「コップ」を組み合わせても「かみこっぷ」で「かみごっぷ」とはならない。ところが、合羽の場合は「雨合羽(あまがっぱ)」と濁る。漢字も当てられ日本語化した言葉である。

 写真はコインブラ大学の学生が着ているカッパである。

 東京は「Tokyo」(英語)とか「Tokio」(フランス語)で表現される。ポルトガル語では「Toquio」であった。

 

ポルト空港

ポルト空港

 

6年ぶりの再会

 今回の旅は、初日のホテル到着時間が真夜中の1時、最終日の出発時間が早朝の4時というハードなスケジュールが組まれていた。多くの見学先はキリスト教会や修道院が多く、ゴチック建築だ、ロマネスクだと言われても事前の知識がなければ違いが即座に分からない。その上、街の歩道のほとんどは石畳で足に負担がかかってしまった。初日のリスボン、最終日のポルトの自由散策には参加せずホテルのベッドで横になった。

 

それでも、今回の旅はこれまでと違って思わぬ出会いがあり実り多い旅であった。ツアーの参加者は16名で、ほどなく顔を覚え打ち解けた。ほとんどの人がすでに仕事から離れた人で、中には校長先生、数学の教師、会社役員などさまざまであった。 

 4泊目のホテルでのことである。部屋のキーが渡されエレベーターに乗ろうとするとき、背後から「高田忍さんでしょう」と女性に呼び止められた。荷物の名札を見て確認したらしい。「歴史街道」「カモミールおいしい」「五味先生」と立て続けにキーワードを並べられたが誰か思い出せない。その時は患者会のひとりかもしれないと思った。

 夕食のテーブルで隣り合わせになった。年賀状を交換していると言われ、ようやく大阪の下町で開業されている医師であることを思い出した。6年前、歴史街道倶楽部で京都から若狭の小浜へ行くバス旅行に参加した。窓側の席に座っていると、後から乗ってきた女性が空いていますかと尋ね座った。「JRが遅れるといけないので、昨晩は京都駅近くのホテルに泊まったという」ことから会話が始まった。小浜への途中、郷里の湖西街道を走ったので説明をした。神宮寺や東大寺お水取の源などを訪ねた後、京都府と滋賀県の境の鯖街道を通って京都へ戻る途中、「一人暮らしですか」と尋ねると「主人がいます」との返答と共に、名刺を頂いた。そこには、医師と書かれていた。終末医療について質問するうちに、あっという間に京都に着き、新大阪まで話し続けだったと思う。それ以来年賀状の交換が続いている。

 それでも記憶力が衰えたせいか、名前が出てこない。一晩中名前を思い出そうとした。名前に「田」ついたはずだ。翌日のバスは6年前と同じく隣り合わせになった。ようやく思い出し名前を確認すると「よしこ」と読みますとのことであった。キリスト教信者にとって三大聖地の一つサンチャゴを見下ろす丘の上に立つ巡礼者の像の前で写真を撮った。

 翌日ポルトのワイナリーの見学が終わった所で、友の会の定例会で「老人医療について」というテーマで講演を依頼すると快諾していただいた。思いもよらない人に再会し、有意義な旅であった

(高田 忍)

ひと筆書きの冬の旅、北近江から若狭、丹後の宮津へ

ひと筆書きの冬の旅、北近江から若狭、丹後の宮津へ

 2月の3連休を利用して大阪から宝塚まで三日間の旅をした。

 

 大阪から宝塚へは30分330円で行けるところ、時計の反対廻りで北近江の余呉、若狭、丹後の宮津を三日で巡った。

 

 北びわ湖観光協会のボランティアをしている知人から、「ジビエの祭典」に誘われた。ジビエとは狩猟で得た天然の野生鳥獣の食肉を意味する言葉(フランス語)で、ヨーロッパでは貴族の伝統料理として古くから発展してきたが日本では一般的ではない。

 

 会場は滋県賀の湖北地方、雪深い長浜市余呉町であった。折角ここまで行くのであれば、敦賀まで足を延ばし初めて小浜線に乗ることにした。若狭で一泊、さらに丹後の宮津に泊まることに決めた。

 

余呉で地元料理

 余呉は湖北の山に囲まれた小さな村であるが、賤ヶ岳の合戦が行われ歴史の舞台となった地である。

 

 信長が本能寺の変でなくなった後、羽柴秀吉と柴田勝家その後継者を信長の次男にするか三男かを巡って争った。両軍は冬の間、二か月間にらみ合いを続け雪解けを待った。

 

 ボランティアの説明によると、先に動いたのは勝家であった。その時、大垣にいた秀吉が北国街道50キロを5時間という猛スピードで木ノ本まで駆け戻り、勝家軍を破ったという。相撲でも、がっぷり四つに組んだ場合、先に動いた方が負けることが多いと思いながら話を聞いた。相手の力を利用できるからだ。

 合戦の説明が終わると、料理が出された。前菜は地元の主婦が作った蕨などの山菜、小エビと豆、大根の漬物などの伝統料理であった。湖西に生まれた自分にとっては、昔懐かしい「菜」(おかずのこと)が沢山並べられ、母親の味を思い出しながら頂いた。

 メインの料理は熊、鹿、猪であった。

 この地方では猿を含めて害獣の被害が増えている。山に杉や檜を植林した結果ドングリが減り、動物が里に下りてきて、時には家の中に入り込むこともあるという。そこで、害獣の捕獲が許されている。

 熊は澄まし汁、鹿はしゃぶしゃぶ、猪は味噌炊きにしていただいた。熊と鹿は初めての経験であった。

 左が鹿の肉、右が猪の写真で牡丹のように盛り付けられている。

 県の職員の説明では生臭さを抜く秘訣は、全身に血が回らない内に瞬時に息の根を止めることであるという。味は、いずれもさっぱりしていて臭みはなかった。しかし、美味しいというほどでもなかった。

 

 雨模様のこの日は、あたりに靄がかかっていた。かつて何千、何万もの血が流されたところである。まるで墨絵のような世界であった。

 

三方五湖、湖畔の秘湯の宿
 北陸線余呉駅から近江塩津まで行き、敦賀行きに乗り換えた。小浜線は単線、二両編成でほとんどが無人駅であった。無人駅では先頭車両の運転士に切符を手渡して降りる。同じ放送を何度も繰り返すので、少し煩いように思った。

 宿は三方五湖の湖畔にあった。虹岳島(こがしま)温泉という秘湯である。

 宿は古い建物で、広い館内にまで暖房が行き届かず、またスリッパもなく足元が冷え、とても快適とまでは言えなかった。しかし、若狭湾で獲れた鯛や鰆の刺身、フグの天婦羅などの魚料理は新鮮で美味しかった。

 必ずしも交通の便が良いとは言えないのに、宿泊客十数名はいたと思う。会社の同僚と思われるグループ、若い夫婦連れ、年老いた親とその娘、そして自分のような一人旅などさまざまであった。送迎の運転手の話によると、福井の豪雪のニュースが流れ半数近くのキャンセルが出たという。

 

 翌朝、雨が雪に変わり無人駅で電車を待つのは寒かろうと心配したがホームには待合室があった。

宮津湾を臨むホテル
 小浜線の終点は西舞鶴駅であった。そこから東舞鶴駅まで行き、京丹後鉄道に乗り換えた。宮津駅で下車。

 

 ホテルの迎えシャトルバスは満員となり、予備の車が用意された。

 ホテルは宮津湾を臨む高台にあった。写真は8階の部屋から写したものである。

 夕食はバイキングで期待していたカニ料理もなく特徴はなく、大浴場に入り早々寝た。

 目を覚ますと一面銀世界であった。夜の間に降り積もったらしい。

 昨日は、駐車場の車が見みえたが、一晩で雪に覆われた。車の持ち主が苦労して雪を取り除いていた。

 電車の運休を心配して、早めにホテルを出ることにした。しかし、電車は遅れることなく動いていた。

 鬼退治で知られる大江山まで来ると青空がのぞいた。予定より一時間早く帰宅した。

 

 帰宅後、同じルートを一日で回れるか調べた。

 大阪駅7時45分発敦賀行き新快速に乗ると9時50分に着く。

 琵琶湖は東回りより、湖西線経由の方が景色を楽しめる。

 小浜線敦賀10時44分発に乗り、東舞鶴に12時50分に着く。同駅13時20分発福知山駅14時10分着、福知山線に乗り換え15時52分発、宝塚には17時50分に着く。

 普通列車は検札も来ないからといって、330円の切符で乗ることはできない。JRに切符には経由路線、この場合は福知山線と記載されているので、区間外の乗車は無賃乗車となる。

 正規の料金でローカル列車の旅を楽しむ方が良いと思う。

こんなに違う 冬の日本列島

こんなに違う 冬の日本列島

 東京では48年ぶりの寒波に見舞われた。1月27日、仕事で旅行する機会の少ない長女と伊豆方面へ旅をした。西宮の家を出るころは小雪が舞っていた。彦根、米原から関が原辺りは一面雪で覆われ白銀というより灰色の世界であった。

  ところが名古屋に近づくと雪もやみ青空が広がってきた。浜松を過ぎたあたりから、遥か遠くに富士山が見え始めた。 富士川を渡るとき青空をバックにした富士山を写した。

 

 熱海で下車。あたみ桜祭りが行なわれ、賑わっていた。一月に桜が咲いているのを見たのは初めてである。

 翌日、早咲きで知られる河津桜を見に行った。少し時期が早かったようだ。訪れる人は少なく、伊豆とはいえ肌寒く花見はやはり春に限ると思った。

上空からの写真 ― 二つの旅から 

上空からの写真 ― 二つの旅から

スロベニア・クロアチアのツアー(11月10日~17日)に参加した後、東京(10月20日~21日)へ出かけた。上空から見た風景を中心に拾い出してみた。

スロベニアとクロアチアはいずれもイタリア半島の東、アドリア海に面する国で、かつてはユーゴスラビアに属し、崩壊後内戦を経て独立した。

関西空港発フランクフルト経由で向かった。関空を飛び立つと北に旋回し琵琶湖上空から能登半島を経て日本海に入った。写真は安土城跡から琵琶湖西岸を写したものである。

1. スロベニア
スロベニアはおオーストリアの南に位置する国である。ブレッドという町に湖があり、島の教会からブレッド湖とアルプスを写した。

 

これは、空ではなく地下の写真である。世界で3番目に大きいと言われる鍾乳洞である。入口からトロッコ列車に乗り、約一時間歩いて見学した。

 

2.クロアチア

ドブロヴニクは海洋都市として栄えた。写真はスルジ山から写したものである。1990年代、ユーゴスラビアが崩壊すると内戦がおこり、セルビア・モンテネグロから攻撃を受けたが、市民の力で復興し、世界遺産に指定されている。

 

旧市街は城壁で囲まれている。湾の先に要塞がある。かつてオスマントルコなどからの侵入に備えて築かれたものである。要塞の一番上から旧市街を写した。空は曇っていたが、海の碧さは鮮やかであった。

写真はオーストリアからドイツに向かう上空から撮影した雲海に浮かぶアルプスの光景である。

 

3.東京
東京駅八重洲口のホテルの29階から写した東京駅前景である。このホテルの南側の部屋からしか見られない光景である。前方が有楽町方面である。プラットホームの屋根は灰色と思っていたが、緑色に塗られていた。左の高層ビルの先に、意外と近くに東京湾が見える。

 

天気が良ければ富士山が見られると思い右側の座席を予約した。上空10000メートルからの富士山である。火口もはっきりと見えた。はるか彼方に、雪に覆われた南アルプスと北アルプスが見えた。

関西ぶらり歴史散歩

関西ぶらり歴史散歩

最近訪れた関西の風景を写真でたどることにした。

兵庫:生野銀山
かつて銀で栄えた生野を訪れた。その日はイベントがあり、クラシックカーが展示されていた。三輪車から日本の産業の復興が始まった。

 

街には古い医者の建物が残っている。診察室の天井である。

江戸時代は天領で徳川幕府が支配していたが、明治には宮内庁が管理し、後に三菱に払い下げられた。鉱山の入口でフランス人の設計である。

採掘された銀の鉱石はこの道を通って播磨の港まで運ばれ船積みされた。

大阪:淀屋橋界隈
淀屋橋は江戸時代の豪商、淀屋に因んで名づけられた。写真は橋の上から北浜方面を撮ったで、かつては両岸に蔵屋敷が並び天下の台所として賑わった。

 

淀屋橋界隈には歴史的建造物が残されている。「友の会」の定例会の会場にもなる大阪市中央公会堂もその一つである。明治の株式仲買人岩本栄之助の寄付によって建てられたもので、来年で100年になる。

三階の特別室には日本神話の天井画が描かれている。

 

この付近には近代的なビルに並んで日本家屋が残っている。写真は幼稚園である。

付近には緒方洪庵の適塾もある。ここで日本の近代医学が始まった。

 

奈良:纏向遺跡と箸墓古墳
「まきむくいせき」と「はしはかこふん」と読む。纏向遺跡は三世紀に邪馬台国があったとされる場所である。近畿各地のみならず関東、東海、中国地方の土器が出土し古い日本の首都であったと考えられている。

 

纏向遺跡の近くには卑弥呼の墓という説のある箸墓古墳がある。前方後円墳の始まりである。

写真では木が生い茂っているが、当時は葺石という石で覆われていた。

この地域には多くの古墳がある。山の尾根を利用して造られたので、その向きは一定しない。前方後円墳の後円に葬られた大王の頭は常に北の方角に向いている。

 

滋賀:大溝城と清水山城
近江には信長が築いた水城が四つある。大溝城はその一つで、当時この地を支配していた浅井長政を討った後に築かれた。JR湖西線近江高島駅の東側にある。

この付近はかつて勝野津という港があり交通の要衝であった。万葉集にも歌われている。

 

珍しいものを見た。写真はサイフォンを利用した上水道である。太いパイプが山から引いた湧水を流し込むもので、細いパイプで各家庭へ送られる。今も使われている。
商人が住んでいた町である。道に真中に溝が流れている珍しい光景が残っている。

 

清水山城は鎌倉時代にこの地を支配した佐々木氏の城であった。戦国時代になって湖北と湖西高島を支配していた浅井長政の最後の砦となった山城である。攻め寄せる信長軍と戦わずして一日で落城した。
石垣はなく土塁であった。

 

主郭からは琵琶湖が一望できる。正面は伊吹山でその左に浅井長政の居城小谷城があった。

近江商人の町を訪ねて

近江商人の町を訪ねて

日野祭

 

 日野は、近江八幡、五個荘と並ぶ近江商人を輩出した町である。現在も商社や百貨店はじめ多くの企業が活躍している。

 5月3日は日野祭の日である。午前11時に馬見岡綿向神社に16基の曳山が集まった。日野町は滋賀県で唯一残る町で人口22000人である。これだけの人口で16基の曳山を維持する地元の人たちの苦労は並大抵ではないと思った。いずれも1700年代から1800年代に作られた。


 曳山には、かつてこの地を治めた蒲生氏郷公や井伊直政、直虎など地元にゆかりのある人の像が掲げられていた。中には天秤棒を担いで行商をした近江商人の姿もある。

 近江商人の考え方は三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)といわれ、現代に通じる経営理念である。近江に本宅を置いて関東や東北で商売をしていた。

 曳山が神社から御旅所まで向かう本通りに面する家々では「桟敷窓」があった。板塀を一部切り取り、中に桟敷を作って曳山を見る。この土地ならではの光景である。

 

ある家の中を覗き込むと屏風が飾られ、その前で伝統料理を味わいながら祭りを楽しむようであった。

 

 

五箇荘

 

 ある商家には天秤棒が置かれていた。近江商人が天秤棒で運んだものは、麻などの商品ではなく商品カタログだという。近江商人は富山の薬売りの様な小売商ではなく、卸商であった。その頃から総合商社の役割を果たしていたという。

 近江商人の研究家、小倉栄一郎氏によると、地場産業が早くから発達していた。近江八幡の蚊帳、畳表、日野の塗椀、売薬、五個荘の麻布である。いずれも原料は他国産で、これを調達して農家に内職に出した。内職は分業で行われ、これを製品に仕上げ、問屋が販売するという仕組みが出来た。

 

 

 私小説家として知られる外村繁は五箇荘の呉服木綿問屋の商家の生まれである。生家には、家訓が展示されていた。

第一条 業務に勉励し、商店の利益増進を図るべし(売り手よし)

第二条 得意先は勿論、取引先下職に対しても言語動作を慎み大切に応接すべし

 

 外村繁は高校の大先輩である。その作品に昭和31年の真文学賞を受賞した「筏」がある。このほか「草筏」「花筏」がある。生家の門前に花筏が植えられていた。

 

 古い町並みが残され、街の中を流れる川には鯉が泳いでいた。また川には花壇が置かれ、季節の花が咲いていた。

 

関西の桜巡り

関西の桜巡り
万博記念公園(2017年4月9日)

先週来の雨が上がり、日曜日と重なって大勢の人で賑わっていた。曇り空で、少し物足りない気持であった。

花の丘のチューリップが咲き始め、ここでも多くの人が写真を撮っていた。

 

西宮・夙川堤の桜(4月10日)
この日は入学式と重なり、孫と撮影する風景が見られた。曇り空で、花の美しさが今一つ引き立たなかった。

海津大崎(4月14日)
海津大崎を訪ねた。海津大崎は琵琶湖の一番北にある桜の名所である。雲一つなく絶好の花見日和となった。いつもならJR湖西線は大津京でほとんどの乗客が下りるところ、マキノ駅まで混雑していた。
海津には江戸時代に加賀藩の蔵屋敷がおかれていた。日本海の海産物を、大津を経由して京、大坂へ運ぶ物流拠点の一つであった。
駅を出て湖の方へ向かうと大崎が見え、遠くに竹生島が浮かぶ。空と湖との青を背景にした花は見事であった。

江戸時代に築かれた水辺の石垣の景観もよく、いつまでも残したい日本の風景である。

花の旅(4月2日~4日、東京と静岡)

花の旅(4月2日~4日、東京と静岡)

 

靖国神社の標本木

初めて靖国神社を訪れた。参拝が目的ではない。桜の標本木を見るためである。4月2日のことである。この日、気象庁は東京の桜の満開宣言を出した。3月の寒さのせいか全国的に開花が遅れたが、今年一番早く桜の開花宣言出されたのは東京で3月21日のことであった。開花宣言は気象庁が標本木を観察して出される。桜の種類によって開花時期は異なるのでソメイヨシノを標本にする。東京は靖国神社、大阪は大阪城の西の丸庭園のように、都道府県ごとに決まっている。多くの場合、各地の地方気象台にある桜である。

4月2日は日曜日と重なり、多くの人で靖国神社は混雑していた。

 

 

境内には、他にも沢山の桜が咲いていたが、目にとまったのは幹の根元から咲いている花びらであった。その生命力に感心した。

 

九段坂と千鳥ヶ淵

 靖国神社界隈の通りには街路樹として桜が植えられている。バスの中から花見をしていると、突然スカイツリーが飛び込んできたので思わずシャッターを切った。

 

千鳥ヶ淵にの桜も咲き揃い、多くの花見客で賑わっていた。

 

六義園(りくぎえん)

 続いて向かったのは六義園である。関西ではあまり知られていないが、多くの人が入場券を求めて長蛇の列を作っていた。六義園は五代将軍徳川綱吉の信任厚かった柳沢吉保が築いた庭園で、明治になって三菱の岩崎弥太郎の別邸になった。JR駒込駅近くにあり、東京に、こんな広い空間が残っていることに驚いた。

 

桜は一本の枝垂桜だけで、そこに花見客が群がりカメラに収めていた。翌日の朝、NHKが現場中継をしていた、

園内にはさつきも植えられていた。ひと月後には、楽しませてくれるであろう。スミレが咲き始めていて、春の訪れを感じさせた。

 

 

椿山荘(ちんざんそう) 

一度は訪れたいと思っていたのが椿山荘である。萩出身の藤田伝三郎が事業を起こした藤田観光が経営しているホテルの庭園である。同じ萩出身の山縣有朋公の庭園であった。一万五千坪の庭園に5千本の樹木が記が植えられている。その名の通り椿が100種類、1000本も植えられている。椿はシーズンが終わりに近づきつつあった。

園内には樹齢500年という椎の木が神木として祭られていた。

桜はいずれも満開を迎えていた。園通閣という三重塔と並んだ桜がひときわ目立っていた。園通閣は元々広島賀茂郡にあったもので、明治になって廃仏毀釈で破壊されそうになったのを移築したお寺である。

庭園の中には秩父山系からの湧き水が出ていて、夏には蛍が飛び交うという。

 

神田川 

椿山荘を一歩外へ出ると神田川が流れている。南こうせつとかぐや姫が歌ったことでも知られている。川沿いに全長二キロにわたって桜が見事に咲いていた。

 

 

伊豆高原「さくらの里」 

伊豆は東京より温かい地であるからと満開を期待していたが、ようやく咲き始めたばかりであった。伊豆半島東海岸に沿って南下し、伊東温泉を過ぎると大室山がある。その麓に「さくらの里」があった。観光目的で作られたようだ。大室山には樹木はなく、野焼きされたあとであった。

 

伊豆四季の里公園 

当初の旅程では桜並木を観る予定であったが、開花が遅れているということで、急遽「伊豆四季の里公園」に変更された。城ヶ崎海岸にある公園で、はるかかなたに大島を見ることが出来た。花壇に四季折々の花が植えられていた。

 

 

下はようやく咲き始めた桜である。海の前方に大島がある。

 

帰りに店で花の種を買い求めた。

 

三嶋大社 

富士山の湧き水がでるという三島には三島大社がある。創建された時代は明らかでないが、源頼朝が尊崇した神社と伝えられている。池の淵にある枝垂桜が咲き誇っていた。


富士山を背景に撮影しようと思ったが、ここからは富士山は見えなかった。下は車窓から見た富士山である。

ここには樹齢1200年という金木犀が生き残っていた。

 さいごに駿府城

 徳川家康が引退して後すごした駿府城は開花が遅く一本だけ寂しく咲いていた。